名前のないキッチン

 防衛任務後に倒れてから数日間、まともに生身で歩ける状態になるまで、医務室で療養するようにと医療班からは言われていた。自分が其処まで弱っていたとは思わなかったし、それどころか、立ち上がって蒼也くんを追いかけることも出来ないことに、愕然とした。蒼也くんに突き放されて、何も言い返せなくて受け入れて、けれど受け入れがたくて。……やっぱり、待って、行かないで、と言いかけて、寝台から降りて追いかけようとしたけれど、バランスを崩して転んでしまった。既に医務室を出て行った蒼也くんが気付くことも戻ってきてくれることもなく、ベッドまでどうにか這い上がって、座り直して、……しばらくそうして、呆然とつま先を見ていた。
 ──いつか、こんな日が来るかもしれないことは、私だってちゃんと分かっていた、はずだった。
 私の存在が蒼也くんにとって重荷であるのなら、私が彼の人生を滅茶苦茶にしてしまっているのなら、傍に居たいのが私だけなのだとしたら、──その是非がはっきりしたのなら、ちゃんと諦めるつもりで、蒼也くんとお別れするつもりで、……でも、そう言いながらも、答えが出るが怖かったから、見て見ぬふりをしていたのだ。蒼也くんに迷惑を掛けたくないと思っていた、蒼也くんが私と共にいることを望んでいないのなら、彼の意向に従おうと思っていた。……でも、本当は、蒼也くんは私を迷惑になんて感じていないと、そう、信じ込んでいたという、それだけの話なのだ。蒼也くんはいつも私に優しくて、甘くて、それは彼自身の意志だとそう思いたかった。蒼也くんは私に恋なんてしていないかもしれない、この先も彼にとって、私が恋しい相手になることはないのかもしれない、……でも、だからこそ、ふたりが恋人になることを望んでいるのが大人だけ、だったなら? 私が彼のことを家族として好きなだけだったなら、これが恋ではなければ、私が彼とどうにかなることを望まなければ、蒼也くんに一番大きな迷惑をかけることにはならない。そうすれば、蒼也くんはまだ、私を許してくれるかもしれないと思っていた、……私が、彼に向けるこの行き場のない気持ちを恋だと定義付けさえしなければ、私は蒼也くんの隣に居られると、そう思っていたのだ。

 ……そんなことも許されないくらい、彼が、私と過ごすことを苦痛に感じているとは、考えてもみなかったから。

 私は傲慢だ。何を言ったところで、私は自身が蒼也くんに好かれていると思っていた。幼馴染、妹分、家族、後輩、同僚。そのどれかでしかなかったとしても、少なからずの好意と情が彼の中にあると思っていた、“蒼也くんの好きな女の子”にはなれなくとも、それさえ望まなければ、他の何かは与えてもらえるものだとばかり思いこんでいた。幼い頃からずっと、幼馴染の背中ばかり追いかけてきた。ボーダーに入隊したときも、攻撃手を選んだときも、六頴館に転入したときも、隊長になったときも、A級に上がったときも、遠征部隊に選ばれたときも、ずっとずっと、私はあなたの真似ばかりだったからあなたには遠く及ばなくて、足元をちょろちょろと付いてくるそんな私のことを蒼也くんは鬱陶しいと感じているかもしれないと、その可能性だって考えている“素振り”をしていただけで、……本当は、蒼也くんが私を突き放すことなんてないと思っていたのだ、私。……ああ、そうだ、そうなのだ、私。「ちゃんは蒼也くんのことが好き」と言われるのがあんなにも嫌だったくせに、私、「蒼也くんは私のことが好き」だと、そう、思い込んでいた。

 最低だ、そんなの。
 ショックだった、気付きたくなかった。
 ……でも、そうして目を背けて蒼也くんに重荷を強いていた自分のことを、自分が一番、嫌だと思った。

 医務室で過ごした数日間は暇で、部下に頼んで持ってきてもらったタブレットとノートパソコンで仕事をしたりもしていたけれど、お見舞いに来てくれた東さんと冬島さんに叱られて、すぐに禁止されてしまった。東さんたち以外にも、二宮くん、加古ちゃん、三輪くん、みかみかと菊地原くんと歌川くん、太刀川くんと出水くん、諏訪さんと堤くん、鬼怒田さんと寺島さん、来馬くんと村上くん、早紀ちゃん、木虎ちゃんと嵐山くん、レイジさんと小南ちゃん、烏丸くん、千佳ちゃん、三雲くん、空閑くん、迅くん、那須ちゃんと熊ちゃん、私が倒れたと聞いて毎日色んなひとがお見舞いに来てくれたけれど、誰かが訪ねてくるたびに、……どうしても期待して蒼也くんを探してしまうのが、自分でも本当に嫌だった。お見舞いに来てくれたみんなに申し訳ないし、あれだけきっぱりと突き放されても諦められない自分の未練ったらしさに、溜息が出た。
 当たり前だけれど、あれから蒼也くんは、一度も顔を出してはくれなくて。皆が来てくれている間は話し相手が居てくれるから気が紛れたけれど、それ以外の時間は、嫌でもぐるぐると思考の渦に飲み込まれてしまうことが苦しくて、考え込んで頭痛と熱に浮かされても、酷く身体も疲れ果てているのに、私は上手く眠ることすらも出来なくて、少しだけ眠れても夢見の悪さに飛び起きてしまって、やっぱり苦しかった。

