砂糖に触るとわからなくなる

 蒼也くんとの同居を始めるに当たって、心配なことは多かったけれど、実際に共同生活が始まってみると、それを上回るくらいに楽しいことや幸せなことも多かった。蒼也くんへの後ろめたさに関しては、どうしたって拭い切れなかったけれど、私は元々、彼といっしょにいるときを一番安心できる時間だと感じていたから。その時間が増えて、毎日一緒に居られるようになって、早朝や深夜の防衛任務から戻ったときに蒼也くんが家に居たり、本部まで迎えに来てくれていっしょに帰る、ということが常態化してくると、どうしたって頬が緩んで仕方がなかったのだ。
 “強化視覚”──サイドエフェクトによる不調も今では慣れたものだったけれど、長時間酷使するとトリオン体から実体に戻った際に、“揺り戻し”のような発作に襲われることも、度々ある。そもそも、身体が不調に慣れただけ、苦しいと思うことに対して感覚が麻痺しただけで、決して原因が解消されたわけではないので、今までは家に帰るなり倒れこんでしまうことも時々あったのだけれど。でも、今はそんなときでも蒼也くんが傍に居て手を握っていてくれるから、呼吸が落ち着くのが今までよりも早くなっているような気がしているのだ。

 そんな風に、私ばかりが彼との同居の中で安息を賜っているという自覚はあったし、これでは平等ではないということにも、ちゃんと気付いていて。聡明な蒼也くんのことだし、それ以上に情に厚い彼だからこそ、私には何も言わないだけであって。きっといつかは、この共同生活で彼が被っている不利益は見過ごせないほどのものだということにも気付くはず。──だから、私はこの生活を送る上で、少しでも彼に利益を生むように心がけよう、と思った。私といっしょに暮らすことは、蒼也くんにとって“得”で理に適っているのだという条件を整えさえすれば、蒼也くんは日々を快適に過ごせるし、私も行き場のない罪悪感から少しでも逃れられるかもしれない。……彼に対する申し訳ないというこの気持ちは、背を向けて良いものではないということも分かっているけれど、──結局のところ、私はどうすれば蒼也くんに顔向けできるようになるのかが、ずっと分からないままなのだ。
 彼と私との結婚を望む父の言葉が、どれほどの強制力を持つのかなんて、正直分からない。いくらなんでも、其処までの発言権は無い筈だとは思う、けれど、……でも、父の意にそぐわない結果になったときに、父はどうするつもりなのだろう、と思うと、私にはそれがまるで想像もつかなかったからこそ、不安もあった。流石に、蒼也くんや彼の家族に危害を加えたりしないとも思うものの、現在海外にいる父は、今でも蒼也くんのお父さんと同じ会社で役員をしていて、海外からリモート形式で仕事をしているから、今でも父たちの縁が途切れた訳では無くて、……実父への態度にしては、疑い深すぎるという自覚はある。それでも、私は父と適切な信頼関係を築けなかったから。何が嫌なのかも、ずっと言えなくて、……それで今は、蒼也くんにも言いたいことが言えなくなってきていることを思うと、……私は本当に、ずっと子供のまま、大人になれずにいるのだろう、な。

「……今日も朝から豪勢だな」
「目、覚めちゃったから。少し作りすぎちゃったかな、食べられなかったら残しても良いからね」
「俺が残すと思うか?」
「うーん……蒼也くんがごはん残してるところ、見たことないかな……」
「そういうことだ。……いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」

 アジの開きと、小松菜と油揚げのお味噌汁。お味噌汁の具は多すぎると味が濁るものの、少し食べ応えがある方が蒼也くんの好みなので、必ず具は二種類と決めている。卵焼きは甘めの出汁巻きにして大根おろしを添えて、ほうれん草の胡麻よごしと白いご飯、作り置きしておいた、大根の葉っぱとしらすを炒ったふりかけと梅干しに味海苔、納豆をご飯のお供に、それから冷たい牛乳と、お腹が冷えすぎないようにあたたかいお茶も用意して。もりもりと口いっぱいに頬張る蒼也くんは大層よく食べるから、ご飯を用意する側も作り甲斐がある。「ご飯のお代わり、いる?」と尋ねるともごもごと口を動かしながら頷く彼からお茶碗を受け取って、気持ち多めにご飯をよそったお茶碗を彼に渡すと、蒼也くんはまたおかずに箸を付け始めるので、お味噌汁のお椀も空になっているのを確認した私は、そちらにもお代わりを注いで彼の前に差し出すのだった。

