秘密をまぜても美味しくならない

 猫を助けようとして脚立から転落して、その拍子に捻った足は案の定、捻挫していた。蒼也くんが受け止めてくれたから捻挫程度で済んだけれど、もしも床に叩き付けられていたのなら、骨が折れていたかもしれないと思うと、ぞっとする。……ちょっと、自分のことを過信しすぎていたかもしれないなあ。ボーダーで戦闘員として認められて、A級部隊の隊長まで上り詰めたとは言えども、生身の私は只の女子大生なのだという自覚が足りていなかったかもしれない。……それどころか、本来の私は“一般的な”成人女性よりも身体能力では、多分、よほど劣っているのだと、私はすっかり忘れてしまっていたらしい。

 幼少期、“強化視覚”──サイドエフェクトを発現させていた私は、視覚情報量を脳が受け止めきれずに頭痛を起こしたり発熱したりする、ということがままあった。現在、サイドエフェクトの存在が判明し、視覚情報をある程度遮断することで、自衛することが出来るようになったのもあるし、大本の原因が判明したことで精神的に楽になったからか、“揺り戻し”を起こしても取り乱すことは少なくなったけれど。……昔、未だ原因が分かっていなかった頃は、何が発作の引き金を引いているのかも分からなくて、私は両親から、色んなことを制限されて育ったのだった。それ自体については、両親も私を守るためだったのだと自覚しているし、流石にそれで逆恨みするほどまでは私も幼くはない。
 けれど、運動などは、その最たる例で、体育の授業なんかは基本的にいつでも見学だったし、ボーダーに入隊したばかりの頃は、皆に合わせてグラウンドを走る事すらも困難だった。副作用の“揺り戻し”の原因には、元々私の三半規管が人よりも弱い、というのもあるらしく、また、16歳まで運動とは縁遠い生活を送ってきたことで、人並みよりも劣った体力しか持ち合わせていなかったため、それも悪影響になっているらしい。だから、このままではいけないと思って生身の身体にも多少は体力を付けようと、走り込んだり筋トレをしたりは私もしているのだけれど、体質なのか、……未だ、効果の程は薄く、……そんな様なので、トリオン体時に“強化視覚”を乱用しすぎると、生身に戻ったときに反動で立っていられなくなるようなことも、今でもある。……そういうハンデからも、トリオン体に換装している間は逃れられるのになあ、と思うと、この体をやっぱり不便だと思うし、だからこそ現実逃避のように、無意識のうちにトリオン体の感覚のままで、日常生活を送ってしまっていたりもするのだと思う、……まさに先日、怪我をしたときみたいに。

 私に長年貼られていた“病弱”というレッテルは誤りだったものの、かと言って、決してフィジカルが優れているわけではない。生身での運動神経は、トリオン体においても多少は影響するというのに。
 ──以前、ボーダーに入隊したばかりの頃の私は攻撃手のポジションに付いていて、けれど、私の間合いでは、周囲の攻撃手とランク戦で戦って勝つのは難しかった。だから、スコーピオンのブレードを足から延ばして射程を広げてみたり、サイドエフェクトを利用してフィールド全体を把握した上で敵までの最短コースを見つけ出してから、グラスホッパーを交えたパルクール運動で間合いまで強襲を掛けた後に、足で薙ぎ払ってみたりと、私なりに戦い方も色々と試行錯誤をしてみたものの、……生身でそんな動きをすれば誰だって前後不覚になる、というほどの激しいアクロバットは、当然ながら生身に戻った際の“揺り戻し”も大きかった。だからやっぱり、それらは私に適した戦術とは言えなくて、しかしながら、私はトリオン量と戦略には人一倍に恵まれていたので、弾系のトリガーに主武装を持ち換えて、射手を経て、現在は中距離万能手、というポジションでの唯一性を確立させている。

 ……あの当時、周りは「仕方がないよ」「は女の子だし、小柄なんだから」「よく頑張った方だ」って、みんなそう言ってくれたけれど、どれだけ慰めの言葉を受けても、私の目には、そんな理由の幾つもを弱さの言い訳にはしなかった幼馴染の姿しか、映っていなかった。
 攻撃手を断念したことに未練はないし、射手の立ち回りは私に最も向いていると思っている。けれど、……そう、理屈では分かっていても、ほんとうは。私の中には「逃げた」という確固たる自認が、残ってしまったのかもしれない。

