うまく傘を閉じられなくてごめんね

『……

 それは、廻の昔からの癖だった。背中側からぎゅっ、と私を抱きしめて、彼の腕に抱え込むことが、廻は大層に好きらしい。まだ施設に居た子供の頃からのその癖に、どうして? と一度問いかけてみたら、「こうしていれば、誰にもお前を傷付けられないだろ」と、尤もらしいことを彼は言って、私もそれに納得していたけれど、成長していくにつれて、そのスキンシップには他の意味が伴っていったように思う。庇護欲から始まった彼のそれは、いつしか、独占欲の現れになっていた。体格差もそれ程に目立たなかった子供の頃を過ぎて、中学生から青年へ、そうして大人になるにつれて、廻は身長にも体格にも恵まれて、私はすっかり、彼の両腕にすっぽりと収まるようになってしまった。そうして、私を両腕に抱きかかえて、私の頭に顎を乗せて、頬を擦り寄せるように、大切に、大切に、優しい手付きで、これは俺のものだと主張する彼の行為が、私は廻の心のやわらかな部分に一番近い場所に抱え込まれている、と実感できるあの時間が、私も大好きだったのだ。互いの自室でリラックスしているときでも、デスクで仕事をしているときでも、廊下で鉢合わせたときでも、「」と穏やかな声色で名前を呼ばれて、ふわり、と彼の香りに包まれながら、腕の中に、膝の上に引き込まれるあの時間は、私にとってこの上なく掛け替えのないものだったし、廻にとっても、それは同じだったのだろう。

『……ねえ、廻』
『……どうした、
『きっとね、ずっと、ずっと、こうしていてね……私のこと、離さないでね』
『……当然だろう』

 そうして、そんな幼い癖は、……今も、変わることがないのだ。

「……
「なあに、か、い……」
「……っ、悪い、つい、癖でな……」

 私の名前を呼びかけながら、こちらへ来い、と。伸ばした両腕の、……肘から下が失われていることに気付いた彼が、はっ、とした顔で、表情をくしゃくしゃに歪めながら俯くそんな仕草も、……もう、何度見たことだろう。すっかり見慣れてしまったその仕草に、私も、どうしようもなくやるせない気持ちに、なってしまう。
 セントラル病院へと、警察の手で秘密裏に運び込まれた廻は、現在、精神面の不調を理由に、入院患者としてこの病棟に匿われている。ナガンさんが現在、集中治療室で懸命に生き永らえようと足掻いているこの病院に、私が監視兼ヒーローや病院側・警察側との伝達役として留まったこともあり、一箇所に纏まっていたほうが対処のしようもある、という結論にヒーロー一同は至って。現在、私は廻の傍でひとり、彼の看病を続けていた。看病、と言っても此処は病院なのだから、私よりも適任の医療従事者がいるわけで、私の役目は少ない。私の個性は病院側でも把握しているから、どうしても廻が腕の痛みを訴えた際には、私が麻酔として個性を使ったり、あとは、廻が万が一にも暴れ出さないように、医師や警察、ヒーロー達が廻の元を訪れた際には、それに同席したりと、基本的には廻のメンタルケアが、当面の私の仕事だった。……とは言え、今は時々不安定なこともあるけれど、廻は基本的に、冷静で思慮深いひとだから。緑谷くんがナガンさんと廻の契約を引き継ぐ、と申し出てくれた今、再会したあの瞬間よりは、幾らか廻も精神的に安定してきているように思う。医師や警察との問診、問答にも、抵抗なく応じていたし、私が居なくても大丈夫なようにも、表面上は思えてしまうけれど、……多分、それでは駄目なのだ。私が廻に、付いていないと、ちゃんと彼を見ていないと。……彼が、何処かに消えてしまう、……連れさられてしまうんじゃないか、と。……どうしてか、再会が叶った今でも、私はそんな風に、思ってしまうのだ。