「……気に掛かっていたんだが」
「なあに?」
「毎日、朝も夜も……夜食を用意してくれることもあるし、食事の支度が負担になっているんじゃないか? 毎食、手の込んだものばかり、並んでいるように思うが……」
「……そうかな? いつもと同じじゃない?」
「だが、今までは、毎日ではなかっただろう。だからこそ俺も、の厚意に甘えて面倒なリクエストをしていた自覚もあるが……毎日それでは、負担にならないか? 俺は料理が出来ないから分からんが……何事も、手間と労力が掛かるものだろう」
「……でも、私はほら、料理、好きだし!」
「任務で遅くなる日だってあっただろう? それでも、毎食用意をしてくれていたからな……時々は、外食を挟むようにしないか? 代わりに作ると言えなくて、情けない話だが……」
「……分かった、蒼也くんがお外で食べたいときは、そうしよう? そのときは教えてね」
「そうではなくてだな……俺は、が疲れているときだとか、作るのが面倒なときだとかの話を……」

 私といっしょに暮らしていることを、蒼也くんに得だと思ってもらうために。……私に一番出来そうなことは、ご飯を作ることだと思った。それも毎日、しっかりと豪華で美味しいご飯を作ることで、家に帰れば食べたいものが出てくる、と。蒼也くんがそう思ってくれたなら、彼もこの同居に利益を感じてくれるかもしれない、と。……そう思って、頑張っていたのだけれど、他でもない彼自身からその点を指摘されて、幾らか居た堪れない気持ちになってしまった。どうにか蒼也くんの追及を避けようと論点をずらそうとしてみても、敏い彼は「そういう話ではないだろう」と話題を戻してしまう。……元々、実家を出てからは自炊だったし、料理が好きだというのも嘘じゃないけれど。最近は、頑張りすぎているというのも確かに否定できない部分ではある。お味噌汁ひとつ取っても、日替わりで具材どころか出汁やお味噌の種類も変えてみていることに、流石に蒼也くんも気付き始めたのだろう。……だって、私のごはん、一番食べているのは蒼也くんだもん。食卓の変化に気付かれなかったならそれはそれで悲しいのだろうに、気付かれてはバツが悪いと言うのだから、私は勝手だ。言葉を濁しながら、どうにか追及が止むのを願っていたところで、……ふと、テーブルの隅に置いたミニトートの存在を思い出して、「あ」と声が漏れてしまった。……あ、まずい。どうしよう、こんな話になると思わなかったから、……というか、“これ”、蒼也くんに渡すかどうかも決めかねていたのに、どうして、キッチンに置いてこなかったんだろう、私は。

「……?」
「あ、ごめんね、なんでもなくて……」
「……この鞄、何かあるのか? の荷物ではなかったのか」
「……あの、ええとね……それ、お弁当で……」
「弁当?」
「そうなの……あのでも、学食で食べるよね? 諏訪さんたちと……だから、余計なお世話だったかな、って思って……その……」
「……ということは、俺の分か」
「えっと、違くてね! 私、今日は大学おやすみで防衛任務だから、もしも長引いたら、本部の食堂は閉まっちゃうかもしれないし、お弁当持っていこうと思って、そのついでに……」
「…………」
「……あの、大丈夫。隊の子とかにあげるし、蒼也くんは気にせず、みんなと学食で……」
「……いや、貰っていこう。の弁当の方が、学食で食べるより美味そうだ」
「! ……蒼也くん……」
「……だが、弁当なんて手間だろう。……今回はついで、ということにしておくが……くれぐれも無理はしないでくれ。良いな?」
「……うん、ありがとう」
「礼を言うのは俺の方だろうに……」
「えへへ……」


「──あ? 風間、今日は学食のカレーじゃねえの?」
「弁当か」
「ああ、愛妻弁当だ」
「クソうぜえからやめろや、そのドヤ顔……」

 ──見慣れた学食、代わり映えのしないいつもの面子といつもの席だが、今日の俺にはから渡された弁当があるので、授業中もずっと浮付いた心地で過ごしていた。食券を買いに行く諏訪と木崎と一旦別れて席を取り、俺は携帯端末の画面を覗くが、特にからの連絡は来ていない。予定通りなら今日は夕方まで防衛任務が入っているはずだが、特に問題もなければ良いのだが。連絡してもすぐには気付かないと思うが、「迎えに行くから任務が終わったら連絡をくれ」と彼女にショートメールを送っているとふたりも戻ってきたので、ふたりに倣い俺も弁当の包みを開き、二段重ねの弁当箱の蓋を開けるとそこには、色とりどりのおかずがぎっしりと詰まっていた。からあげにカレー風味のコロッケとマカロニサラダ、きんぴらごぼうと牛筋煮込み、ウインナーとベーコンのアスパラ巻きに彩りのミニトマトとレタス。スープジャーには暖かいミルクスープが入っていて、こっちも具だくさんだ。弁当箱と別におにぎりが三個入っていて、アルミホイルを剥がして頬張ってみると中身は焼きたらこが入っている。出来合いのものではなく、どうやらが朝から焼いていたらしい。他にも、デザートとしてカットしたりんごとみかんが別の容器に入っていた。

