運命を裂いてしたたる琥珀シロップ

※学生時代


 薫くんからスケートを習いはじめて、暫く経つ。オーリーが出来るようになるまでに2ヶ月近く掛かってしまったけれど、それでも、薫くんたちは筋がいい、と言って私を褒めてくれたから、私がスケートにのめり込むまでは、本当に一瞬だった。仲間内で女の子は私だけだったし、最初は少し浮いてもいたけれど、スケートに真剣な私の姿を見て、彼らもいつからか、私を仲間として認めてくれていて、……だから私、油断していたのかもしれない、な。

「……、僕とビーフをしてくれないか?」
「……え?」

 その日、愛抱夢がぽつり、と漏らした言葉に、私は少し驚いて。フードの奥、表情が伺いづらい愛抱夢のくらいひとみに、ごくり、と思わず息を呑みこんだ。……あの頃、私達がまだ学生だった当時、後のエスの原形になった、閉鎖された崖道で、愛抱夢がスケーター潰しをしていたことを、当時の私は知らなくて、……後に、薫くんたちが私を心配させまいとその事実を伏せていたことを、知らされるのだけれど、……とにかく、私はその日、何も、知らなかった、から。愛抱夢の言葉にも、素直に耳を傾けてしまったのだ。

「で、でも、……薫くんと、スケートを教えてくれる条件に、ビーフは絶対にしない、って約束してて、それが出来ないなら、教えないって……」
「きみはもう、チェリーにスケートを教わっていないだろう?」
「で、でも……だめだよ、薫くんとの約束、破ったことになっちゃう……」
「ふうん? ……は、知りたくないのか?」
「……え?」
「チェリーが見ている景色、……きみは見てみたくないのか?」

 どくん、と心臓が跳ねる。……愛抱夢のその言葉は、私のしまい込んでいた本音を引きずり出してしまった。……見てみたいよ、それは、もちろん。だって、薫くんが滑る姿を見て、私はスケートを知ったんだもの。知りたいよ、彼の見ている景色を、本当は私だって、見てみたいと思っていた。

『俺がお前にスケートを教えてやる、優等生。……だが、ひとつだけ約束しろ』
『なあに? 桜屋敷くん?』
『絶対にビーフはしないこと、これが条件だ』
『……ビーフ……?』
『1対1の真剣勝負のことだ。どんな妨害も許される、危険な滑りになる。だから、それだけは絶対に、やらないこと。約束できるか?』
『そ、そんなの、きっと私には出来ないよ! やらないから、大丈夫!』
『よし。それと、危険なトリックは全面禁止だ。それは逐一俺が判断する、お前の技量や体型、筋肉量を考慮して、無理のない滑りを最優先にすると……』

 その約束をしたときには、私には無理だと思っていたから、迷わずその言葉にも頷けた。それからも、その約束はずっと保持されていて、薫くんは私には絶対、危険が伴う滑りはさせてくれない。過保護過ぎる、なんて、虎次郎くんや愛抱夢には時々言われていたけれど、それらも全て、薫くんが私を心配してくれているからだ、と。分かっていたから、納得していたし、我慢していた、……そう、我慢していたのだ。本当は、私、……薫くんと同じ景色を、見てみたかったのに。

「大丈夫さ、少し難しいコースだが、僕が先行してルートを案内するし、練習、だと思えばいい」
「練習……?」
「そう。ビーフってこういうものなのか、と。感覚さえ覚えられれば、次はチェリーとビーフが出来るはずだ。そのための練習、だと言えばチェリーだって怒らないさ」
「……そう、かな……?」
「ああ、そうだとも」
「……うん、それなら……愛抱夢、私とビーフ、してくれる?」
「ああ、是非やろう。それなら今夜、場所は……」



「……ああ、残念だ、きみこそが僕の運命のイヴだと思ったのにな、……」

 ざあざあと強い雨が打ち付ける音さえも、遠くにしか聞こえない。それなのに、愛抱夢の声だけは、脳髄に響くくらいにはっきりと聞こえて、……何が起きたのか、分からなかった。からだが、いたい。あめ、つめたい、な。でも、視界がぼんやりして、よくみえ、ない。だらり、とぼやけた視界に、赤いものが流れ込んで、それが自分の血だと気付いて、私はようやく、自分が地面に転がっていることに気付いた。……そうだった、私は確か、愛抱夢とのビーフの途中で、崖から落ちたの、だ。傾斜が厳しいコースで、急なコーナーもクラックも多いし不安だったけれど、愛抱夢が先行してくれる……という話、だったのに、いざビーフが始まってみれば、そんなこと、全然なくて。私も必死で、愛抱夢の妨害を受け流したり、かわしたり、してみたけれど、それもゴールまでは、とても保たなくて、

