隠し味はひとつまみの青と呪文のプリズムです

 クリア・ノートとの対決も間近に迫ったある冬の朝、底冷えするほどの寒さに目を覚ましたとき、その冷え込みに思わず、自分が今何処に居るのかがほんの一瞬、分からなくなった。──その日はとても寒くて、オレは清麿の家で目を覚ましたはずなのに、……思わず、あの北極の施設の中で目を覚ましたのではないかと、そんな風に混乱してしまうほどの、寒さだった。……嗚呼、そうだな、今でもずっとオレは。嫌でもこんな日には、未だにあの雪原での日々を思い出してしまうのだろう。自分が今何処にいるのかも分からないままで幾年もの修羅の日々を過ごしたその果てに、銀世界へと放り出されたあの絶望は、ゼオンと過ごし、たちと過ごす今でも、残念ながらオレの心から完全に消え去ることはない。……怒りに支配されることはもう、無くなったが。それですべてを無かったことに出来るほどには、色も無い癖にあの日々は不思議と記憶の中で鮮明で、褪せることが無いのだ。

「──デュフォー、買い出しに付き合ってくれてありがとう! ごめんね、こんなに寒い中……」
「……気にするな。ヤエは修行に出ているんだ、お前ひとりで運ぶのは無理だろ」
「うん、正直ね……ほんとに助かりました!」
「魔物の子は量を食うからな……それに、最近はオレや清麿にガッシュも度々出入りしているし、……気を遣わずに、気軽に頼れ」
「……うん、ありがと! ねえデュフォー、今夜はごはん、うちで食べていくよね?」
「……オレの話を聞いていたのか? 買出しも楽ではないだろうと言ったつもりだったが……?」
「? でも、また次もデュフォーが付き合ってくれるんでしょ?」
「……それは、そうだが……」
「じゃあ、上がっていって! 外、寒かったもんね、今なにか温かいものを用意するから……」

 お前の負担になるから、などと。それらしい理屈を述べてみたところで、そもそも付き添いの口実として先ほど自身の口を突いた言葉がそれを否定しているのだから、世話もない。ヤエはガッシュと修行に出ているから、清麿は家で“アンサートーカー”の能力制御に励んでいるから、オレも基本的には奴等のコーチ役に付いているが、当初と比べて皆それなりの形になってきた現在、比較的に手が空いているのは、オレであるのも事実だったが、……いつもは誰かしら、パートナーであるヤエやクラスメイトの清麿だとか、の周囲には常に人が居るから。彼女が一人になるタイミングを見計らい、それを口実にオレがを独占しようなどと考えて、……一人で窓からの雪景色を眺めていると、嫌でも色々と考えてしまうこの冬に、どうかが寄り添ってくれたなら、……だとか。そんな独善ばかりでオレは彼女の隣に居座っていると言うのに、当のは何も知らないような顔で笑っていて、……けれど、他よりも幾らか賢い彼女にはきっと、オレの様子が秋口までとは少し違うことくらいはなんとなく分かっていて、その理由も察されているのだろうということにも、無論オレは気付きながら彼女の家に上がり込んでいるのだから、……やはり狡いのはオレの方、なのだろうな。

「ええと、牛乳買ってきたし……そうだ、ココア飲もう!」
「……ココア?」
「うん、あったかくてあまいココア、身体あったまるし……デュフォーはココア、好き?」
「イヤ……言われてみると、飲んだことが無いな……」
「エ!? そ、そうなの?」
「ああ……子供が飲むものだろう? オレにはそう言った機会が、なかったからな……」

 ──そう、何気なく零したところで、が酷く悲しそうに眉を下げてオレを見つめていることに気付いて、勝手知ったる家のキッチンで、買い物袋の中身を戸棚や冷蔵庫へと詰めていたオレは思わず、冷蔵庫のドアを開けたまま固まってしまう。……また、その顔だ。はオレが自身の過去を振り返るようにぼやいたときにいつも、そんな風に酷くもの悲しそうな顔をする。──確かに、その日々は古傷ではあるが、オレにとっては既に過去の出来事であると、彼女らから愛を受けた今ではそう思ってもいると言うのに、……それでも、はいつになっても、オレが愛を知らなかった頃の話に心を痛めて、何時だかの子供へと彼女が代わりに愛を注ごうとするのだ。──そして、オレはと言えば、其処まで見越して彼女に己の過去を語っているのか、それとも、の前だと言葉が滑り落ちてしまうのかさえも、最早定かではなかったが、……寂しげな顔をして、それから、意を決したような表情でオレの手を取って微笑みを零す彼女の仕草には、いつだって心臓がじくじくと熱くて、……其処から全身へと、血が巡るようで。