「……腕、痛い? 麻酔、しようか?」
「いや……痛みは、ない。腕には、な……」

 身体の一部を欠損したひとは、稀に失われた部分が痛むような錯覚を覚えることが、あるらしい。その症状を幻覚痛、と呼ぶのだと、いつだったかに教えてくれたのは、他でもない廻本人だった。……そんな彼が、その痛みに悩まされる日が来るなんて、あの頃は夢にも思わなくて。普通の麻酔では、存在しない痛みに効くはずもないのだけれど、どうしてか、私の麻酔だけは、幾らか痛みを和らげてくれるのだと彼は言う。もしも、それが、私の存在が彼の鎮痛剤になれているということだったなら、どれだけ良いことだろう。もしも、そうだったなら、……私は、私が持って生まれたこの個性を、廻の為に授けられた力だったと思うことが出来るから。でも、きっと本当は、そんな自負なんてどうでもよくて、……私は、こんな風に廻が悲しげに俯いてしまうのを、少しでも、どうにかしてあげたかっただけなのだ。
 私がセントラル病院、……廻の元にこのまま留まることを勧めてくれたのは、私の師であるジーニストさんだった。巨悪への最後の切り札とも言うべきこの作戦に、素人同然の私を加えてくれたのだって彼なのに、……このまま、ジーニストさんの厚意に甘えていいのだろうか? という懸念は、確かにあって。……確かに、私が現場に出向いたところで、出来ることは少ない。先の戦いだって、“偶然に”、ギガント・マキアへの対抗策として、私の個性が有効で、その場で私が、“ジーニストさんとタッグを組めて”、更には、“雄英生徒の彼等が事前にギガント・マキアに麻酔を仕込んでくれていた”という、私の個性にとって運が良い状況が続いたからこそ、少しは役に立てた、というだけの話で。二度、同じ策が通じるとは決して限らなかったし、……次は呆気なく、殺されてしまう可能性だって、十分にあって。

『……だからこそ、きみは残れ』
『で、ですが……!』
『きみは、ヒーローになる気がないのだろう。だが、その男を助けたいのだろう? ならば、其処を離れるべきではない。……この状況、いつ何時に誰が後悔することになるか、分かったものではないからな……』
『……それ、は……』
『それに、私は何も作戦から降りろ、と言っているわけではない。、きみはヒーローではない。だが、きみには死ねない理由があり、諦められない信念がある。コスチュームを着ないきみだからこそ、決して糸を絶たれない理由があるのだろう。……だから私は、きみを此度の作戦にサイドキックとして参加させたのだ』
『……ジーニスト、さん……』
『伝令役も、重要な仕事だ。傍受や漏洩の可能性が高い今となっては尚更に、信頼の置ける連絡役は、一人でも多いほうが良い。……必要に迫られれば、戦闘に参加してもらうこともあるだろう。以上が私のオーダーだ、……やれるな? 
『……っ、任せてください!』

 ……そう、背中を押して貰ったこともあって、私は少しでも、廻の支えになりたいと思う。最早、後ろめたさなんて何処にもなくて、今私は、廻のためだけに此処に居て良いのだと思う強さを、私はジーニストさんから貰った。……だけど、そうして廻がいない間に、私ばかりが外の世界を得てしまったことに、幾許かの罪悪感もあって。……どうしてあげれば、いいのだろう。私には何が出来るのだろう、と。そんな、自問自答ばかりを、私は繰り返している。

「……廻、中庭に散歩に出てみる? 少しだけなら、外出の許可も降りてるし、此処には流石にヴィランも、気軽には近付けないから……」
「……いや、そうとも限らないな。これだけ治安が悪化しているんだ……オヤジの居る病院だって、安全地帯とは言えない……」
「……廻、焦る気持ちは、分かるけれど……」
「……分かってる。俺が今此処で慌てたところで、事態は動かない……」

 八斎會が解体された今、廻は若頭ではないし、お父さんは、組長じゃない。それでも、あなたは、親父、と、あの優しい手に縋るように、尊敬を込めてその名を呼ぶのだ。……それは、私だって、今すぐにでも会わせてあげたい。でも、会わせたところで、今の廻には、お父さんの意識を戻してあげることだって出来なくて、そんな状態での再会は、一方的な謝罪は、彼の最後の寄る辺を呆気なく手折ってしまうんじゃないかという、不安もあって。……それに、実際問題、この病院から廻を連れてお父さんの場所まで私が連れて行くのは、難しいものがある。廻の言う通り、今の世間の治安は最悪で、身体の自由も利かない廻を私一人で連れていれば、格好のカモになってしまうだろう。ジーニストさんの元で個性訓練を受け、戦闘向きの個性じゃない私は、彼から体術の類も少しは教えを受けていたけれど、それだって、廻と比べたら、ずっと弱いのだ。大勢に囲まれたりしたならば、私には廻を護りきれない可能性だってある。……勿論、そんな打算的な理由だけじゃなくて、私を信じて廻の傍に居させてくれているジーニストさんとの約束もあるし、……私の独断で廻を連れて行くよりも、緑谷くんの言葉に賭けてみたい、と思った、という理由も、あったのだ。

