ヘヴンズレインは凍らない

 ──クリア・ノートとの決戦を控えた時点で、高嶺くんとガッシュを無事にクリア・ノートの場所まで送り届けると言う作戦を飲んだ時点で、私とヤエが望んで彼らをアシストする役目を選んだ時点で、──結末はすべて、分かっていたことだった。

「──お姉さん、どうしよう、怖い、ヤエ、消えちゃうの? やだ、怖いよ……」
「……大丈夫よ、きっとガッシュと高嶺くんが魔界を救ってくれる。……安心して、ヤエ」
、おねえさ……」
「ねえ、大好きよ、ヤエ……今まで、ずっとありがとう、私の、大切な……」

 別れの時、ヤエの身を解く光の粒子は魔界に戻っても再構成されないと、私のこの子もちゃんと知っている。──魔界の存亡が掛かっている現在、すべてをガッシュ達に託そうと決めたとはいえ、最後の最後で恐怖が綻んでしまったのだろう。ぼろぼろと泣きじゃくるパートナーの頭を撫でながら、しゅるり、と髪に結んでいたリボンを解いて、ヤエの髪に結んでやる。……もっと何か、用意しておけばよかったな。きっとヤエが泣き出すことも分かっていたのに、宥めて、慰めてあげられるように、魔界に帰っても形に残るような贈り物を、用意しておけばよかったのに。其処まで考えが回らなくて──役目を果たすことに精一杯で、辛うじて手元にあったのは、私の御下がりの髪飾りだけで。……思えば、ヤエはあまり形に残るものを欲しがったりしなかった、なあ。私が強引に押し切って、手作りのぬいぐるみを渡したり、レインコートを買い与えたりしたことはあったし、食べ物や消耗品に関しては、大分我儘を言ってくれるようになったとは思うけれど、……形に残るものは、きっと、全てが終わった後で、私が整理することになると知っていたもの、ね。だからあの子は、多くを欲しがらなかったのだろうと、そう思う。


「……ヤエ……」

 ──クリア・ノートとの戦いを終えて一週間、私はあれからずっと、抜け殻のように、一向に立ち上がれずにいる。ヤエと暮らした痕跡の残る家は、元々一人で住んでいた頃だって手広すぎたくらいなのに、ヤエが居なくなってからは尚一層、家のいたる場所であの子の面影ばかりが過ぎって、……こんなに広かったのだっけ、だなんて。近頃はどうしたって、物思いに耽ることが多くなっていた。
 受験生の今年、私は既にスポーツ推薦で進学先が決まっていて、クラスメイトたちと比べれば気楽な身だけれど、それだって、部活動に過ぎなかった弓術の腕前を進学の材料に至らせるまでに育て上げたのは、魔界の王を決める為のあの戦いの日々だったわけだし、どうしても、色々と考えてしまうことが多くて。……形に残るものも残らないものも、私はヤエからたくさん貰ってきた。夢のように幸福で掛け替えのなかった日々は、この先の生涯で、きっと色褪せることもないのだろう。……けれど、だからこそ。すべてが終わった今、私は考えてしまうのだ。……もっとたくさん、あの子に何かをあげたかったな。美味しいものを食べさせてあげたかったし、可愛い服を着せてあげたかった、色んな場所で色んなものを見せてあげたかった、……もっときれいで可愛い、御下がりじゃない髪飾りを着けてあげたかった。……もっと、あなたといっしょに居たかったよ、ヤエ。……わたし、口では、魔界に帰った後のヤエが幸福ならそれでいい、だなんて、姉らしいことを幾らでも言えたけれど。……本当の私は、あの子と離れたくはなかったのだと、全てが終わってから、気付いてしまった。

「──、具合はどうだ? 差し入れだ、清麿とガッシュも心配していた」
「ありがと、ごめんねデュフォー……えっと、ちょっとした風邪で、あはは……」
「嘘だろ?」
「え……」
「お前がサボりなんて珍しいな……真面目な奴だと思ったが、まあ、息抜きも必要だろ」
「え、あの……ち、ちがくて……」
「違わないだろ? 風邪じゃないなら上がっていくつもりだったが、体調が悪いようならオレは帰るから寝てろ」
「あの……かえ、らないで……ほしいな……」
「……承知した、上がるぞ」
「うん……」

