淋しさは眠たげにまばたく

 突然決まった新居への引っ越しを控えた中でも普段通りに大学の授業はあったし、防衛任務だってあったし、隊長職を背負う立場上、日々の職務は実戦以外にも少なくはない。その合間に個人ランク戦にも顔を出したり、部下や弟子の稽古を付けたりすることもあって、そんな中で引っ越しの為の荷造りも並行して行っていたから、最近は普段と比べると蒼也くんと過ごす時間が幾らか減ってしまっていた。……まあ、それも、一瞬だけなのだと、もうすぐ以前よりも一緒に過ごす時間が増えるのだと分かっていても、関係だけが曖昧なままで状況が変化していくのは何処か不安が伴って、果たして本当にこのまま蒼也くんの言う通りにしているのは正しいことなのだろうかと、漠然とそんなことを思ってしまうことが、度々あった。
 ──確かに、ボーダーという組織の中においてだけの話なら、私は蒼也くんとほぼ対等の立場にあるし、A級3位と4位で些かの差はあれど、私と蒼也くんの間には周囲からの扱いの差がある、なんてこともない。同じく城戸司令派に属していて、私はサイドエフェクトのこともあり組織や司令から重宝してもらっているし、遠征の常連メンバーでもあって、……それだけを見れば、私は十分に蒼也くんの隣に肩を並べられているように思うけれど。……でも、ボーダーという組織の枠組みの外では、あの頃から──子供の頃から、私と蒼也くんの関係値はまるで変動していないのだと、……多分私は、ずっとそれに気付かないふりをして目を瞑ってしまっていたのだと思う。けれど、それも、もうそろそろ無視できないところまで来てしまっている。……蒼也くんと住まいを共にするということは、彼から自由を取り上げるということだ。結局、私の生まれに彼を付き合わせてしまっているということに、他ならなかった。……蒼也くんは、どうして。一緒に暮らそうなんて、急にそんなことを言い出したのだろう? ……私の父から、そのように頼まれたのだろうか、という考えは、提案された瞬間からずっと脳裏にあった疑問で、同時に、どうしたって彼には聞けないことばだった。だって、もしも、その問いを蒼也くんが肯定したのなら、本当に私と彼とは其処までなのだと、全部が終わってしまうのだと、終わった上でこれからも彼を縛り付けてお互いに苦しむ羽目になるのだと分かってしまうから、なんて。……結局、私は怖かっただけ。自分が、傷付きたくなかっただけ。蒼也くんを巻き込みたくないだとか、彼を解放してあげたいだなんてことを思いながらも私は、……結局、彼を失って自分が傷付くことが怖くて堪らなかったという、只のそれだけだったのだ、情けないことに。

 そうして、あっという間に訪れた引っ越しの当日には、諏訪さんが車を出して手伝ってくれた。知人から借りてきたという軽トラックの荷台へと、蒼也くんと木崎さんがてきぱき家具家財を運んでくれて、それから、そのままふたりは、新居近くの蒼也くんの家から荷物を徒歩で直接運び込むと言って、歩いて蒼也くんの自宅へと向かう。諏訪さんは私の方に残って、細かな荷物をいっしょに運んでくれて、そのまま、私が諏訪さんの助手席に乗せてもらうという予定になっていた。

「お疲れさん、ほれ、飲みもん買ってきた」
「! ありがとう、諏訪さん」
「あったけえ紅茶でよかったか? 確か、前にもこれ飲んでたろ」
「はい、よく覚えてますね、これ結構好きで……」
「あー……風間の奴、酒入ると嫁の話しかしねえから……それもあって覚えてたのかもしれねーな」

