ひとりはさびしい ふたりはせつない

 ──とっくに日も沈んだ暗い家の中、電気も点けずにキッチンの冷たいフローリングの上に座り込んで、呆然と手紙を握りしめ、……一体俺は何時間前からそうしていたのだろうか。携帯端末への着信音ではっ、と我に返るその瞬間まで、どうやら俺はまるで心此処に在らずの有様だったようで、がちがちに冷え切ったつま先と悴む指先に、ようやく自分が部屋に戻ってから暖房さえ付けずに過ごしていたことに気が付いた。寒がりなの為に、普段は家に帰れば真っ先に暖房を付けていたし、そもそも、俺が帰るころには部屋が温まっていることが多かったから。……本当に、自分が如何に彼女に甘えていたのかを痛感するたびに漏れ出て止まない溜息に呆れつつも、端末のディスプレイを見ると、二宮の名前が表示されている。──それで、俺は恐らく、期待していたのだろう。二宮から連絡があるとするなら、きっとのことだろうから。……連絡されたところで、もう俺には何をする権利もないというのに、咄嗟にぬか喜びをしてしまう程度には、俺はまだ、彼女を好きなのだ。

「──風間さん、二宮です。今少し良いですか」
「ああ。どうした?」
がうちに来てます。迎えに来てもらえますか」
「……悪いが、俺は行けない。そのまま泊めてやってくれるか?」
「……良いんですか、俺はを傷付けるかもしれませんが」
「……を大切に思っているのはお前も同じだろう、俺はその挑発には乗らない」

 電話を取ると案の定、二宮からの連絡はを迎えに来てくれ、という内容だった。どうやら、はここを出た後で二宮の自宅を訪ねていったようで、流石にこのまま自宅にを泊めるわけにはいかないから、俺に連絡したのだと二宮は言う。……だが、俺が迎えに行ったところで、この家に連れて帰ってきてやれる訳でもなくて、それならば、こんな時間に寒空の下を当て所もなく彷徨うよりもずっと、二宮の保護下に置いてもらった方が安全だろう、と。そう、判断した結果だった。
 ……無論、今までならば、幾ら相手が二宮でも反対したし、すぐさま迎えに行ったことだろう。だが、最早俺にはそんな権利すらもなく、……そもそも、初めから俺にそんな権限は存在していなかったのだ。俺がひとりで、“そういう顔”をして身勝手に振舞っていたというだけの話で。
 ──現在の二宮はとは友人関係でしかないが、二宮の言わんとしている意味は、……以前に二宮が、に対して恋愛の機微に似た憧憬を幾らか傾けていたことは、俺も知っている。に向けられたものだからこそ、目敏く気付いていたそれに関しては、二宮の方も俺が把握しているのを承知の上であるようで、その事実との安全とを盾に挑発めいた言葉を投げかけてくる二宮には、そんな真似は出来ないものとばかり思っていたから、今までも安心して二宮にを預けていた。二宮を臆病者と侮っていた訳では無く、二宮とてを大切に思っているのは俺と同じだろうから、……俺に出来ないことは、あいつにも出来ないと、そう思っていたのだ。

「……同学年で付き合いも長くて、まあ、に対して情はあります。だが、俺は別にあなたほどあいつに入れ込んでいるわけでもないし、を壊れ物だと思ったこともありません。寧ろ、女にしては頑丈なくらいだ」
「……? 二宮、何が言いたい?」
「風間さん。……あなたが何を考えているのかなんて、俺は知らない」
「…………」
「だが、……風間さんが手放せば、それだけで、風間さんよりもを大切にできる奴が現れる訳じゃない。寧ろ正反対の結果になる可能性もあると思うが、……まあ、それは俺とも限らない、もっと悪い方向に転んだって何もおかしくはない」
「……それは……」
「現に俺は、今すぐにでも風間さんの努力を台無しにできる立場にある訳で、引き取って貰えないと何もしないという保証は出来ません。……とはいえ、俺も本意じゃない。無理に連れて帰れとは言わないので、とにかく一旦引き取ってください」
「……分かった。すぐに向かおう」

