クリームの山肌が月光を掠め取る

 俺ととは空の定義において、番であり、カップルという関係である、というのが俺の認識だったが、先日に俺が事も無げに放ったその言葉に、はひどく困惑して、動揺しているような様が見受けられた。決して否定されたわけでは、なかったが。……一体、あれは何故だったのか。……残念だが、この問題についてひとりで思考したところで、恐らく埒が明かない。ならば、俺よりも空の世界に詳しく、同時に俺とをよく知る人物に尋ねてみようと、俺はそう考えたわけだった。

「……という訳なのだが、何故は、俺と彼女がカップルであるという前提を否定する?」
「……兄弟……色々と言いたいことはあるんだけど……まず、聞いていいかな?」
「なんだ、アイザック」
「きみ、……に、告白はしたの?」
「こく、はく……? ……俺は何か、に打ち明けるべき要件や秘密があっただろうか、身に覚えがないが」
「……ううん、そうだな、兄弟……、ズバリ聞くけど、きみって、のことが好きなのかい?」
「好きかどうか、だと? 無論、俺はに好感を抱いている。お前とてそうだろう、エンジニア」
「……え!? ぼ、僕がかい!?」
「ああ。彼女は優れた人物だ、好意こそ抱いたとしても、悪意を抱くことはなかなかないだろう」
「……ああ……そういう……ううん、どう説明したものかな……確かに、あちらはそういった価値観とは程遠いもんな……きみだって、個人の意志は度外視して管理されていたわけだし……」
「? アイザック、お前は何を言っている?」

 すっかり馴染みになった酒場へとアイザックと久々に足を運んだ際に、俺が奴へと一連の問いを投げかけたのは、この問題の解決に関しては、アイザックこそが適任だと考えたからだった。アイザックならば、俺だけではなくとも面識が深く、彼女の人となりをもよく知っている。冷静な意見を述べてくれるはずだ、と。そう考えての合理性に適った判断である……と、俺は考えていたのだが。俺の疑問を受けたアイザックは酷く神妙な顔をして、いくつかうめき声を上げてから、どうにかこうにかといった素振りで、言葉を切り出すのだった。

「その……番、カップルといった言葉は、単純に男女の相棒を差す訳ではなくてね……恋仲のふたり、恋愛関係にあるふたりを指す、というか……」
「恋、愛……? ……なるほど、空の書物、物語でよく綴られていたテーマだったな。その概念は俺も知っている」
「ああ、良かった。全くの無知というわけではなかったんだね……いいかい、兄弟。恋仲っていうのは互いに想い合っている関係のことだ。そういうふたりを、カップルとか番と呼んで、そういった相手のことを恋人と呼ぶ。そして、恋人は一人に対して一人だ。これを破ってはいけない」
「ほう……そういった取り決めがあるのか」
「ああ、そうだよ。……だから、もしもきみがの恋人だとすると、はきみの他には恋人……最も特別な相手を作れない、ということになる。逆に、その前提がなければ、はカシウス以外に恋人を持つことが出来る。例えば、そうだな……ユーステスかバザラガと、彼女が恋人になったとしよう」
「……何……?」
「仮の話だよ。……しかし、もしもそうなった場合には、もう兄弟と彼女がカップルになることは出来ない」
「……それは……」
「嫌かい?」
「……カップル、というものは相棒とは違うとお前は言ったな、アイザック。現状の俺との関係が相棒だとすると、カップルになることでどんな利点や権利を得られる? 何がどう変わる?」
「え、う、うーん……そうだなあ……」

 一概に定義付けるのは難しい、と前置きした上で、アイザックは何処か気恥ずかしそうに“恋人”というものになった場合に相手に対して得られる権利を、俺へと説明してくれた。「もしも、兄弟がそういった行為への欲求をに抱いているのなら、彼女への気持ちを恋、と定義してもいいんじゃないかな」とも奴は語り、俺はと言うと、なるほどやはりアイザックに相談したのは正解だったと感じていた。空の世界の価値観は感情的で、俺には理解が及ばない場合も多々あるので、理論立てて説明してくれるのは実にありがたい。──恋、というものに関してならば、それは感情論における一種の極地だというのだから尚更のことで。……率直なところ、定義を説明された上でも、俺には彼女への感情が恋であるのか、いまいち断言が出来なかった。──俺は、を好意的に感じている。彼女といると、何処か安心する。麺屋油星のラーメンを口にした時のような、穏やかさと懐かしさと充足と幸福に包まれた気持ちを、彼女はいつでも俺に与えてくれるのだ。月へと戻るあのときにも、月で肉体を取り戻したあのときにも、──空へと帰還したあのときにも、……俺が真っ先に思い浮かべたのは、会いたいと願ったのは、でしかなかった。彼女が月まで俺を迎えに来てくれたことも、空で俺を待っていてくれたことも、そして今でもまだ、共に歩いてくれていることもすべて、俺は得難く感じているし、のことを他の何よりも大切だと感じる。……彼女のほほえみで、カシウス、と己の名を呼ばれることに、俺はいつだって、この上ない充足感を覚えているのだ。