 ──幼少期、運動も外遊びもまともに出来なくて、公園で遊んだりが許されるのも、蒼也くんと進兄がいっしょにいるときだけだった。
 だから、それ以外の時間はずっと、私は本を読んでいた。何も出来ることがないからと、本を読んで勉強していた時間の積み重ねが、私の指揮能力の地盤を築いている。他のひとのように運動は得意じゃないけれど、知識面に関しては、広くて深い方だとは思う。勉強しかすることがなかったから成績も悪くなくて、六頴館にも難なく編入できたし、親の目が厳しかったからこそ立ち振る舞いにも気を付けていたから、優等生だったのだろうという自覚もある。今はもう、学業よりもボーダー優先になったから、特別に成績がいい、なんて言うほどでもないけれど。

 “強化視覚”というサイドエフェクトは、私に広い視野を与えて、やがて、私の持っていた知識は、指揮能力としてボーダーで開花した。サイドエフェクトを用いることで戦場全体を俯瞰して、相手に対してリードを取りつつも、仲間に細かな動きやガード役は任せて、自分は中距離からの砲撃に徹する、という今のスタイルが、私達の戦いはボーダーという組織における集団戦である、という部分に重点を置いた際に、それを前提とした上での“”の運用として最も正しい、という風に、今の私は考えていて、実際にその戦略にはA級4位という結果も付いてきている。火力役と指揮官、それが私の役割として最も適していると思う。
 ……けれど、それでも、まだ彼には届かないのだ。
 此処まで来てもまだ、蒼也くんは私よりも前を歩いている。小柄で攻撃手に向かないと言われて納得してしまった私とは違って、自分の持ち物を活かして攻撃手2位まで上り詰めて、彼は堂々と背筋を伸ばして歩いている。……隊長としても、戦闘員としても、私は未だ、蒼也くんに遠く及ばない。


 ──怪我をしたものの、戦闘体に換装すれば任務には差し支えないし、日常生活もトリオン体で送っていれば、特に痛みが生じることもない。流石に寝るときは、生身に戻るけれど。だから、怪我をしてから暫くの間、私は基本的にトリオン体での生活を送っていた。蒼也くんからは無茶はやめるようにと何度か言われたけれど、そうは言っても、彼も隊長職の忙しさは分かっているし、戦闘時以外でのトリオン体の使用が規則で禁止されているわけでも無いので、大丈夫だよ、と私が笑顔で応えると、渋々ながらも蒼也くんは見逃してくれた。
 ボーダーに所属してから数年、トリオン体での快適さなど、今更感動するようなことでもないと思っていたけれど、生身の体を負傷している今、なかなか癖になるものだと思う。足の痛みはないし、まっすぐに歩けるし、サイドエフェクトに気を遣わずに生活できるし、急な頭痛も起きないし。視覚情報が多すぎる上に暗くて暗視能力も機能してしまうため、普段は映画館などには怖くて行けなかったけれど、トリオン体でならまだ平気かもしれないと思う。サイドエフェクトをオフに出来るわけじゃないから、脳が混乱するのは変わらないだろうけれど。……遊園地の絶叫系アトラクションとかも、部下に強請られているので連れていきたいのに、サイドエフェクトの都合で連れて行ってあげられなくて心苦しく思っていたものの、トリオン体でなら平気だったりするのかな、とも思うし。

「……ずっと、このままだったらいいのにな……」

 蒼也くんが深夜の防衛任務に出ている夜、明日の朝に帰ってくる彼においしい朝ごはんを食べて欲しくて、遅くまで朝食の仕込みをしていた。任務の状況次第で早めに帰ってくることになっても、すぐに食べられるようにと、ひとまず、寝る前におにぎりと豚汁を用意しておく。おにぎりの中身は、今日はおかかにチーズを混ぜて、豚汁は野菜もお肉もたっぷりの具だくさんにした。お味噌汁でも良かったけれど、任務明けの疲労回復には、豚肉でビタミンをたっぷり摂ってもらおうと思ったのだ。
 ──それから、数時間後。早朝に起きだした私は、蒼也くんがまだ帰っていないこと、テーブルの上に置いたおにぎりがそのままになっていることを確認してから、顔を洗ったり身支度を整えて、トリオン体に換装してから再びキッチンに戻る。トリオン体だと、睡眠時間が限られていても眠気に負けずに済むから、ごはんを作る時間が増えて便利だ。蒼也くんは徹夜明けでもがっつり食べられるひとなので、私には些か重いけれど、まあ蒼也くんならぺろっと食べるだろうからなあ、なんて。とんかつとエビフライをじゅうじゅうと揚げながら、あとはどうしようかなあと冷蔵庫の中身に思いを馳せる。ゆでたまごを作り置いたのがまだ残っているから、それはエビフライ用にタルタルソースにして、ポテトサラダを作ろうと思っていたけれどマヨネーズ系が被ってしまうから、ブロッコリーをナムルにして副菜にしようかな。あとはもう少しで白いご飯が炊けるから、それと、キャベツを切って、……おにぎりは仮眠から起きたときに、お腹が空いたら食べてもらうとして、それならお昼用にも少しおかずを作っておいた方が、いいかな。豚肉の生姜焼きを作っておこうかな、でも、豚汁をたっぷり作ったから多分お昼にも食べられるし、とんかつも揚げたのに豚が被りすぎのような気もする。どちらかというと、お魚のほうがいいんじゃ? ……ブリ大根とかにしようかな、うん、それがいいかもしれない。それで、ブリ大根を煮ている間に、カレー風味の炒め物とかも、作っておこうっと。