 ──だが、どうやら二宮は、俺とは違ったらしい。自分は俺と違ってを平気で傷付けられる、と。──はっきりそう言い切った二宮に、些か俺は動揺していた。……彼女が大切だから、絶対に傷つけたくない。その想いに関して言えば、友情と恋愛という好意の種類に差はあれども、俺と二宮の考えは同じだと、俺はずっと、そう思っていたのだ。……だが、事実はそうではなかったらしい。何も二宮とてとの友情を軽んじている訳でも、彼女を安く見積もっているわけでもない。だが、自分はに対して俺ほど慎重ではないと二宮は言っていて、……つまり、それは、俺が彼女に傾けている感情がそれほどに重いのだということに他ならなかった。
 ──いつもいつも、同じ家で、俺の部屋で、俺の服を着て無防備に転がっているを前にしても、眩しい脚線美が目の前に放り出されていても、腕にくっつかれたり、背中に抱き着かれたりしても、……俺は今までに一度たりとも、彼女に無理矢理に触れたことはなく、それも忍耐の上で、決して楽だったわけではないが、そういうものなのだと思っていた。……大切なのだから、そうするべきなのだと、俺はそう考えていたが、……自分は其処までを尊重できない、と。だから、自分に預けるつもりなら何があっても文句は言うな、と。二宮にそう言われて、流石にそれ以上は、聞き流したり断ったりも出来ずに、俺は悴んで重たくなった足で立ち上がると、慌てて玄関へと向かうのだった。……どうするかは、迎えに行ってから考える。この家に連れて帰って、俺が代わりに出ていくか、の宿を探してやるか、方法は幾らでもあるだろう。──顔を合わせるのは、きっと俺だって辛いが、それ以上にが酷い目に遭うのは避けたかった。俺には守る資格が無いのだとしても、……彼女だけは、何者にも害されて欲しくはなかった。

「……風間さん? 何故うちに?」
「? 二宮が呼んだんだろう? 家にが来ている、と言って……」
「ああ、なるほど……ハァ……すみません、逃げられました」
「……逃げた、だと?」
「風間さんを呼んだ、と言ったら、いつもこの辺りだと角のコンビニで落ち合うようにしているから、そこで待ってると言って、……騙されました、クソ、あの女……つまんねえ真似しやがって……」

 二宮の家にはを迎えに何度か行ったことがあるので、とにかく彼女が心配で、全力で走って二宮の自宅を訪ねた。がちがちに冷えた足は縺れて走りづらかったが、冷たい風の中を駆け抜けているうちにすっかり体温が上がって、上着を小脇に抱えて息を切らしながらインターホンを押すと、不思議そうな顔をして二宮が出てくる。……どういうことかと思えば、なんと、俺が着く少し前、既に、は二宮の自宅を後にしたのだというのだ。

「すみません。其処まで話が拗れていたとは思わず……いつもの痴話喧嘩なのかとばかり」
「そうか……が出て行ったのは何時ごろだ?」
「20分前です。タクシーでも捕まえてなければ、まだそこまで遠くには……落ち着ける場所を探すとすれば、繁華街の方ですかね」
「分かった。世話を掛けたな二宮、……手出しせずにいてくれて感謝する」
「……まあ、逃げられましたが」
「後日にでも礼をさせてくれ、肉でいいか?」
「ええ、ぜひ」

