さくら色に煙るやわらかな荒野

 最近、思い悩むことが多かったから、だろうか。スケートに乗る際の鉄則、これも薫の受け売り、だったけれど。……まずひとつは、体調面を何よりも優先すること。これは、少し疲れているけれど大丈夫、という過信は必ず事故を招くから。そしてもうひとつ、……集中力が途切れているときは、決して乗らないこと。これも、周りが見えずに無理なスピードを出したりして、事故に繋がるから。何度も聞かされた薫のその言葉を加味して考えるなら、その日、私のコンディションは間違いなく最悪だった。数日前に、港で夜遅くまで愛抱夢のことで考え込んで体を冷やし、少し風邪気味だったし。体が重い、という感覚は今朝からあったのだ。でも、だからこそ頭を冷やしたい、なんて考えなしにクーラに乗って家を出た私は、……結局、出先で車を避けようとして見事に転倒して。

「……っの、ドアホ! 俺が何度も言って聞かせた言葉を、全部忘れたとは言わせんぞ!?」
「……ご、めん……かおる……」
「……ハァ……まあ、捻挫で済んだのは不幸中の幸いだが……腱が切れたり、骨が折れていても何ら可笑しくはなかった。分かっているのか、
「……うん」
「……暦から連絡が来たとき、心底肝が冷えたぞ……」
「……ごめんね」

 もう何年もスケートをやっているから、身体は自然とボードに乗ることを覚えていて、最近は久しく怪我もしていなかった。けれど、どんなに熟練でも、プロだって怪我をするのがスケートというもので、……あ、まずい。このまま転んだら、絶対にまずいことになる、と。そう、気付いたときには、私の両足はボードから離れていて、身体はボードとは正反対の方向に向かって、投げ出されてしまっていた。……偶々、その場に暦くんとランガくんが居合わせて、更にその場に通りかかった、お花屋さんの配達帰りのシャドウが私を車に乗せて病院まで送ってくれて、処置を待っている間に、暦くんから薫に連絡が行ったらしい。仕事の最中だったのだろうに、慌てて駆け付けてくれた薫に、私は当然、返す言葉もなく。……また、彼の足を引っぱってしまった、と。病院の待合室で、やるせなく汚れたつまさきを見つめて。そんな私を見下ろしていた薫は、……どさり、と隣に腰を掛けて、ぽつり、ぽつりと、言葉を漏らし始めた。

「……、お前、ここ数日、様子が可笑しいぞ……」
「……え、っと……そんな、こと……」
「無いわけがあるか。……話したくないのなら、無理に聞き出すのも気が引けると、そう思っていたが……これ以上は見過ごせん。……愛抱夢と、何があった?」

 ……愛抱夢に言われたことを、薫に伝えるのが、怖かった。だって、もしも本当に愛抱夢の言う通りだったのだとしたら。言葉に出すことで、……彼は、私から離れていってしまうかもしれないと思ったから。私、薫が好きなの。私にスケートの世界を教えてくれた薫のことが、本当に大好き。私の世界の窓を開いてくれたあなたに、……もしも、私が負い目を感じさせているのなら、離れなきゃいけないんだって、ちゃんと分かっている。……分かって、いるけれど、……分かっていても、怖かった。あなたを失ってしまうことが、私はどうしても、怖かったのだ。

「か、おるは……」
「……俺が?」
「薫は、……私が愛抱夢とビーフをして、怪我をしたことを、負い目に感じているから、私と一緒に居てくれるんだ、って……」
「……は?」
「薫にそんな負い目を背負わせてしまったことに責任を感じてる、って……本当なら、それは愛抱夢の責任なのに、薫が可哀想だって……」
「……愛抱夢が、そう言ったのか?」
「……うん……」
「……あいつ、何を今更……!」

 私の言葉を聞くと薫は、ぎり、と歯噛みをして、それきり俯いてしまう。桜色の長い髪の隙間から覗くその表情は、……ひどく険しくて、びくり、と思わず肩が跳ねてしまった。そんな私の反応を見て、何処か焦ったように薫は、ぎゅう、と膝の上で握りしめた私の手を取って、そうして、固く結んだ私の指先を、彼の長い指が解いていくのだ。

「……お前は、それを信じたのか」
「わ、……からない……けれど、愛抱夢の言うことは確かに、もっともだと思って……」
「……この、ボケナスが! そんな訳があるか!? 俺は、俺の意志でお前と一緒にいるだけだ! こんなに雁字搦めにして、おまえの逃げ場を奪って! 俺から離れられなくしたのは……!」
「……かおるの、意志、なの?」
「……そうだ、俺の意志だよ……呆れられても可笑しくないくらい、おまえを縛ってしまっている……んなもん、愛抱夢の代わりだの責任感だので、そこまで出来ると思うか!? 俺は、ただ!」
「…………」
「……おまえが好きなんだよ、……信じてくれ、それだけは俺にとって、絶対に断言できることだ、嘘偽りのない、本心だ……」

 ……ああ、そうだよ、そうだった。薫は、私に嘘なんていわない。このひとは、そんな風に安っぽい罪悪感で動くような人じゃなくて、今だって正々堂々と正面から、愛抱夢との因縁に蹴りをつけようとしていることも、ちゃんと、知っていたのに。

「……ごめん、ごめんね、かおる……」
「……ちゃんと、分かってくれたか?」
「うん、うん……わ、たし、まわり、みえてなかった、ね……」
「……仕方もない。愛抱夢との再会は、衝撃だったのだろう。……なあ、
「……うん」
「俺は愛抱夢に、必ず詫びを入れさせる。お前に対してな。……だから、そのときは、」
「……うん、ちゃんと見に行く」
「……ああ、良かった。お前が見ていてくれるなら、俺は負けんさ」

 意を決したような表情を浮かべる薫の横顔には、言いしれない迫力があって。……それでもう、分かってしまった。薫はきっともうじき、愛抱夢とビーフをする。……私がいちばん、見るのを恐れていた光景は、きっともうじき、目の前で繰り広げられるのだ、と。 inserted by FC2 system


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