 やがて、すっかり片付いた部屋の掃除も済ませて、立ち合いと部屋の最終確認のために此処を訪れる不動産屋を待ちながら、がらんどうな部屋で暖房もないともうこの時期は寒いなあ、なんて手をこすり合わせていたら、煙草を吸ってくると外に出ていた諏訪さんが、二人分の飲み物を手に戻ってきた。
 ──諏訪さんは私のことを、とか、ちゃんとか、“風間の嫁”とか、そういう名前で呼ぶ。蒼也くんとの間柄を揶揄した呼び方で私を呼ぶ人は他にもいたけれど、大体が面白がっているだけだから、私はあまりそう呼ばれるのは好きじゃなかった。でも、諏訪さんのそれは悪意だとかそういうものを何故だか感じなくて、それに、諏訪さんがそう呼ぶとき、というか、私が諏訪さんと話すときって大抵、蒼也くんも同席していることが多いものの、蒼也くんは諏訪さんが私を不適切に呼称することに対して何ひとつ咎めたことが無かったのだ。だからなのか、私も諏訪さんにだけはそう呼ばれても全然平気で、諏訪さんには他意など無いのだからと今更否定する気にもあまりならないのだった。

「そっか、蒼也くん、お酒強くないんでしたっけ」
ちゃんも風間と酒飲むことはあんだろ? 俺らの飲み会に混ざってたことも何度かあったし」
「そうなんですけど、私の方が弱くて、すぐ寝ちゃうから……蒼也くんが酔っぱらってるところ、見たことないんですよね……」
「ハァ!?」
「え、な、なんですか?」
「お、おお……、大声出して悪ィ……いや、な? 風間の奴、マジで酒弱ぇから……いくらなんでも、そんなことあるか? と思ってよ……」
「でも、ほんとに見たことないですよ……?」
「あー……ちゃんが寝落ちるまでは、気を付けてんのかね……? 格好付けてんだか保護者気取りなんだか知らねーが……」
「……そうなんだ……」
「まあ、俺が邪推するようなことでもねえし、気になんなら風間に直接……」
「……私、いまだに信じられないんです」
「あん?」
「蒼也くんって、いつも完璧だから。……酒癖がよくない、って……寺島さんとかも言ってたけれど、私には、どうしても蒼也くんのそういうところ、想像できなくて……」

 保護者、と。諏訪さんも表現していたけれど、私と蒼也くんとの関係はずっと庇護と保護という前提の上に成り立っていて、それってきっと、私達が決して対等ではないということに他ならない。それが、良くないのだとはちゃんと私も分かっていて、けれど、どうすればその関係性を脱することが出来るのかというただのそれだけが、私にはどうしても分からない。或いは、その相互関係がなくなってしまえば、私と蒼也くんとを結ぶものなど無くなってしまうとでも、私は思っているのかもしれなかった。
 ──だから、例えば、諏訪さんたちの言うような、酒癖が悪いところだとか、そういう蒼也くんの等身大な一面、悪く言えばだらしない部分を見せてもらうことが出来たのなら、……私も、蒼也くんの世話を焼く立場に回ることが出来たのなら、私は多分、安心できるんじゃないかと思う。……そうすればきっと、蒼也くんは完璧なんかじゃないし、私の前だと気を緩めてくれるのだと、そう思えるはず。でも実際のところ、そういうものを彼から与えてもらったことは、一度もない。それが信頼関係の有無を示すものなのかどうかも分からなくて、だから私にはあと一歩を詰める自信が、──彼のことが大切でたまらない、となりに立ちたいと願うこの気持ちこそが、きっと恋というものなのだと断言するだけの自信がなかった。

「あー……俺はまあ、風間って、割とめんどくせえし、抜けてるし、アホ面してることも多いし……完璧だとは思わねーけど」
「……諏訪さん、それ、本当に蒼也くんのこと言ってる……?」
「……ちゃんには、そうは見えねーってことだろ?」
「うん……」
「だったらよ、……そりゃあ、風間の努力の結果なんじゃねーの? 嫁の前では格好付けたいんだろうよ」
「……蒼也くん、基本的に誰の前でも自然体のような気がするけど、なあ……」
「そりゃあ俺も同感だが……もしもちゃんの前でだけそうじゃねーとしたら、特別だからなんじゃねえの? 気にするようなことではねーだろ」
「……そっか、ありがとね、諏訪さん」
「おう。なんか気に掛かったら、いつでも相談しな」
「……うん」