 ──二宮の方でもから、俺と何かがあって家を出てきたとは聞いていたが、迎えに来さえすれば素直に帰るものと思って、二宮は俺に電話を入れた旨をに伝えたのだと言う。しかし、それを聞いたは、二宮には外で俺と落ち合うと言って、既に家を出たのだと。……つまり、俺と鉢合わせる前に、は此処から逃げたということらしかった。……まあ、今俺に来られても気まずいのだろうということは俺にも分かるが、そんなに、逃げるほど、……俺がくるのが嫌だったのか? と、じくり、と思わず心臓が痛んだような気がするのも無視して、俺は二宮へと手短に礼を伝えると、手に抱えていたジャケットを腰に巻いて繁華街の方に走り出す。小脇に抱えていたのでは走ったところでフォームが崩れて速度が出ない、──早く見つけてやらないと、何かトラブルにでも巻き込まれていたら大事だ。さえ無事なら、別に、もう俺は、……彼女から会いたくなかった、迎えに来て欲しくなかったと、そう突き放されても、何でも良かった。面子もプライドもかなぐり捨ててでも、……本当は、が傷付かなければ、俺はそれでいいんだ。



 ──蒼也くんを呼んだ、と。二宮くんにそう言われて、思わず彼に嘘を吐いて家を飛び出してきてしまった。……だって、これ以上、蒼也くんに迷惑をかけて面倒くさい奴だと思われたくない。逃げているのだって良くないことだとは思うけれど、今、蒼也くんと顔を合わせたら泣いてしまいそうで、怖くて、とてもじゃないけれど会おうとは思えなかったのだ。蒼也くんだって、もしかすると私を探すかもしれないけれど、その前に何処か、宿とか、落ち着ける場所を探して、二宮くんに連絡を入れよう。嘘を吐いたことを謝って、私は泊まる場所を見つけたから大丈夫だと二宮くんから伝えてもらえれば、きっと蒼也くんも家に帰れるはずだ。
 ──これ以上、彼に迷惑を掛けないように、……嫌われてしまわないように、何処か、何処でも良いから、一晩を過ごせる場所を探さないと。繁華街の方まで出れば、ビジネスホテルくらいなら空きが見つかるかもしれない。それが駄目なら、ネットカフェとか、カラオケとか、ファミレスでもなんでもいいから、とにかく何処か、私が居てもいい場所を探そうと、重たいキャリーケースを引きずりながら、私は必死で走った。

 ぐるぐると混乱する頭で何処に避難しようかとあたりを見渡しているうちに、いつの間にか、私は繁華街に辿り着いていた。三門市の夜は人通りが少ないとは言えども、街中には灯りがついているし適度な雑踏と喧騒がそこにある。どっどっどっ、と緊張や不安で震える心臓とキャリーケースを抱えて、きょろきょろと辺りを見渡しながら人の波に溢れたそんな場所をふらふら彷徨っていたからか、荷物を足に何度もぶつけて、いつの間にか自分の足が打ち傷だらけになっていることに気付いて、ぎょっとして、足元を確認しようと少し屈んだところで、……あ、まずい、と。──そう思った瞬間には、サイドエフェクトの揺り戻しと極度の緊張状態により揺さぶられた三半規管から連鎖するように、私は激しい頭痛に襲われていて、貫くような鈍痛に頭を抑えるとぐにゃあ、と歪む景色に、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。

「──お姉さん、そこでなにやってんの?」
「……だれ……?」
「おお……お姉さんメッチャかわいいね、酔っ払ってる? 具合悪い? 手を貸そうか?」
「……あたま、が……」
「頭痛い? ……オッケーオッケー、休憩できるところ連れてってやるよ」

 ──あまりの頭痛に耳鳴りまでしてきて、何を言われているのかは良く聞き取れなかったけれど、手を差し出してくれている目の前の知らないおとこのひと、は私に手を貸してくれようとしている? のかな……? 一般市民の手を借りるのはボーダー隊員として気が引けたけれど、どのみち、この場に座り込んでいては迷惑になるし、この際もう何処でも良いからとにかく座れる場所まで連れて行ってもらおうと、差し出された手を取るべく、私は震える指を伸ばすものの、──その瞬間、差し出された手よりも少し小さくて頼もしい温かな手が、私の手を掴んでいたのだった。