「……あ、もうこんな時間……早く作らないと、蒼也くん帰ってきちゃう……!」


「…………」

 ──その日は深夜シフトで防衛任務に出ており、俺が家に帰る頃には、既には大学に向かった後だった。俺は今日、授業がないので、一度帰って仮眠してから夕方にでも本部に出向くだけの余裕があるが、は大学の方が1コマ目から出席だと言っていたので、とっくに家を出たのだろう。……足を負傷している以上、きっとはトリオン体に換装して大学に向かったのだろうな。彼女ならそうするのだろうということが目に見えているからこそ、登校の時間までには帰ってきて、学校まで付き添ってやりたかったが、……そう思ったところで、近界民が俺の都合を待ってくれるはずもなく、俺はを送ることが叶わずに、帰り着いた自宅のリビングで彼女の残したメモを険しい顔で見つめている。「蒼也くんへ。防衛任務おつかれさまです。冷蔵庫にとんかつとエビフライがあります。トースターで温めて、エビフライはタルタルソースで食べてね。お鍋に豚汁があるのでそれも温めて、炊飯器にご飯が炊けているので、空になったらコンセントは抜いておいてください。他に副菜とカレー炒め、小鍋にブリ大根もあるのでそちらはお昼にでも食べてください。お昼から本部に行くときにはおにぎりを持って行ってね。より。」……丸っこい文字で長々と書かれた猫の絵柄のメモの切れ端に、盛大な溜息が出る。……なあ、これは、何時まで起きていて、何時から作った料理なんだ? とそう聞きたくても、本人が居ないのだからどうしようもない。……また、寝不足で大学に行ったのか。トリオン体に換装しているから平気だと、怪我の功明と言わんばかりの言い訳が出来てから、の行動はエスカレートするばかりで、最近はシフトと大学の授業が些かすれ違っているばかりに、直接聞く機会もあまり見つけられなくて、いつも家に帰ると、こうして山盛りのご馳走が作られている。

「……いただきます」

 空腹を訴える腹は確かに、ぐう、と良い香りに誘われているのだが、……なんだか、彼女自身を食い物にしているようで、の飯はいつも通りに美味いが、今日は何処となく胃が重くなる。胃もたれなど食い過ぎたところで無縁なはずなのに、……何なのだろうな、この面白くない気持ちは。間違いなく、彼女が俺のためにしている行動なのだろうに、贅沢者めと諏訪たちにも言われたが、……それでも、やはりこのままではよくないように思う。

「……ああ、そうか」

 ──確かに俺は、食事をするのも好きだし、の作る飯も好きだが。

『──蒼也くん、美味しい?』

 ──いつも、そう言って、穏やかに眦を下げて微笑む彼女の向かいに座ると、いつもよりも食欲が沸いて、飯が美味かったのだ。

「……お前は、俺の母親にでもなるつもりか? ……」

 俺が彼女に望んでいるのはそんな関係ではなくて、俺は炊事役が欲しかったわけでも、家政婦を雇ったわけでも無い。只、俺はとの日々を少しでも隣で過ごしたいと思っただけだった。……家で食うの作った食事が確かに一番旨いが、大学の学食でも、本部の食堂でも、玉狛や諏訪の家で木崎の飯でも、部下たちを連れて焼肉でも、同い年の奴らも誘って居酒屋でも、の好きなカフェでも、俺の好きなカレー屋でも、ケーキ屋でも、オムライスでも、お好み焼きでも、歩き食いのコロッケやたい焼きでも、クレープでも、貰いもののどら焼きでも、いつでも、どこでも良いのだ。……そうだ、俺は、と飯を食いたかっただけ。これから先もずっと、俺の向かいに座って、俺の隣に座って、彼女に笑っていて欲しいだけ、なんだがな。……そう望んでいるのは、俺だけではないと思っていたが、……らしくもないことだ。俺はどうやら、少しだけ、自信が無くなっているらしい。 inserted by FC2 system


close
inserted by FC2 system