 ──諏訪さんは、そう言ってくれたけれど。もしも、蒼也くんの中で、私だけが自然体で気を緩めて接することの出来ない相手なのだとしたら、……それは、私が望んでいる関係性から一番遠いところにいる、ということに、なってしまうから。……確かに、とくべつに優しくされているのだという自覚はあって、けれどそれが何処に由来しているものなのかが、私には分からない。お姫様扱いでちやほやされているのは、確かに楽だった。けれど、そのまま従っていては蒼也くんに迷惑をかけると思ったからこそ家を飛び出したはずなのに、結局私は、ふたりきりの家に蒼也くんを繋ぎ止めてしまおうとしている。それはよくないことだし、諏訪さんの言うことが本当なら、やっぱり私と一緒に居ては蒼也くんの気が休まらなくなってしまうのではないの? って、……そう思いながらも、私の方は蒼也くんとふたりになると気が抜けてしまって、毅然としていられなくって、普段外では頑張ってしゃんと背筋を伸ばしている分だけ、彼の前でだけ、わたし、ふにゃふにゃのゆるゆるになってしまうのだった。

 その日の夜、本部での勤務を終えてから、私宛の手土産にケーキを買ってきてくれた寺島さんも合流して、蒼也くんと私の新居で木崎さんとふたり、ご飯を作って、諏訪さんがお酒を買ってきてくれて、みんなで引っ越し祝いにご飯を食べてお酒を飲んだけれど。私はやっぱりその日も早々に眠くなってしまったらしくて、気が付いたころにはとっくに空が白んでいたし、蒼也くんが運んでくれたのか、自室のベッドの上に寝かされていて、……結局また、蒼也くんが酔っているところなんて、これっぽっちも見られなかった。


「……すわ! みろ!」
「あ? なんだようるせえな、もう酔っぱらってんのかよ……何を見ろって?」
だ。……みろ、ねてる、はは、かわいい……」
「……ええ、怖えよこいつ……」
「風間、上機嫌じゃん」
「……が、風間の膝で寝ているからな……」
「ふ、かわいいだろう」
「あー、そうだな、かわいいかわいい」
「は? ……何勝手に見てるんだ、俺の嫁だぞ、見るな諏訪!」
「おめーが見ろっつったんだろーが! なんなんだよおめーは!? クソ酔っぱらいが!」

 ちゃんがすやすやと寝息を立てる中、すっかり出来上がった様子の風間は、自身の膝で眠るちゃんの寝顔を肴に大層満足げに酒を飲んでいる。──昼間、ちゃんは風間の酔っぱらった姿を見てみたい、と心底寂しげに零していたが、俺からすれば、正気で言ってんのか? という話である。……ちゃんが成人してからまだ一年も経たないというのに、たかがそれだけの期間に俺が何度肝を冷やしたことか、こいつらは知らないのだろう。揃いも揃って酒に弱いこの幼馴染どもは、風間が酒乱な分の反動なのか、は一切暴れたり騒いだりすることなくストン、と一瞬で寝落ちる。急に糸が切れたようにその場で眠り始めるとまったく目を覚まさなくなる割に、寝落ちするまではまあまあ普通の様子で飲んでいるので、もそれなりに質が悪いと思う。お陰で周りは途中でブレーキを掛けてやることも叶わず、……まあ、俺に関して言えば、そもそもが眠る前に止めてやろうとしたことも、なかったな。何故かと言えばそんなことをしては、……自分が正気の状態で、タガの外れた幼馴染を目撃してしまっては、流石にだって風間に幻滅するんじゃねーか? などと抱いてしまっているお節介と親切心など捨ててしまえばいいものを、こいつらの恋路に巻き込まれてしまったばっかりに、……おめーらが悪い奴らじゃないばっかりに、まあ、なるべくは上手く行って欲しいというか、さっさとくっ付いて俺を楽にさせてくれというのが、俺の本意なわけだった。
 ──だから、と一緒に暮らすことになった、と風間から聞いたときには、ようやくか、と。……そう、思ったものの。飽くまでも引っ越しは同棲ではなく同居を目的としたものでしかないらしく、……この堅物は、相変わらずに手を出す素振りもない。……硬い膝に頬を預けて目を伏せるの髪を撫でる風間はにまにまとだらしなく赤ら顔を緩めていて、……いやもう、よくまあ、今日まで何もなかったな? と。呆れを通り越して、感動すら覚えるほどだった。