「……参考になった、明日にでも確認してみよう」
「か、確認かい?」
「ああ、明日にはと合流するからな。……ところでアイザック、恋人になるには何か手順が必要なのか。告白、と先ほどのお前は言っていたが」
「ああ……そうだね、基本的にはだけど、例えば……」


「──、今日は折り入って、お前に相談がある」
「? 相談……? 何か、困ったことでもあったの?」
「ああ……聞いてくれるか」
「うん、もちろんよ。……私で力になれること? カシウスのためなら、私は何でも……」
「キス、……というものがしてみたい」
「……うん?」
「お前とキスがしたい、。よろしく頼む」
「……え、っと……き、す、っていうのは……?」
「はて、男女が唇を重ね合わせる行為だと聞いているが。認識の齟齬があったか?」
「いや、あの……祖語はない、けれど、……な、なんで急に……本か何かで影響でも受けた……?」
「いや、……単純に、お前とキスをしてみたい、と思っただけだが」
「いや、だからどうしてそんな……!? ええええ……? あの、カシウス、それがどういうことだか、ちゃんと意味わかってる……?」
「定義は理解しているつもりだ。……こういった行為は、恋人同士でするものだとも理解している。……俺とは、恋仲……カップルという物には該当しないのだ、ということも既に学んだ」
「まあ……それは、そうだね……」
「ああ。だからこそ、お前に承諾を得なければ、俺はお前にキスが出来ない。俺は、お前の恋人ではないからな」
「……うーん……それで、そっちの承諾を得る方向に行くんだ……そっかあ……」

 ──月と組織との一連の騒動を経た後、俺とはグランサイファーを拠点として日々を送っている。組織が事実上の解散になり、も一ヶ所に縛られる理由はなくなり、俺と共に団長の元で過ごしている以上、翌日に俺が艇へと戻れば、が俺を出迎えることになる。そうして、の元へと戻った俺は、昨夜のアイザックとの会話から導き出した結論を、彼女へと提案したのだった。……が俺以外の誰とカップルになるかもしれない、と言われたときに俺が抱いたのは、言い知れない拒絶感で。よく見知った、信頼のおける人間──ユーステスやバザラガをの相手として、例に挙げられたにも関わらず、俺はどうしてかそれを嫌だと思った。……聞いたところによると、キスというものがしたい、という欲求を感じる相手には恋をしている、と定義付けられるそうだが、俺は残念ながらそのキスという行為がどういったものなのか、知識の上でしか知らない。その衝動を、俺は未だ知らないのだ。──だからこそ、俺はそれを知りたいと思った。彼女に対して“そういう気持ち”になるのなら、これが恋だと断言出来るのであれば、俺が“そういう気持ち”とやらになるかどうかを試してみる他に、最善の解決策はあるまい。

「……あのね、カシウス。その……キスって言うのは、好きなひと、とすることで……」
「ああ、理解している」
「だから、……なんか思ったのと違ったな、って感じた場合、カシウスが傷付くかもしれないから、ちょっとそういうのは、その……」
「いや……俺が傷を負う可能性は限りなく低いと判断した。俺はに好意的で、こういった関心を抱く程度には、お前を特別視している」
「そ、……そう、なの……?」
「ああ。……だからこそ、確信が欲しい。それを得たならば、また行動を起こす必要があるからだ。早いに越したことはない。ただ……」
「ただ……?」
「……傷を負う可能性を考慮するならば、それは俺よりもの方だ。俺が頼み込んでいる以上、お前は断らないと経験則で予想しているが……もまた、その行為を望んでいるとは限らない」
「そ、……れは……」
「故に、お前が傷付く可能性があればそれは考慮しよう。断ってくれても構わない、俺とてを傷つけるのは本意ではないからな……興味や関心に負けて、お前を蔑ろにするのは流石に気が引ける」
「……カシウスさあ……ほんと、そういうところだよ……」
「……? そういうところ、とは?」
「私はあなたが想うよりもずっと、カシウスのことが好きなのだけれど。……あなた、全然分かってないんだもの」

 分かっていないとは、どういうことだろうか。俺がに安息を得ているのと同じように、の方も俺の傍に在ることで、一定の幸福値を得ていると認識しているが。……それは、俺が想うよりもずっと、俺はお前に好かれているのだと、……つまり、お前は俺に恋をしている、と定義付けられるのだと、そう判断してもいい、ということ、なのだろうか。──俺がそうして思考を巡らせている間にも、見知った彼女の私室、寝台の上に座る俺の元へと、部屋の簡易キッチンで紅茶を淹れていたが戻ってきて、傍らのテーブルへとティーセットの乗った盆を置いた。それから、彼女は俺の方へと歩み寄ると、……す、っとの白魚のようなすべらかな手が俺の頬に伸びて。