 眠れないから治りも遅かったけれど、ようやく医務室から解放された後は、大学とボーダー本部を行き来する日々を送っていた。そうして、大学での空き時間は、蒼也くんの視界に入らないようにと、人目に付かない場所で本を読んで時間を潰して、授業が終わるとすぐに本部へと撤収した。本部ではシフト通りの任務に加えて臨時任務も積極的に受けて、作戦室で書類仕事を片付けて、残りの時間は全て個人ランク戦に費やしていた。──とにかく、身体を動かしていないと、他のことを考えていないと、自分を保っていられなかったのだ。意識が飛ぶ寸前まで忙しく動き回らないと、まともに眠ることもままならないから、仕方なく気絶するまで働いた。作戦室に寝泊まりしていると、仕事をしながら寝落ちしても誰も困らないので楽だった。
 個人戦にはあまり顔を出す方ではないからか、私が顔を出すようになって、皆が歓迎してくれたのも、嬉しくて。

「──? 珍しいじゃん、個人戦に来るなんて。体調、もう平気なのか?」
「太刀川くんが私の心配なんて、明日は槍が降るかもね……」
「槍が降る? なんだそりゃ? まあいいや、個人戦相手してくれよ、と存分にやれるなんて滅多にないからな」
「そうだったっけ?」
「普段はやりすぎて、風間さんに怒られるからなー」
「……それは、もう大丈夫だよ」
「は?」
「ううん、こっちの話!」

 まず真っ先に私を目ざとく見つけた太刀川くんに捕まって、10本勝負をしている間にギャラリーが出来上がっていたようで、最初は上位の攻撃手と順番に個人戦をしていた。すると、次第にそれを聞き付けてきたのか、普段は個人戦にあまり顔を出さない射手、万能手の面々も集まってきて、対戦相手には本当に事欠かなかったから、私も助かった。偶然通りがかった二宮くんと、久々に勝負できたのもかなり楽しかった、なあ。二宮隊がA級だった頃は、ランク戦で当たる機会も多かったし、トリオン量、アステロイドの火力共に拮抗する二宮くんとは、戦っていて一番楽しいから、試合に没頭出来るし、彼との手合わせは好きだ。そうして、二宮くんと戦っていたら更に人が集まってきたから、今度は次の人と戦って、戦って、戦って、換装を解いて生身に戻ってから、みんなとご飯を食べに行った。
 病み上がりなんだから体力を付けろ、と言って皆が私を外食に連れて行きたがったし、私も久々に部下や後輩にご飯をご馳走してあげたかったから、ここ最近は毎食のように外食に出ている。久々に外で食べるご飯は、何故だか少し新鮮で、そういえば私はこれが好きだったなあ、だとか、これはどうやって作るんだろう、などと考えたりもしたけれど、……それ以上に。あ、これ蒼也くんの好きなやつだ、だとか。蒼也くんに作ってあげたいな、だとか。……もう、どうしようもなくなったこともたくさん考えてしまったから、味はよく分からなくて、けれどみんながおいしいと言っていたから、私もそれに合わせて美味しいと復唱して、次は倒れないようにするためにも無理矢理飲み込んだ。ご飯を食べたら本部に戻って、やっぱり気絶するまで仕事をした。走って、学んで、戦って、食べて、仕事して、力尽きるように、どうにか眠って、そうでもしないと、まともに呼吸が出来なかった。蒼也くんの都合が優先だと言っておきながら、私にとって既に彼は酸素よりも重要な成分で、食事や睡眠よりも大切な栄養だったのに。私には彼が必要だということを忘れるまで頭と身体を使い倒さないと、子供みたいにみっともなく泣き喚いてしまいそうだったから、必死に走り回っていた。

 ……でも、いつまでも、逃げ回って先送りには出来ない。
 拒絶されたからには、ちゃんと諦めないと。蒼也くんを自由に、してあげないと。──諏訪さんにこっそり聞いてみたところによると、蒼也くんは最近、家には時々しか帰っていないらしい。私もあれから一度だけ、蒼也くんが居ないときを見計らって着替えなどの荷物を取りに自宅に戻ったけれど、それっきりで。……そうして今日、私はようやく、久々に家に戻ってきていた。蒼也くんが防衛任務に出ている時間を狙って家に戻り、キャリーケースに当面必要な分の荷物だけを詰めて、部屋から持ってきた便箋を広げて、ダイニングのテーブルで手紙を認める。何を書くべきか暫く逡巡して、どうにか言葉を選び、蒼也くんへ、と書き出しに記した便箋を封筒の中に入れ、私は重たい荷物を持って玄関を出ると、ドアに鍵を掛けた。