「……悪いな、俺の連れが世話を掛けた。道案内は結構だ」

 ──きいん、と耳障りな音の中でも、揺らぐ視界の中でも、はっきりと見えた蒼い色と鼓膜に響く風の音。私が何かを唱える前に、良く聞き取れないものの、恐らくは何か文句を言いながら遠ざかって行く、先程のおとこのひとをあしらって、私のキャリーケースを掴むと空いた片手で私の肩を抱いて身体を支えて、「……、其処の公園のベンチまででいい、歩けるか?」と、心配そうな声が聞こえたから、反射的に私は頷いてしまった。……きっと、発作を起こしている私に負担をかけないようにと、ゆっくり歩いてくれているのだと、そう思う。息が上がって平時よりも掠れた声色だったけれど、耳鳴りの渦の中であっても、私がその声を聞き間違えるはずもない。……私がそのあかいひとみを、見間違えるはずもない。……だいすきなひとの声を、聞き漏らすわけがない。霞む視界でも暗視だけはしっかり効いている私の目は、……汗を掻きながら呼吸を整えて深い紅を揺らす蒼也くんの横顔を、確かに捉えていた。

 ──近くの公園まで着くと私をベンチに座らせてから、蒼也くんは私の肩に自分のジャケットを羽織らせて、「……頼むから、逃げずに此処で待っていてくれ」と私に言い聞かせるように零して、近くの自販機でお水を二本買ってから戻ってきた。固く締まったキャップを開けて私の手に握らせてから、もう一本を開けるとポケットから取り出したハンカチを濡らして、「化粧が崩れたら、悪い」と断りながら私の額に冷たいハンカチを当ててくれる。私はその間もずっとされるがままで、そんなの、気にしなくていいよ、と言葉を漏らすことすらも、出来なくて、……それで、ぼんやりと思った。……蒼也くんの目が、普通のひとのそれで本当によかった、と。もしも、彼が“私と同じ”だったのなら、きっと私が今泣きそうな顔をしていることも、彼に知られてしまっただろうから、と。……そう思いながら、唇をきゅっと結んで眉を下げる、……まるで泣きそうな顔をしている蒼也くんのことを、私は見上げていた。

 ……私、何をしているんだろうな。これ以上、蒼也くんの手を煩わせないように、って行動したことが結局は全部裏目に出て、私はまた蒼也くんに迷惑を掛けている。走ってその場から離れたところで、蒼也くんが本気で私を追いかけたなら、体力の差でどう考えても逃げ切れないのは分かり切っていたけれど、……でも、追いかけてきてくれると思わなかったのだ、本心から。だって、あの日、医務室で、私が慌てて追いかけようとしたときは、蒼也くん、立ち止まってくれなかったのに。私が転んでも、手を貸してはくれなかったのに。医務室で養生している間に会いに来てくれることもなかったのに、……なのに、二宮くんに迎えに来るように言われたから、此処までしてくれるの? 父さんとか、二宮くんとか、私以外の誰かに頼まれたなら、……蒼也くんは、私に優しくしてくれるんだって、あなたにとって、……これは、それだけの話なの?

「……泣くほど痛むのか?」
「……ちがう、よ……」
「だったら、何故」
「……なんで、追いかけてくるの、なんで、助けてくれるの……」
「それは、……のことが大切だから、だろう」
「……うそだあ、そんなの……」
「嘘じゃない」
「だって、もう、私といっしょに居たくないって、ゆったもん……」
「言ってない。……俺は只、俺と一緒に居てもがつらい思いをするだけだと、そう思って……」
「なんで? ……なんでそんなこというの? そうやって、私のせいにしないと、私から離れられないから? だめだって言われたから? 父さんも二宮くんも、みんな、蒼也くんに私のこと、押し付けるから……?」
? 何を言って……」
「……全部私が悪いのに、みんながそれを知らないから? 蒼也くんは私と仲良しだって、みんなから勘違い、されているから?」
「……、少し落ち着け。俺は何も……」
「……みんながちゃんと覚えるまで、諦めるまで、……蒼也くん、私のこと、……き、きらいって、ずっと、みんなに言うの? 私に、言うの……?」 inserted by FC2 system


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