息をする、星を見る

 彼女のことを好きになったのは、今からずっと昔、俺がまだ幼かった日のことだ。

 何も一目惚れだとか運命の出会いだとか、そうも大層な出来事があった訳じゃない。だが、それでも、……あれは、あの日は、俺にとっては大きな変化のきっかけで、にとってはきっと、何気ない日常の一頁だったのだろう。
 子供の頃、の父の手により彼女と引き合わされて以来、俺と兄さんは度々と遊ぶことがあって、最初のうちは俺たちがの実家に足を運ぶことが多かった。しかし、その回数を重ねるうちに、自宅の敷地内だというのにちらちらと人目を気にする素振りを見せる彼女の違和感に気付いて、はもしかすると自分の家だとのびのびと遊べないんじゃないか? と、俺はそう思ったのだ。──確かに最初は、父に言われて彼女と会っただけ、だったかもしれない。しかし、実際に対面したときに彼女と友人になりたいと思ったのは、間違いなく俺の意志だったし、何度も顔を合わせていれば、家族の目を気にしておずおずと控えめに振る舞っているの違和感には、幼い俺でも気付くようになっていた。その境遇を、あまり好ましく思わない程度に、彼女への情もあった。一般家庭で兄とふたり、喧嘩したり戯れあったり、親に叱られたり褒められたりしながらも普通に育った俺にとっては実感が伴わないことだが、どうやらの家は俺の家とはまた事情が異なり、は父親──さんや、母親の目の届く範囲では自由に振る舞うのが苦手らしい。──それなら、俺達の家にを呼ぼうと提案したのは俺だった。その方がきっとものびのび遊べるから、とは言わなかったが、その提案をした頃にはさんの中で俺と兄さんへの信頼もある程度築かれていたのか、を心配しつつもあのひとは外出を許可してくれて、それからは、がうちを訪れることが少しずつ増えていって、──そんなある日に、彼女は俺の家のリビングで遊んでいる最中、突然、頭を押さえて蹲ってしまったのだった。

 当時は知る由もないことだが──兄さんは知っていたのかもしれないが──はその当時から彼女に備わったサイドエフェクト、強化視覚により、眼球への負担が一定値を超えると、頭痛を起こしたり熱を出したりするということがあったそうで、その日、初めて俺と兄さんの前で彼女はその発作を起こしてしまったのだ。兄さんがすぐにソファまで彼女のちいさな身体を運んで寝かせたものの、──何処が痛いのか、持病があるとは両親からも聞かされていないが、何か薬を飲んでいるのか、今持ってきているのかと的確な質問を重ねる兄さんの言葉に、ぽろぽろと泣き出しながら必死で自身の事情を吐露したが、──あの日の俺には、どうしようもなく小さくか弱く見えて。……なぜ、がそんな事情を抱えているのかなんて、当時の俺には分からなかった。しかし、かたかたと震える指先と濡れたまつ毛を見つめていたら、──俺がこの子を、あらゆる障害から、困難から、不幸から、……きっと、守ってやりたいと、確かにあの日の俺はそう、思ったのだ。
 何が理由かも分からないままで、理不尽を強いられて他人から遠ざけられることは、きっと心臓が潰されるような心地がするのだろう。耐え難いことを当たり前に仕方がないものと受け入れて、世界と自身との間に線を引いたのことを、俺は、どうしても守ってやりたかった。どうしようもなく、この子が傷付けられることが嫌だと思った、泣いて欲しくないと思ったその気持ちが、……恋や愛という感情なのだと気付いたのは、一体いつだったのか。自覚した時期が思い出せない程に、俺はごく自然とその想いを受け入れていたような、気がする。

 そうして、幼い日に芽生えた感情は、俺が少し成長して、──この世界の真実の一片を知る頃には、明確な愛に昇華されていたのだろう。俺はずっと、を守ってやりたいと思っていた。ならば、自分には其れに必要な力が足りていないのだと思い知ったことも、ボーダーに入った理由のひとつだったのかもしれない。……兄が居なくなって、その背を追ったのもあったのかもしれないし、兄の分も俺がを護れるようにならなくてはとでも、あの頃の俺は思っていたのだろうか。
 当時、この街が世界ごとひっくり返って、誰も彼もが荒み切っていたあの日の俺が考えていた内容なんて、正気であった保障などもないが、それでも。俺は、有事にを守れる自分になれたことを後悔しては居ないし、──彼女がボーダーに入ることを、もっと強く止めるべきだったのかもしれないとは、今でも考えることがある。

