白木蓮と泥の舟

※ver.1.5時点での執筆。



 持明族は、繁殖による種の繁栄を必要としていない。
 ──尤もこれこそが、持明族は数が減ることはあっても増えることはない、という種としての欠陥の裏付けでもあるものの、不朽の龍に由来する来歴を持つ我々の一族は、一種の不死性を持ち輪廻転生を繰り返すことで種を存続させてきた。
 今代の龍尊たる余などはその最たるもので、前世も今世もそして来世とて、余は初代から大差のない風貌で龍尊の資質を持って転生することだろう。
 脱鱗──転生を経た際に、持明族は別人として生まれ変わり、同時に前世の記憶を失うが、不朽に近しい龍尊の資質を持つ余は、通過交渉を乗り越え“重淵の珠”と“龍化妙法”を経たことにより龍祖の往事を覗き見て、飲月君という称号を手に入れた。
 よって、余は他の者どもよりは前世以前の自分に纏わる記憶を多少は持ち合わせているものの、──それでも、それらは過去の影法師で在り、余ではない何者かに過ぎない。
 脱鱗後、転生したばかりの持明族は周囲からの教育や庇護を受け、自分の状況や使命を教え込まれる。
 ──尤も、使命などという役目を背負って殻を破るのは龍尊くらいのものであろうが、──似たような境遇を背負っている者が余の他にひとりも居ないという訳でもない。
 ──は、持明族でも数少ない、それら例外の内のひとりであった。

「龍尊さま、おはようございます」
「……ああ」

 は、鱗淵境の守護者たる役目を前世以前より背負っている女であったのだが、──とはいえ、鱗淵境、引いては持明族の守護者など龍尊が一人いれば事足りるが故に、初代が誕生して以来と言うもの、女たちが鱗淵境の危機を退けたことなどは一度たりとも無かった。
 存護の盾を持ってして、鱗淵境に防壁を張り巡らせることが女の仕事であったが、鱗淵境が外から攻撃を受けた上で、龍尊がそれを退けられぬ事態などは、そもそも起こり得る筈もない。
 我ら蒼龍の一族が羅浮へと身を寄せたその当初には、そう言った役目も必要だと当時の者たちが考えたからこそ、女の役割は生まれたのだろう。
 しかしながら、の先代もその前も、必要とされる有事などには一度たりとも直面した例はなく、結果として、今世のは羅浮の持明族の中でも必要のないものとして存在を軽んじられ、専ら余の傍仕えとして扱われているのだった。
 “有事の為に重用し、龍尊を護る為にこそ、飲月君の傍に置かれている”──それが、長老や龍師どもの言い分のようだが、余の傍らに居たところで、女には余に挨拶して茶を汲む程度の仕事しかない。
 それでも、決してめげずに防壁を張る役目も担ったままで、毎日、余の傍では穏やかに、まるで何も分かっていないかのように微笑む女の安穏としたその顔が余はいつも妙に腹立たしく、──しかしながら、この女の淹れる茶は格別に、旨かった。
 ……恐らくは余の好みを最も熟知しているのが、忌々しいことにこのという女でしかないからなのだろう。

 ──そうだ、確かに余は、以前まで、その事実さえも疎ましく思っていた。
 ──だが、今にして思えば、──革新的なやり口で長老や龍師どもとの確執を深め、己が玉座に着いている筈の一族の中でさえも孤立を深めていた余にとって、……ずっと昔から、のみが、一欠片の澱みもなく余に微笑みかけてくれていた存在だったのだろう。
 は権力争いなどというしがらみの輪の外に置かれていたからこそ、彼女だけは余に真摯に向き合って見つめてくれていた。故に、の淹れる茶は上手かったのだ。
 ──彼女だけが、茶の温度の好みまでをも把握するほど余の傍に居てくれた。
 余とて心の内ではその事実に安堵して居たのだろうに、しかしながらそのような情緒を言い表せるほどに己の気質が穏やかではなかったからこそ、余はを只々疎ましいものとばかり思い込んでいたのだ。……近頃、そのような己の胸の内に気付き始めたのは、──十中八九、応星たちと関わりを持ったことで、余が幾らか苛烈を削がれたからだと、……きっと、これもそれだけの話に過ぎないのだろう。……の態度は以前と何も変わらないと言うのに、余ばかりが彼女を視線で追いかけているというのは、なんとも腹立たしいものだ。
 
 ──要するに、余はこれまでの日々で長らく自身の心の機微を見落として、それ故ににつらく当たり続けてきたのだと、……これは、そういうことになる。……はそれでも、決して余に対して怒りや憎しみといった感情を向けてはいないように思うが。
 何もは武に優れているわけでもないため、余が雲騎軍へと身を置くようになってからも、彼女には軍との関わりなどはなく、しかしながら、特殊な立場を持つ余の従卒として軍への出入りを許されている関係で、応星たちとも幾らかの面識がある。
 鱗淵境の内部では一族に疎まれていた彼女だが、応星たちにはを敬遠するような理由がない。
 白珠と鏡流などはと既に親しく、自身も同性の友人を初めて得たことで思うところがあったのか、ふたりと話す際には嬉しそうに笑っており、……それは、余が応星と過ごす時間に抱いているものに似ているのかもしれないと思えばこそ、……不思議とそれさえも喜ばしく思う己までもが居るというのだから、……全く、余は自覚以上に、この女の存在を得難く思っていたらしい。
 しかし、応星に限っては奴の愛する者の存在を知るからこそ然程気にならないものの、──景元がと親しげに話しているのを見る度に底知れぬ苛立ちを覚えているこの心の機微が、──どうやら、不朽の我等には本来備わっていない筈の情緒に由来しているものだということに、──近頃、余は、やはり幾許かの困惑をも覚えているのだった。
 
 持明族は、繁殖による繁栄を必要としていない。
 ──故にこそ、愛や恋という情趣について知識の上での概念としては理解しつつも、それは持明族に備わっていない不要な感情なのだと、余はそのように思っていた。……愛や恋など繁殖の口実に過ぎぬだろうにと、かつて応星を怒らせたその言葉の何が奴の癇に障ったのか、……徐々に余も、その事実を理解し始めている。
 持明族には、家族という機能が存在せず、龍尊は妻を娶ることも無い。
 それは、我々の種が存続していくためには、決して必要のないものだからだ。──では、今まで存在せずに例外も無かった水泡の椅子を用意し、その席にを座らせるためには、──鱗淵境の忌み者を龍尊の伴侶にするためには、……一体、どのような変革が必要なのであろうかと、近頃の余は、龍尊としては到底らしくもなく、そのような児戯にばかり思考を占拠されている。


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