「あのね、デュフォー、ココアって大人が飲んでも良いんだよ!?」
「……まあ、それはそうだろうな……?」
「ええと、そうじゃなくって……でもとにかく、あまくてあつくて、美味しいの、冬のね、ちょっとした楽しみなんだよ!」
「……そうなのか?」
「そうなの! ……だから、いっしょにココア飲もう? すっごく美味しいの、私が作るから!」
「……作る? ココアの粉末に牛乳を入れるだけだろう?」
「ふふ、それがねえ、家のココアは一味違うんです! 見てて!」

 ──そう言って、ミルクパンと木べらを戸棚から取り出したは、次いでココアパウダーと砂糖、牛乳を取り出して、小鍋にココアパウダーと砂糖をさらさらと投入し、木べらで攪拌していく。それから、砂糖の白で幾らか柔らかな色身に変わったココアブラウンをコンロへと持っていくと、其処にほんの少しだけ牛乳を加えて、弱火のとろとろと揺れる火の上で、木べらを使ってミルクパンの中身を丹念に練っていくのだった。

「牛乳を温めてね、ココアパウダーを入れるだけでもココアは出来るけれど……こうやって練るとね、もっと美味しくなるの、理由はよく分からないけれど……」
「……ココアパウダーには澱粉が含まれているからな……練ることで糊化されて、口当たりが滑らかになるのか……?」
「あ、そういう理由なんだ? そうなのかも、口当たりがよくなるし、コクも増すような気がするの」
「ならば、やはりそういった理屈だろうな。……それで、これは、いつまで練るんだ?」
「んー、いつまででも! ……という訳には流石に行かないから、とろっとしたクリーム状になるまで、かな?」
「……面倒じゃないのか? 焦がさないように、鍋をずっと見ていなければならないと言うことだろう?」
「うーん……まあ、手間ではあるけれど、その方が美味しいし……あのね、ヤエにも時々ココア、作るんだけどね」
「? ああ」
「普段は、はちみついっぱいのカフェオレで、特別な日はココアなの。作るのに手間が掛かるのはヤエも隣で見ていて知ってるから、修行とか頑張った日に私がココア作ると、すっごく嬉しいみたいで」
「……嬉しい?」
「そうなの。頑張って偉いねとか、いつもありがとう、とか……大切な気持ちを込めてね、こうやって練るんだよ。美味しいものを飲んで欲しいなとか、喜んで欲しいな、とか……」
「…………」
「……そういうの、デュフォーは嬉しくない?」
「……オレは……」
「私は、嬉しいなあって思うの。手間をかけるって簡単じゃないもの、その分、そのひとから大切にされてるみたいな気持ちになるのね。だから、私は手間でも、ちゃんと練ってココアを作るの」

 ──それは、つまるところ。今日の買出しの礼に、オレの為に手のかかる支度をして、ココアを作っている、ということか。にとってココアと言う飲み物は誰かに大切にされている証だから、……それを飲んだことが無いというオレに振舞うことで、きっと、それ以上の何かを与えようとしているのだ、は。
 小鍋の中身はやがて、ビロードのような光沢を帯びて滑らかなクリーム状となって、沸々と小さな気泡が浮かぶ表面を潰すように木べらが滑っていた。

「……もうクリーム状になったんじゃないのか?」
「そうなんだけど、もう少し練るとお砂糖のざらざらが無くなって、舌触りが良くなるから……」
「……手間なんだな、本当に」
「本当はこの工程でね、ラム酒を入れても香りが付いて美味しいらしいんだけどね、……アルコールが飛ぶとは言っても、ヤエとかガッシュが飲んじゃったらよくないし、私も中学生だし……私は入れないで作っていて」
「……まあ、それはそうかもな」
「うん。……だからね、私とデュフォーが大人になったら、ラム酒を入れたの作ってみるね! ……そのときは、またいっしょに飲もう?」
「……ああ……」

 今から何年先かの話、──その未来でも、はオレの為に手間をかけてココアを作ってくれるのだと、……そんな風に簡単ではない約束を何気なく取り付けてしまえる彼女の隣は、……やはり、酷く暖かい。オレにとっては、春の象徴だった。オレの冬を終わらせた花嵐こそが彼女で、その儚くも力強い桜色は、あの日、雪原を一瞬で染め上げてしまった。──そうして、彼女は今でもこんな風に、ひとり冬の記憶に沈むオレの手を掴んで、……オレはもう二度とあんな場所に戻ることにはならないのだと、……この先の未来には彼女が居て、は何度でもオレの為にココアを作るのだと、……大切な存在の為の特別な飲み物を与えてくれる相手が、今のオレには確かにいるのだと、……彼女は、そう言うのだ。