 俺とて、常にの隣にいられるわけではなくて、本当に有事には自分で戦える手立てを持っていた方がいいというのもまた事実だが、街の防衛に近界への遠征、が危険な場所に身を置くことを結局は見逃してしまった今の俺を、……果たしてさんは、今でも娘に相応しい男だと思ってくれているのだろうか。海外に移住したあの人とは現在、俺も直接やりとりする機会は少なく、同居の件に関しては事前に報告は済ませており、許可も得ているが、それがどういう意味を指すのか、実際のところは分からない。
 大人の思惑などはない方がいいとは思っているらしいが、この件に関してだけ言えば、俺は正直言って、逆の考えだった。当然ながらそれも時と場合で、重要な物事はいつだって子供には知らせない、というような大人のやり口に関しては、俺も何も感じていないわけではないが。……兄さんが死んだのは五年前だが、どのようにして兄が死んだのか知らされたのは兄の葬儀の日などではなく、俺がボーダーという組織を知ってからのこと、だった。だから、大人の手段を肯定したくないという気持ちは、俺も知っている。大人になれば割り切れるなんて程簡単じゃないことも、分かっている。だが、との関係に関してだけ言えば、そういうものがあってくれた方が、彼女が俺にとっての高嶺の花じゃなくなってくれるという利点があった。
 ──最終的にはの意思が最優先だと、勿論、そう考えてはいるものの。……もしも、彼女の父親が正式に見合い相手を見繕ってきたのなら、それが俺ではなかったのなら、多分、俺は一瞬での隣にいることを許されなくなってしまうのだろう。駆け落ちでもすれば話は別かもしれないが、部下や仲間を持ち責任のある肩書を得た今、俺も彼女も、自分本位の無責任で三門市を離れられるような覚悟では、今日を生きてなどいない。それに、の選択を待つという意味でも、そんな可能性は出来る限り少ない方がいい。……例えそれが、にとっての選択肢を奪うことになったとしても、俺にとっては利しかないのだ、という考え方は、……我ながら全くもって健全では、ないな。

「──蒼也くん、おはよう」
「……おはよう、
「朝ごはん、出来てるよ」
「すまないな。今後は極力、家事は分担制に……」
「蒼也くん、お料理できたっけ?」
「…………」
「……ふふ、じゃあ蒼也くんはゴミ捨てとお風呂掃除の係で良い?」
「……了解だ」
「他の分担も、また決めようね」
「ああ、……ひとまず、食器は俺が運ぼう」
「ありがとう」

 昨夜の酒盛りも深夜まで続いたが、流石に新居に初日から泊っていくほどあいつらも野暮ではなく、木崎たちは昨夜遅くになると、各自帰っていった。帰る前に酒飲みで散らかった部屋を片付けさせて、あいつらを見送ったタイミングで、寝入っていたを寝室に運び、俺も自室で寝直した訳だったが、やはり今日もは俺よりも早くに起きだして、朝食の用意をしてくれていたらしい。
 ──今までは、お互いの部屋に泊まっていくときに、同じベッドで眠ることも少なくはなかった。一応、気を遣ってソファや床で寝ようとしてみても、風邪を引いたらいけないだとか身体を痛めるだとか彼女がしきりに心配するものだから、俺としては願ったり叶ったりだったので、クローゼットの中にある客用の寝具の存在などは黙って隠し、の厚意に甘えていたわけだが、……流石に、毎日同じ家で暮らすとなるとそうもいかないだろう。お互いに防衛任務で深夜や早朝に帰ることもあるし、寝室が同じだと起こしてしまうこともあるかもしれない。それに何より、……流石に毎晩、彼女の甘い香りと共に眠って平気でいられるほど、俺は辛抱強く出来ていないから。3LDKの新居はひとまず、一部屋ずつ自室兼寝室として使うことにして、寝室になる筈だった部屋は、客間か物置にでもしようかと思っている。
 彼女と俺との関係は、飽くまでも幼馴染の友人で、家族のような存在で、現状、恋人でも婚約者でもない。只、俺がを好きで、彼女も恐らく同じ気持ちでいてくれるのだろうと思っているだけで、そんな存在を俺は謂わば彼女の両親から預かっている立場にある。俺自身に可笑しな気を起こさない保証がない以上、事前にその可能性は潰しておかなければならない。何故なら、彼女を守ると心に決めている俺が、を傷付けることなどがあってはならないから、だ。