 進学先も決まったし、授業もほぼ終えているし、とはいえ、ここ数日、学校を仮病でサボってしまっていることには、色々と思うところはあったし、指摘されると些か動揺してしまう。見舞いと称して我が家を訪問してくれたデュフォーに、玄関先にて一瞬でそれを看破されて、たじろぎながらもデュフォーに渡されたお見舞いの品をリビングで広げると、紙袋の中に入っていたのは私の好きなお店のお菓子だった。……お見舞い、と言っていたけれど、多分このひとには、近頃私の元気がないことだって、とっくにばれているのだろう。──だって、クリア・ノートとの先の戦いの際に、ヤエの本が燃えて脱落した私は道中にひとり、取り残されていて。そんな私のことを、後からアポロの自家用機に乗ったデュフォーが迎えに来てくれたときに、……わたし、耐えられなくなってしまって。駆け寄るデュフォーに思わず手を伸ばして、姉を取り繕っていた余裕など無くなってしまって、「ヤエが魔界に帰っちゃった……どうしよう、また私、ひとりぼっちになっちゃう、私の家族はヤエだけなのに、どうしようデュフォー、どうしよう……」そう言って、彼に縋りながら子供みたいにわんわんと泣く私に嫌な顔一つせずに、「……お前は本当に、昔から泣き虫だな」って、そう言って、あなたは頭を撫でてくれたから。──あの日からずっと、私が酷く傷ついていることも、能力なんて通さずともあなたには手に取るように分かっているのだろうな、きっと。

「体調が良いようで安心したが……それで、何してたんだ? 今日は。服を着替えているし、寝てた訳でも無いんだろ?」
「……えっと、ヤエの私物を、整理しようと思ったのだけれど……」
「ああ」
「でもね、そもそも、あの子、あんまり物を欲しがらなくて……パジャマとかレインコートとか、本当に少ししか、ヤエのもの、家に見つからなくてね」
「ああ」
「……その、ほんのちょっとを、……せいり、なんて、できないし、したくないなあ、って……」
「……別に、残せばいいんじゃないか? また、使う日が来るかもしれないだろ」
「……そう、かなあ」
「ああ、別に良いだろ。嵩張ることもないなら尚更だ、無理に捨てる必要もない」
「そっか……そう、しようかな……」

 紅茶を淹れて、デュフォーが買ってきてくれたお菓子を食べながら、ぽつり、ぽつり、と零した声は涙に濡れていた気がするけれど、デュフォーはそれを深く詮索することもなく、……わたし、このひとのこういうところ、すきだなあ、なんて思う。デュフォーの傍は、雨の日みたいだ。冷たいとかそういうことじゃなくて、デュフォーの隣に居ると、彼以外の世界の音がすべて遮られたかのように、聞こえなくなるから。耳を塞ぎたい言葉も悲しみも何も聞こえない、穏やかな静寂が彼にはあるのだ。──だから、今の私にとって、傍に居てくれたのが彼だったのは、本当に幸福なことなのだろう。

「……学校、行きたくないのか」
「行きたくない、というか……あのね、本当に、情けないし、よくないことって、私も分かってはいるのだけれどね」
「気にするな、言ってみろ」
「……あのね、高嶺くんとガッシュが話しているのを見ると、」
「ヤエのことを、思い出す、か?」
「! そう……よく分かったね? それも、アンサートーカーの能力?」
「イヤ……オレも、ガッシュと清麿を見ていると時々、ゼオンのことを思い出したからな……」
「……そう、だったの?」
「ああ」
「そっか……デュフォーはやっぱり強いね、私みたいに、逃げなかったんだ……」
「お前のそれは逃げとは言わないだろ、……まあ、ガッシュも残り三ヶ月だ。なるべく、お前に会いたいようではあったが」
「……うん……」
だって、本当はガッシュに会いたいんだろ? だったら、それは逃げじゃない」
「……ありがと」