「……ばいばい、蒼也くん」

 未だ封を閉じていない手紙に家の鍵を入れると、封を閉じて、手紙を家の郵便受けに入れる。……本当は、こう言うの不用心だと思うけれど鍵を閉めないで出ていくわけにもいかないし、家のポストは外側から郵便物を取れない作りになっているから、多分、大丈夫だとは思う。……それはつまり、私も今更、手紙を撤回することなんて出来ない、ということでもあるけれど。……でも、もう、決めたことだ。これで終わりにしようと決意したこと、だったけれど。……やっぱり、寂しいし、悲しいな。もしも私がもっと早くに、彼への好意を恋だと認められていたのなら、結果は違っただろうか。蒼也くんももっと早くに、自分にそんな気はないのだと言い出せていたのだろうか。私も、此処まで嫌われずに済んだのだろうか。友達とか、同僚くらいの関係では、彼の近くに居られたの、かなあ。それ以上の特別を望んだりしなければ、一番近くを願ったりしなければ、……それが出来ていたのなら、この家で共に過ごした私だけが穏やかな日々も、きっと有り得なかったのだろうけれど。

 ──ごめんね、蒼也くん。ずっと、嫌な思いをさせてしまって、ごめんね。

 ──すきだよ、蒼也くん。私があなたを好きになって、ほんとうに、ごめんなさい。



 当初、に距離を置こう、と告げた際には、俺がこの家を離れようと思っていた。急に行く場所が無くなってはが困るし、あまり夜道を出歩いたりだとか危ない真似はさせたくない、只でさえ三門市の夜は人通りも少なく、未だに治安も良くはないのだ。だから、は今まで通りにこの家で過ごして、俺の方は本部に泊まりながら、諏訪の家や木崎のいる玉狛にでも置かせてもらって、その間に物件を探して引き上げるつもりだった。それで、今後もひとまず家賃は俺が半分出すとして、も引っ越したくなったのなら、この部屋の手続きだとか後始末は俺がするから、そのときには彼女の好きにしたらいい。……俺に住所を知られているのは、も嫌だろうから。きっと、いずれこの部屋は引き払うことになるだろうと思っていた。俺が居てはが困るだろうと数日の間は、家を避けていたが、それは俺の逃げだという自覚はある。……本当は、話を纏めるなら、早いほうがいいのだろうに。未だ終わりにしてしまいたくなくて、俺は逃げている。だが、がいつ此処に顔を出すかも分からないから、なるべく、家に居た方が彼女の為になると考えて、その日、俺は、防衛任務の帰りに自宅へと戻ったのだった。
 自宅に帰り、郵便受けを確認すると、宛先に住所の書かれていない手紙が入っていた。「蒼也くんへ」と書かれた見慣れた筆跡と淡い花の絵柄の封筒に、はっ、と弾かれたように俺は玄関に立ち尽くしたままで、靴も脱がずに手紙の封を開く。便箋を取り出そうと滑らせた指先に、冷たい金属質の感覚が触れて、……其処には、と揃いで買ったキーホルダーの付いた自宅の鍵が入っていた。

「蒼也くんへ。この間は迷惑をかけてしまってごめんなさい。それから、今までずっと、蒼也くんに迷惑をかけてしまったこと、本当にごめんね。この家は蒼也くんが好きに使ってください。私の我儘なので、家賃は今後も私が半分、大家さんに振り込みます。蒼也くんはもう半額を振り込むようにしてください、大家さんには私の方から話を通しておくので、心配しないでね。鍵も返します。残りの荷物は蒼也くんの邪魔にならないときに運び出せたらと思います。今までお世話になりました。ずっとありがとう。さようなら。より。」

 ……ぐしゃり、と便箋を握り締めて、力なくその場に座り込む。……いつも、花の絵柄のこの便箋には、丸っこい文字で今日の献立がいくつも書かれていたのだ。温かな言葉ばかりが並んでいた彼女からの手紙は、今、冷え切っていて。ふらふらと家の中に上がって、すん、と鼻を鳴らしてみても、台所からいいかおりのひとつも漂ってこない。彼女という熱が失われたこの家は寒くて、冷たくて、……ずるずると台所に座り込むと、それっきり、何もやる気になれない。こんなときでも、ぐう、と空腹を訴える腹すら、気に掛けてやる余裕がなかった。……なあ、自分で決めたことだろう? を解放してやろうと、俺はそう決めたのに、……なぜ、こんなにも、未練が溢れて止まらないのだろう。どうして、……諦めてから、結局は到底諦めきれないことに、俺は気付いてしまうのだろうな。 inserted by FC2 system


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