 ──は、大人が仕組んだ関係を、大人になった今でもよく思っていないようだから。ふたりの間にある情と好意の所在については、ちゃんと、の結論を待とうと思っていて、彼女が大学を卒業するまでは、俺から無理に答えを急かすことはしないとも、ずっと決めていた。だが、お互いに社会人になったなら、……流石にもう、それ以上は俺も待てないだろうなとも思う。俺が大学を卒業するまであと一年と少しで、が卒業するのは今から二年と少し先のこと、──その後もボーダーに留まる場合には尚更、東さんのように、大学院に進む可能性もあるから、最長であと六年、最短であと二年。……六年待てるかどうかは正直に言って自信は無くて、俺にだって、我慢の限界というものがある。……只でさえ、戦場に身を置く立場な訳で、後悔する結果にだけはしたくないという想いもあるのだ。ならば、やはりあと二年か。……あと二年、結論を待って、それでも答えが出ないようであれば、そのときには、……俺の方からに伝えようと思う。俺がいつからを好きで、彼女をどう思っていて、どれだけ大切で仕方ないのか、手放し難いと思うのか、この想い自体は他でもない俺の抱いた俺の財産だから、……最終的にそれを後押しするものが大人の思惑だったとしても、俺はそれで構わないと思っていて、それすらも俺の持てる条件の一つとして活用したいと考えていて、寧ろ外堀を勝手に埋めてくれてありがたいと思っているし、そもそも、そんなものがあろうが無かろうが俺はのことが愛おしくて堪らないのだと、……そう、伝えるつもりでいる。

「……この味噌汁、美味いな」
「ほんと? よかった、蒼也くん、朝は和食のほうが好きなのかな? と思って……、お味噌汁の具、日替わりで色々考えてるからね、楽しみにしててね!」
「……ああ、それは楽しみだ」

 ──本当に、楽しみだと思う。何故ならそれは確かに、俺の欲しかった日常、だったから。
 いっしょに暮らさないか、と。そう、彼女に打診したのも、考え無しに言い放ったわけでは全くなくて、以前から考えて計画した上でのことだった。ほんの少しでも物理的な距離がある限り、は俺に遠慮をする、何も言わなくとも家に来て欲しかったし、受け入れられたかったから渡した合鍵も、進んで使ってくれるまでには時間がかかりそうで、もっぱら俺がの家に行く方が多かった。しかし幼馴染とはいえ、年頃の女子の部屋を勝手に踏み荒らすのも憚られて、それならもう、住居を纏めてそこに彼女の領域を作ってもらった方が、……此処から先には立ち入らないという線を引かれるのは、彼女の育ちを考慮しても、あまり好ましくないとも思ったが、それでも現状よりは遥かに効率的だったのだ。手元に居てくれれば、あれこれと心配する必要もなくなるし、……いつもの発作を起こしたときにも、確実に傍で手を握っていてやれる。近くにいる口実が出来ればしっかりと守ってやれるからという、これは俺のエゴなのだとは分かっているが、そうして多少、強引にでも距離を詰めなければ、いつか取り零すような気がして、俺はとにかく彼女のことが心配でならなかったのだ。……そうして、俺の傍に居続けることが彼女の負担になるなどとは、まるで考えたこともなかったから。俺はこの選択が最善手なのだと、確かにそう思っていた。 inserted by FC2 system


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