『……謝りたい、というその気持ちをエリちゃんにも向けられることが出来たなら、僕がその人に、治崎を絶対に会わせる。……僕は治崎に、そう言いました』

 大前提として、廻は脱獄犯の囚人だ。世界がこんなことになっても、それだけはどうしたって覆らないし、覆して良いことではないと分かっている。だから、もしかすると、緑谷くんの一存ではどうにもならなかったり、ヒーローや警察がその盟約を反故にする可能性だって、あるのかもしれない。……でも、もしも緑谷くんが言ってくれたその言葉通りに、未来が変わるのならば。それは、私にとってこの上なく、幸福な結末だった。そんなの、大人のエゴでしかなくて、エリちゃんは廻からの謝罪なんて欲しくないのかもしれないし、廻と対面すること自体が、彼女を傷付けるかも知れなくて、その再会は、今を生きる彼女に、影を差してしまうかもしれない。……でも、私はどうしようもなく、そうなってほしい、と思ってしまった、望んでしまったのだ。私は、廻のことが大好きで、エリちゃんのことも大好き。私には、どうしたって引き合わせることが出来なかった、私の掛け替えのない二人の手を、もしも緑谷くんが繋いでくれたなら。廻が、廻の意志で、彼の決断、結論で、……エリちゃんにしたことを、悔やんでくれたのなら。……私にとって、こんなに嬉しいことはなかったから。その結末が、正しく訪れてくれるのかは、まだわからない。私だってそんな夢物語を完全に鵜呑みにしたわけじゃない。……それに、今の緑谷くんを見ていると、お父さんと離別した頃の廻を、思い出す。防波堤のギリギリで、必死になってひとりで立って、虚ろな目で空を見ている彼は、遂にオールマイトまで振り切ってしまったのだと、ジーニストさんからの定期連絡で、私も聞き及んでいて。そんな彼に、これ以上の荷物を背負わせてはいけないと、私にも分かっている。私はヒーローじゃないから、きっと私に緑谷くんを助けることは出来ない。……でも、彼が指し示してくれた可能性を、私、護りたかったのだ。おひさまのしたで、私が廻とエリちゃんの手を引いて、お父さんも、針くんや入中さん、音本さんたちも、みんなで、笑って、って。……そんな明日を、私は今でも、どうしようもなく、夢見てしまう。

「……廻」
「どうした、……」

 少し背もたれを起こした病院のベッドの上、マットレスに背を預けながら俯く廻の傍に歩み寄って、ぎゅう、と力いっぱいに彼を抱きしめてみる。……きっと、反射的に抱き締め返そうとしてくれたのであろう腕が空を掻いて、それはやがて、怖々と私の身体に添えられた。廻の腕は微かに震えていて、廻に触れられていない私の背中は、ひどくさむくて、さむくて、……それでも、私は平気だ。だって私の背には、あなたが羽織らせてくれた、ジャケットがある。

『……コスチュームを支給することも出来るが、どうする? タイトなジーンズは気が引き締まるぞ。強化デニムを使用しているから、安全面も十分だ』
『コスチュームなんて、分不相応な気がしますが……じゃあ、スキニーだけお願いしてもいいですか? 肌を露出する危険がなくなるのは、私としてもありがたいので……』
『承知した。……ジャケットはどうする?』
『え?』
『見たところ、そのモッズジャケットは、きみのサイズに合っていないな。メンズアイテムだろう? 着丈も袖丈も身幅も余っていて、トータルバランスから見ても不格好だ。……そうだな、デニムのジャケットも此方で新たに用意しよう』
『……いえ、これは、このままでいいんです』
『……何か、こだわりが?』
『はい。……これは、このままがいいんです、大切なものなので』

 あなたと離れていた間も、それだけが私の支えだった。だってこれは、私が、あなたと生きていたことの、他でもない証明だったから。このジャケットには、まだあなたのぬくもりが残っているなんて、とうに私の錯覚に過ぎないと分かっていたけれど、……今はもう、目の前にあなたがいる。それだけは、錯覚なんかじゃないのだ、……確かに廻は生きて、私の目の前にいてくれる。もうあなたに抱きしめてもらえないなら、私が代わりに、あなたを抱きしめるよ。もうあなたがこの服に袖を通せなくとも、私が腕を通すよ。あなたがまっすぐに歩けないなら、私があなたの背を押してでも、その場所に連れて行ってみせる。……絶対に、私は諦めない。誰に何を言われようとも、例え石を投げられ、批難されたって、庇って、護って、あなたのことを、わたし、きっとしあわせにしてみせる。あなたが私に、かつて、そうしてくれたように。

「……生きて、廻。私といっしょに、生きていて。ぜったいに、幸せに、なって」

 するり、と脱いだ、私には大きすぎるジャケットを、すっかり冷えてしまったあなたの肩に羽織らせると、廻は呆然を私を見上げていた。……やっぱり、その服はあなたに一番似合うね。震える瞳で不安げに、遣る瀬無く私を見つめるあなたに、私は呪詛を掛けているのかもしれない、苦しめているのかもしれない。一度は私を殺したことを、きっと悔やんでいるあなたに、一緒に生きて、なんて。この上なく残酷なことを、言ってしまっているのかもしれない。……それでも、私はどうしても諦められないのだ。……あの日、夢物語だと諦めてしまっていた、私が本当に欲していた未来を、私はもう、二度と諦めないし、手放さない。 inserted by FC2 system


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