「……後悔した、って言われても、私、どうにもできないからね……」

 ──次の瞬間に、ふに、と俺の唇になにか柔らかいものが押し当てられていて、俺がそれを、の唇だと認識するまでにさほど時間は要さなかったし、……そう理解した途端に俺の内側では、ぶわ、と未知の衝動が脳天から電流のように駆け巡る。

「……これで、気は済ん……え、あの、カシ……!?」

 ──衝動に身を委ねる行為には、脳が慣れない。だが、思考が置き去りになるほどの情動に引き寄せられて、俺は気付けば無意識で、無我夢中にの後頭部と腰へと腕を回し、俺の正面に中腰で屈んでいたを、俺の膝の上へと、ぐい、と乱暴に抱え込んでいた。急な俺の行動に動揺している、彼女のまるいひとみに見つめられると、不思議と余計に高揚して、もう一度彼女とキスをしてみたくなる。まずは、先ほどがしたように、ふにゅ、と唇をそうっと合わせて、押し付けては離してを何度か繰り返しているうちに、他のこともしてみたくなってきた。……確か、いつぞやに読んだ絵物語では、男女がこうして舌を差し入れ、絡め合うキスをしていた気がする、と思い出して、それを真似てみる。舌を吸っては歯列や口内を舐めまわし、なぜそんな真似をするのか、以前は非合理極まりないな、といった感想しか抱けなかったが、……なるほど、これは、確かに。……妙な高揚感が、あるな。息苦しげに鼻から漏れる、のいつもより高い声も耳に心地よく、何故だか背筋が震えるような、肌が泡立つような、体が火照る、ような。……確かに、知らない感覚を、この行為は呼び起こしている。

「か、しうす……っ、もう、ながい……っ!」
「っ、……すまない、その、思わず、高揚してしまった……」
「そ、そ、っか……ぁ」

 しばらく俺はそのまま、とのキスに没頭していたが、どん、と。の手に胸を強く押されて、流石に我に返る。まだ幾許かの名残惜しさを覚えながらも、俺がを解放すると、肩を揺らしておおきく息を吸い込む彼女の頬は赤く、瞳が潤んでいて、……ごくり、と何故だが喉が鳴った。……これは、なんだ。この、食欲に似た感覚でありながらも、未知の興奮を得る感覚は、この衝動は、欲求は、……一体、なんだ。

「……、俺はどうやら、高揚しているらしい、おそらくはお前とのこの行為に……」
「そ、それは……、あの、もう、知ってるけれど、その……」
「? 知っていたのか、ではやはり、これは……」
「……分かってるよ! 興奮してるのは分かってるってば!」
「? ……?」
「だって、あの……ここ、硬いのあたってる、から……」

 居心地悪そうにもぞもぞと腰を浮かしながら、はおずおずとそう切り出し、真っ赤な顔で目を逸らしながら、俺の股座を指差している。……ああ、そうか。

「……この現象には、今の行為と何か因果関係が?」
「え!? ……そ、そっちは知らないんだね……!?」
「? ああ。何故かは知らんが、現在、俺の股間には熱が集まり、硬くなっている。……これはなんだ? 興奮の度合いと関係があるのか」
「……いや、えっと……それは、そうなのだけど……」
「……俺はキスという行為をここまでしか知らないが、……もしや、この行為にはまだ続きがあるのか? もしや、その準備を、身体が整えているということではないのか? フェディエルが言っていた、番の睦み合いとやらの答えか? ……は、知っているか?」
「え、え、あの……!」
「なるほど……そうだな、お前の許可を得られるのなら、そちらも試してみたい」
「……はぁ!?」
「既に答えは出たようなものだが……興味深い。すぐにやろう、。お前は、俺が好きだから俺の頼みは断らないと先ほど言っていたな……さて、まずはどうすればいい? 手順を説明してくれ」
「……だからあ! 順序が、おかしいんだってば……!」

 結局、への打診は跳ね退けられてしまい、……彼女でも俺の頼みを断るのだと驚いた半面、聊かのもの悲しさを覚え、衝動の行き場を知らないまま、俺はその日、「それが落ち着くまで、絶対に部屋から出ちゃだめだからね!?」と彼女に釘を刺されて、……ふたりきり、何故かじっとりと非難の色を湛えながらも、決して俺を蔑ろにはしないのとなりで、悶々とした時間を過ごすことになったのだが、……この日、俺が如何に無神経で不躾な申し出をしていたのか、俺が真実を知ることになるのは、もう少し先の話だった。 inserted by FC2 system


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