「ハァ……逆になんで、こんなに大騒ぎしてて起きねえの? いっそ叩き起こして、この醜態を見せちまった方が、かえって話も早かったりすんのか……?」
「いや、流石にこれ見せたら風間、振られるでしょ……」
「分からんが……責任が持てないことはするべきではないな……」
「でもよ、ちゃんが昼間……ってか、本当に起きねえな。もしかして、強化視覚に持ってかれた分耳は悪ィのか? ちゃんは……」
「すわ! いま俺のになんて言った? 殴るぞ」
「っぶ、ってめ、風間ァ! 殴ってから言うんじゃねー! オイおめーら見てねーで風間を止めろ! 俺が死んでも良いのか!」
「諏訪が悪い」
「諏訪が悪い」
「おい!!」
「……だが、が起きてはお前が一番困るだろう。風間、大人しくしろ」
「? 俺は何も困らんが……?」
「おめーが困るんだよ!」

 があまりにも不安そうにするものだから、「風間もお前の前でだけ格好付けてるんだろ」なんてそれらしいことを言ったが、実際のところはこれでしかない。……まあ、風間だって少なからず無意識のうちに、の前で見栄を張ることくらいはあるのだろう、こう見えても、ちゃんとこいつも男だ。だが、後は大体、俺らが勝手に世話を焼いて、風間のみっともなかったりめんどくせえ部分をに知られないようにしてやっているだけ、という話で、只その通りに伝えては風間も格好が付かないだろうから、にはぼかして伝えてやっただけだった。
 実際のところ、風間はの前でも常に自然体だし、寧ろ、といるときが一番リラックスしているように俺には見える。……だとしたら、こうしてお節介を焼いているのは、マジで要らねえ世話なのか? という気もしたが、……俺だったら、こんなに泥酔してウザ絡みしている姿、好きな女には見せたくねえなあ……とは思うし、レイジと雷蔵も似たような心境で俺の世話焼きに付き合っているのだろう。
 俺は、とは風間を経由した縁の友人付き合いだが、それにしたって俺から見てもは風間を好いているように見える。其処には恋愛の類の心の機微が、あるように感じる。そして、風間は間違いなくを好きだ。本人のいないところで「俺の嫁だぞ」と抜かしているのをもう耳にタコが出来るほど聞いたし、こいつは酒が入っていなくとも同じことを言う。素面でも全然、言う。そりゃもう恥ずかしげもなく、のことが可愛くて仕方がないのだという話ばかりをこいつはしてくるし、どうやら、風間の中では当然のように結婚まで視野に入っている間柄、という認識らしい。

「……多分、おめーらはよー……」
「なんだ、すわ」
「いや……まあ、また素面のときにでも覚えてたら話すわ……」

 風間から、どんな経緯でと出会ったのか、の父親がどんな人間だったのかという話は俺も軽くだが、聞き及んでいる。だからよ、多分、おめーらは、……もしも、最初から外野なんてもんが存在しなければ、だって自然と、これは恋だと認識していたんだろうと思うし、とっくの昔に風間と付き合っていたんじゃねーかと、そう思う。たら、ればの仮定にはこれっぽっちの意味も伴わないと、きっと風間が一番知っているからこその現状、ということなのだろうが、こうも巻き込まれると俺だってそういう話をしてみたくなる。──風間が自分を頼ってくれないと、は言っていた、それなら。後ろから彼氏面をしているだけじゃ、は不安なままなんじゃねーかとそう思うが、はともかく、其処まで風間の世話を焼くのも気が乗らずに、……まあ、明日にでも覚えてりゃあ、このくらいは言ってやってもいいのかもしれない。だが、今言ったところで、どうせ風間の記憶には残らないのだろうから、今日のところはもう考えるのもやめにする。……とはいえ、明日まで、俺の記憶に残っているかも怪しかったが。
 ──俺は、風間がいつも後方からを見守ろうとするものだから、から一歩引いたところに居やがるから、……おめーに距離を感じて他人行儀に思ったり、たかが一歳しか変わらない歳の差にも関わらず、自分達は大人と子供だなどという引け目を感じてしまうんじゃねーのかと。──その夜、そんなことを思ったのだった。 inserted by FC2 system


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