 ──思えば、私にとってのヤエ・ウルムは。ある日突然に、心の空洞に落ちてきた種だったのだろう。桜色のその本を手にした日から、私の中に芽吹いた何かは熱を灯して、やがて大輪に花咲いていった。種と土、花と太陽、草と水。そういうものが、たましいのりんかくが、私とあの子はぴったりと重なり合うかたちで、桜色の、同じ色彩を宿していたのだ。この戦いを通して私が道を違えずに、太陽の方へと向かえたのは、あの花を大きく育てたかったからで、あの子の力になりたかったからで。私にとって、掛け替えのない、花だったの。たった一輪のそれを、するりと根から抜かれた瞬間、こんなにも深い深い喪失感に、私は襲われている。……だからと言って、私が前を向いていないと、きっとヤエに怒られてしまうから。太陽を目指し続けなきゃいけないと、頭では分かっている。けれど、心はなかなか着いてきてくれなくて、──この子は私が守らないと、私が導いてあげないと、というあの子に傾けていた気持ちに何よりも、私自身が支えられていたのだと、そう気付いたのは全てが終わった後だった。ヤエは私の家族で、妹で、私にはあの子以外の肉親が居ない。人間界におけるヤエの家族として務めているつもりだったけれど、……全部終わってから別れを寂しく思ってしまったのは、ヤエだけじゃないのだ。まだ、一緒に居たかっただなんて、そんな我儘が通らないことはちゃんとわかっているけれど、なかなかどうして、私は次の一歩を上手く踏み出せずにいる。ひとりぼっちの部屋に帰り、ひとりぼっちでご飯を食べて眠る生活を、きっと私はもう忘れてしまったのだ、心がそれを拒んでいるのだ。……デュフォーがこうして私を気に掛けて会いに来てくれるから、お陰で、心はまだ救われているけれど。

「ともかく、今は自分の気が楽になることを優先しろ。他人を気遣う余裕がないときに、無理をする必要はない。……オレも、もうじき発つからな」
「うん……今日は早く帰っちゃうんだね? もしかして、忙しかった? ごめんね……?」
「今日は別に構わないが、……そうではなく、近いうちにまた旅に出る、と言う意味だ」
「え……」
「元々、清麿の家に居候していたのはクリア・ノートとの決戦に備えてのことだからな……それが終わった以上、オレがあの家に留まる理由もないだろ」
「え、まって……旅に出るの?」
「だから、そうだと言ってるだろ?」
「じゃあ……デュフォーまで居なくなっちゃう、ということ……?」
「……は?」
「……そっ、か……そうだよね、うん……あの、気を付けていってきてね! ……身体に気を付けてね、旅先で、見たものとか、楽しかったこととか、偶にはメールとか、手紙とかで、教えてね、……ええと、無理にじゃなくてもいいんだけど、デュフォーがよければ……」
「……お前は、本当に……」
「う、うん?」

 旅に発つ、と告げたデュフォーの言葉に酷くショックを受けて、内心では動揺してしまっていることをどうにか誤魔化そうと取り繕う私の言葉に、デュフォーは呆れた顔で深くため息を吐くと、静かに目を伏せて、ばさり、と乱暴に前髪を掻き上げながら、……何かを決意したように、再度口を開いた。

「今、言ったばかりだろ。……悪い癖だな、お前はすぐに他人を優先する。もっと我儘に振舞っていい。……、お前、この家でひとりで暮らすのが寂しいんだろ?」
「えっと、……そういう、ことになる、けれど……」
「だったら決まりだな」
「な、なにが?」
、……お前も旅に連れていく。進学先も決まったわけだし、問題ないよな? 現にこうして、サボっている訳だしな……」
「え……ちょ、ちょっと……まって……!」

 ──風雲急を告げるように、突然、強引に決められた明日の予定に動揺する私を無視して、デュフォーは異論は許さないとでも言いたげに、地図を広げると何でもないことのように、旅の行き先の相談を始めてしまった。私も最初はそれに対して、ちょっと待って、急すぎる、一応は学生なんだから無理だよ、なんて言っていたけれど、……デュフォーが聞かせてくれた旅先の景色が、あまりにもきれい、だったから。──鍵を掛けた部屋で泣き腫らして過ごすよりもずっと、あなたに手を引かれて外に飛び出してみると言うその提案は、この上なく魅力的に思えてしまって、──私はいつの間にか、頷きながらあなたの話を聞き入って、私もその景色が見てみたい、だなんて。世迷いごとのように、知らない呪文を唱えてしまっていたのだ。 inserted by FC2 system


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