「おお……すっげー豪勢だな……なんかめでたいことでもあったのか?」
「いや……が今日は防衛任務で弁当を持っていくから、そのついでに作った、と言っていたが……」
「あ? 本部の食堂使えばよくね?」
「閉まっていたら困るからと言っていた」
「……閉まるか……? この時間に……?」
「まあ、閉まらないだろうな。……言い訳だろうとは思っていたが……全く、あいつは……」
「ハァ? なんで溜息? お前の為に作ったってことじゃねーの?」
「だろうな……木崎、この弁当を作るのに、お前ならどのくらいの時間がかかる?」
「俺か? そうだな……どんなに手際よく作っても、一時間半か二時間くらいじゃないか……? それも、昨夜のうちに仕込みを済ませておけば、の話だが」
「……ついでに聞くが、出汁を取る、というのは難しいものか?」
「出汁……? まあ、難しいことではないが……昆布なら濡れ布巾で拭いたりと、地味に手間ではある」
「作り置きとかはできるのか?」
「出来るが、長持ちはしないな。冷蔵庫で一日というところだ」
「……そうか……」
「オイ、さっきから何を思い詰めた顔をしてんだ、お前……?」
「ああ……何かあったのか? 風間」
「いや……」

 は料理が上手いが、あまり量は食べない。ふたりで外食に出たりすると、一人前を食べきれなくて俺が残りを貰ったり、最初から分け合う前提で注文することがままあって、……だから、まあ、この品数と量とを自分の為に彼女が作った、というのはどう考えても嘘なのだろう。俺の詮索を避けるために咄嗟に言った、の優しい嘘なのだ、きっと。俺は料理が碌にできないから、具体的にどの程度の手間が掛かっているのかまでは分からなかったが、木崎の反応からすると、この弁当も毎日の朝食や夕食も、相当の手間暇が掛けられているということで間違いはなさそうだった。
 に──好きな相手から手料理を振舞われたり、こんな風に弁当を持たされたりすることは、正直に言えば、嬉しい。彼女の傍に居るのは俺で、幾許かを傾けられているのは俺なのだと実感できて酷く満たされた気分になる。……だが、お互いに学生生活とA級部隊の隊長という立場を持つ訳で、彼女の日々のスケジュールが過密なことくらいは俺も知っている、……というよりも、俺だからこそ知っている以上、同居を始めて二週間、というこのタイミングで日々の食事事情には俺とて違和感を覚えた。最初の頃は、引っ越し祝いと称して互いの友人たちが家に押しかけてきたりだとか、今夜は豪勢に、なんてご馳走が並ぶ日も多々あったが、そんなことが二週間も続けば、流石に心配にもなるものだ。……彼女の負担を減らしてやりたくて申し出た同居生活で、かえってに負担を強いることなど、俺は望んでいない。

「……あ、風間さんたちだー。此処座っていい?」
「太刀川と二宮か、座るといい」
「……お疲れ様です、失礼します」
「なになに、風間さん、今日、弁当なの? いつもカレーなのに?」
「おー、愛妻弁当だってよ」
「へー、じゃあの手作り弁当? あ、コロッケ入ってんじゃん! ちょうだい!」
「駄目だ」
「えー、いいじゃん。風間さんはいつでも食えるだろ? の飯美味いんだよな、なあ二宮」
「……ああ」
「目の付け所は褒めてやるが駄目だ。……これは、が俺の為に作ったものだからな」

 ──良いことではないな、と思う。本格的に彼女の負担になる前に、すぐに無茶はやめさせなければならない、とも思う。だが、これは彼女なりに考えた“俺のため”の行動なのだと思うと、どうしようもなく満たされて仕方がない。ひとくちひとくち、胃の中に滑り落ちていく熱に、腹も心も独占欲も、すべてが満たされていくような心地の中で、──実際、俺が望んでいるほど、俺は、の保護者になり切れてはいないのだと、そう思った。俺が彼女に何かをしてやりたいだけ、守ってやりたいだけなのだと口ではそう幾らも言えたとしても、……俺の心と体を作り、護っているのもまた、きっと彼女なのだ。俺は彼女を守りながら、彼女に守られることで、はじめて息が出来ている。 inserted by FC2 system


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