 やがて、滑らかに練り上げられたココアに牛乳を注ぎ、沸騰しないように弱火で温めて、此処からきめの細かい泡が浮いた状態まで攪拌すると、より美味しいのだと言って鍋を混ぜるが、幾らか大変そうに手を動かしていたので、そこからはオレが仕事を変わることにした。牛乳分の体積が増した二人分のココアを混ぜるのはには少し力仕事だったようで、オレが代わってやると嬉しそうに笑って「ありがとう」と感謝を述べる彼女の仕草のそれだけにも、じわじわとオレの体の奥の、──恐らくは、の手で愛を納められたその場所が、どうしようもなく、熱い。
 表面に膜が張らないように木べらで混ぜ続けて、沸騰しないように気を付けて、湯気が立ち上るまで温めた頃には鍋にはゆらゆらと細やかな泡が揺蕩っていて、これで完成だとに言われて火を止めると、いつの間にか家に常備されているオレ用の灰色のマグと、用のピンクのマグへと彼女は半分ずつココアを注いで、最後にマーマレードジャムをひと匙落として混ぜる。……其処で気になって、それは? と尋ねてみると、のとっておきの隠し味、なのだそうだ。……そうして、流しにミルクパンを片付けてから、完成したココアをふたつ持って、リビングのソファへと隣同士に並んで腰を下ろす頃には、ココアを飲まなくとも身体はすっかり温まっていたが、ごくり、とあつくてなめらかな液体が喉を滑る感覚は酷く安堵を煽って、ほう、と思わずちいさく息を吐くオレを隣で見上げるは、……何処か、嬉しそうで。

「……どう? 結構甘いけれど、嫌いな味じゃなかった……?」
「ああ……マーマレードの香りがなかなか良いな、これは」
「そうなの、後味がさっぱりするし、良い香りがするし……オランジェットのチョコレート、あるでしょう? わたし、あれが好きで、ココアにマーマレード添えたら、美味しいかもって思って……気に入ってるんだ、これ」
「……毎度ながら、お前はよくそういったことを思い付くな?」
「……もしかして、食い意地張ってると思ってる?」
「イヤ? 知識だけでは知り得ないことを、はよく知っていると思ってな……お前の想像力と心が豊かで、周りをよく気に掛けている証拠だ。……このココアひとつを取っても、大切な相手を喜ばせたくて、手を掛けて作り上げた訳だろう。それを、意地が張っているとは思わない、お前から学ぶことは多いが……これも、の美点だ」
「……そ、そんなに褒めても、夕飯くらいしか出ないよ……!?」
「十分だろ? ……夕飯の仕込みも、隣で見ていて良いか? オレも手伝う」
「いいの? デュフォーだって、連日私達のコーチングで疲れてない? テレビ見て休んでてもいいよ?」
「イヤ、平気だ。それに、言っただろう? お前の傍に居ると、学ぶことが多いし……の傍は暖かいから、お前を見ているのが好きなんだ、オレは」
「そ、そう……? ……じゃあ、少し休憩したらいっしょに夕飯作る?」
「ああ。……ちなみに、今夜のメニューは?」
「今日はねえ、ハンバーグにしようと思って! ヤエが好きだし、デュフォーも食べていくと思ったから、ちょっと手を込んだのにしようと思って……きのこをたくさん入れた煮込みハンバーグにして、あったまるのを作るね!」
「……それは、オレとヤエが大切だから、ということでいいのか?」
「? そうだよ?」
「……そうか。ならオレも、しっかりと手伝わないとな……」

 ──彼女の隣はいつだって暖かくて、あつくて、あまいココアを飲み終える頃には、と半分ずつ膝に掛けたブランケットは少し暑いくらいで、けれど、籠もった熱をと共有しているのがどうしようもなく心地よくて、払いのける気にはどうにもなれない。丁寧に練られたココアはマグカップの底に粉が沈殿していることも無くて、空になったコップを見つめるたびに、オレは彼女の愛を実感する。──かつて、永久凍土しか知らなかった俺へと、春風を運んだ彼女が淹れてくれたココアは、まるで天国の飲み物のようだと、そう思った。それもこれっきりではなくて、何年先になってもはオレにココアを作ってくれるつもりだそうで、その上に、今日は更に、きっとこのココアよりも手が込んでいるお手製のハンバーグを食べさせてくれるのだそうだ。……そんなに贅沢が許されてしまっては、いつか、しっぺ返しを食らうんじゃないか? と、脳裏に冬の記憶が染み付いたオレは、そんな風に考えてしまうのを未だに、やめられないが。──それでも、はオレが冬に帰ることを決して許さずに、暖かなこの家にいつだって迎え入れてくれる。──いつか、彼女が丹精を込めて作った食事でオレの細胞がすべて書き換えられる時が来たのなら、オレものように、……彼女に愛を与えてやれる人間になれたなら。そのときは、オレがにココアを作ってやりたい、と。初めて迎えた暖かな冬に、オレは確かにそう思った。 inserted by FC2 system


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