「……!」

 かおるくんの、酷く焦った声が、聞こえる。私の頬に触れた手は、冷たくて、震えていて、彼が動揺していることが分かったから、大丈夫だよ、って、そう言いたいのに、岩肌に強かに打ち付けた肺は、うまく音を発してさえくれなかった。

「……愛抱夢! 何故こんな真似を!」
「薫! 今は病院が先だろ! しっかりしろ! お前らしくねえぞ!」
「あ、ああ……、少し揺れる。辛抱してくれ……!」

 ふわ、と浮遊感に包まれたのを最後に、私の意識は、そこで途絶えて、……そうして、ひりひりと焼け付くように、愛抱夢の悲しげな声色だけが、脳裏から離れなかった。……なんで、どうして。練習だって言ったのに、薫くんとビーフが出来たら嬉しいだろうって、愛抱夢はいつも優しくしてくれたのに、……なんで、あんなに冷たくて、悲しそうな声で。私じゃなかった、って、なに。イヴって、なに? ぜんぶ、ぜんぶ、嘘だったの? 今までの全部、うそなんて、そんなの、うそだよね、ねえ、愛抱夢、わ、たし、


「……気が付いたか?」
「……か、おる、くん……」
「良かった……肝が冷えたぞ、本当に……」

 ……目が冷めたとき、私は、病院のベッドの上に寝かされていて、至るところに包帯を巻かれていた。体中が痛くて、まともに動かせなかったけれど、ベッドサイドの椅子に座っていた彼が、心の臓から絞り出すような声でそう呟くものだから、どうにか、首だけを動かして彼を見る。

「……薫くん、ごめんね……」
「……何故謝る? 俺がもっと早く、お前と愛抱夢の動きに気づいていれば……そもそも、お前に愛抱夢のしていることを伏せていたのは俺だ。教えていれば、こんなことには……」
「……薫くんは、悪くないよ」
「……?」
「わたし、約束、破っちゃった。……ごめん、ね……」
「……そ、れは……そう、だが……」
「……薫くんとビーフ、してみたくて……愛抱夢が練習しようって、それで……そ、れで……」
「……もういい。お前は愛抱夢には、もう関わるな」
「で、でも……」
「……なんだ?」
「……愛抱夢、言ってたの……私にイヴになってほしかった、って……」
「……イヴ?」
「何か、してほしかったんだと思う……だから、ちゃんと話、聞いてあげないと……」

 愛抱夢が言っていた、イヴ、の意味は正直、よく分からなかった。けれど、もしも愛抱夢が誰かを求めていて、一瞬でも、私にその可能性を見たのなら、……愛抱夢がこんなことをしたのには、きっと理由があるはずなのだ。だったら、ちゃんと話を聞いて、いっしょに解決策を見つけてあげないと。だって、あんなに悲しい声で、泣きそうな声で、きみじゃなかったなんて、と。……愛抱夢はあのとき、そう言ったのに。

「……ああ、そういう、ことか……」

 ……でも、薫くんは険しい顔で、そう呟くと、唇を噛みしめる。そんなに強く噛んだら、ピアスホール、傷付いちゃうから、だめだよ、って。そう、場違いなことを言おうとした私の手を、……薫くんは、ぎゅっ、と握って。

「……そういうことなら、尚更だ。……安心しろ、愛抱夢も話して分からない男じゃない」
「で、でも……」
「それから、……これからは、約束は守れ。……お前の意志を無視していたのは認めるが……こんなことは、二度となしにしてくれ、頼む。……お前には、笑っててほしいんだ、俺は……」
「か、おる、くん……」
「薫で、良い」
「……薫?」
「イヴになんてなるな、お前は、俺の隣で笑っていてくれ…………」

 懇願するように握られた掌、必死な表情で告げられた言葉。……ああ、私は、ただスケートを綺麗だと思ったんじゃ、ない。このひとが、薫が滑っていたから、あんなにも目を奪われたのだと、そのとき、私はようやく気付いた。……私が見ていたのは、ずっと、薫のスケートであって、それは同時に、薫自身でもあったのだ、と。 inserted by FC2 system


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