あの瞳はどうしようもなくひび割れた硝子のよう

※アニメ版設定。全体的に注意。



 ──研究所にて非人道的な扱いを受ける日々で僕の心が摩耗し始めた頃に、ひとりの女の子が施設に連れてこられた。彼女は僕のように身売りされた訳ではなく、誘拐されて此処に来たらしい。僕たち非検体は、待機時間には独房のような個室をそれぞれ与えられていたが、彼女は僕の隣室に放り込まれていたので、監視の目を盗んで僕は時々彼女に話しかけていた。どうしてそんなことをしたのか、自分でも不思議だったけれど、きっと僕は彼女が心配だったのだと思う。一見した印象では日系人のようだったし、こんなところまで誘拐されてさぞかし心細いだろうと、自分を棚に上げてまで僕は彼女を気に掛けていたのだ。
 彼女は家に帰りたいと言って、毎日声を殺して泣いていた。一度だけ大声で泣き喚いたものの、その日は特別念入りに乱暴されたからか、少女はすぐさま身を護る術を学習したらしい。そんな風に賢明な女の子だったから、どうにか彼女は生き延びていたけれど、機械をたくさん着けられて椅子に縛り付けられて、何度気を失っても叩き起こされて実験を繰り返されるあの子を見ていたら、いつかはあの子も他の皆のように、動かなくなってしまうのだろうか、と。……そう思って、酷くゾッとした日も何度もある。

 あるとき、本人に聞いてみるとやはりあの子は日本人で、「でぃーくんは、アメリカのひとなの……?」と、逆に彼女の方から僕に尋ねてきた。“少年D”というのがこの施設での僕の個体名称だったからか、なるほど、僕の名前が“D”なのだと彼女は誤解していたらしい。

「僕の名前は“D”じゃない、そう呼ばれるのは嫌いなんだ、やめてくれ」
「じゃあ、お名前、おしえてくれる?」
「……デュフォー」
「でゅ、ふぉーくん」
「デュフォーでいいよ」
「デュ、フォー……」
「お前は? 名前、なんて言うんだ?」
は、っていうの……」
? 日本圏の女の子の名前なのか……? うん、不思議な響きだけど、お前に似合ってる気がするな、
「……うん」

 彼女は、職員の間で“少女C”と呼称されていた。本当の名前が気になって尋ねてみると、震える声でそうっと僕に教えてくれて、僕はそれからその女の子を「」と呼ぶようになった。、と僕が呼びかけるとは少しだけ嬉しそうにはにかんで、いつもは泣いたり落ち込んだり怯えたりと、悲しげな仕草が目立つ控えめな彼女だったから、僕は意識的に、と何かと彼女に呼びかけるようになった。
 此処での暮らしは基本的に自由もなく、とは毎日顔を合わせる訳でもなかったが、それでも少しだけだろうと彼女と話が出来た日は嬉しかったし、日々の些細な幸福になっていたように思う。──けれど、ある日に、……はいよいよ衰弱してきてしまって、それでも乱暴に引きずられて手荒に扱われる彼女に、このままではが死んでしまうかもしれない、と僕は堪らなく不安になって。……それで、僕は彼女を逃すことにしたのだった。僕が彼女を逃がしたと知れたなら、きっと僕も只では済まないけれど、僕は自分の地頭の良さを自覚していたし、自分は無理でも小柄な彼女くらいであれば、どうにかして逃がせる通気口くらい見つかるかもしれない。
 ──そうして、慎重に、けれど迅速に計画して、ついにを此処からを逃す日が来たのだった。

「──、この通気口から外に逃げるんだ。お前がちゃんと外まで逃げられたかどうか、僕がここで見張っておく」
「やだ、ひとりはやだよ、なんで? どうしてデュフォーもいっしょじゃないの……?」
「……此処はギリギリお前しか通れない、僕には無理だ。他の経路を探していたんじゃ、の体がもたない」
「でも、でも……」
「良いから逃げろ。……それで、外に出たら、助けを呼んできてくれ。そうすれば僕も助かる」
「うん……わかった、まっててねデュフォー。ぜったいにたすけをよんでくるからね……!」

 決行当日、彼女は僕も一緒じゃないと嫌だと言って泣いたが、が助けを呼んできてくれれば僕も逃げられる、だからがちゃんと逃げられるようにこちらからサポートするし、が逃げられさえすれば僕も助かるから大丈夫だよ、と。そう言って、彼女にはどうにか言い聞かせた。僕よりも幼いには、警察相手に状況を正確に説明することは難しいかもしれないが、彼女の身元はすぐに分かるはずだし、とにかく警察署に駆け込むことと、大人を見つけて助けを求めるように何度も説明して、僕は彼女を見送った。は脱出の際、ぽろぽろと大粒の涙を零しながら小さな手でぎゅっと僕を抱きしめて、……あのときほど心が温かかった瞬間を、僕は知らない。僕もをぎゅうっと抱きしめて、指切りをして、を抱き上げて通気口によじ登らせると、彼女を見送って、──それからは彼女を待つ日々が始まった。すぐに助けを呼んでくるのは難しいかもしれないけれど、数日待てばきっと、……一週間待てば、二週間待てば、……一ヶ月待てば、……三ヶ月、半年、……一年、きっと、待ち続ければ彼女は帰ってくると信じて、僕は来る日も来る日も彼女を待っていた。

 ──そうして、が逃げてから×××日が過ぎた。彼女はまだ戻らない。僕は今日も彼女を待っている。


 ──結局、ゼオンが本を持ってオレの元に現れるその日まで、が戻ってくることはなかった。

 やがて、ゼオンの助力で外の世界に出てからオレが真っ先にしたのは、を探すことだ。施設内では能力を自由に使えないように拘束されていたから、外に出てすぐに、オレは自身の能力を用いての居場所を探して、──やがて、日本のモチノキ町で彼女が暮らしていること、あの誘拐事件の折に彼女の家族は殺害されて、現在はひとりで生きていることを突き止めた。彼女が家に帰ったときには既に、家族が亡くなっていたというから、保護者もない彼女がオレの元に戻ってくるのは、難しかったのかもしれないな、と。……そうとも当然、考えた。幼い少女に何を期待していたのだと、そう思ったことも、無かったわけではない。
 それでも、彼女はオレにとって、自身を人間扱いしてくれた唯一の人間だった。一緒に外に出られるかもしれないと、この暗い地獄を共に出て一緒に生きていきたいと、一瞬でもそう信じてしまった相手だ。オレはもしかすると、彼女に裏切られたのかもれないが、それには理由があるのかもしれない、仕方が無かったのかもしれないと、そう思っても。オレの能力には、“すべての問いに答えを得る”力なんてものがある訳でもないし、……オレは、結論を得ることに怯えてもいたのかもしれない。

「え……あ、あの、……あなた、ゼオンのパートナーでしょ? どうして、私の名前……」

 ──だから、その答えを突き付けられた瞬間、当然、目の前が真っ暗になった。
 そうして、最後のよすがに手を離された途端、喪失感と共に込み上げてきたのは、どうしようもない怒りだ。どうやらは、監禁期間のショックで記憶が抜け落ちてしまっているらしく、オレとの約束どころかオレの存在すらも覚えていなかった。だから、助けに戻れなかったし、戻らなかったのだ。……ふざけるなよ。こんなことになるくらいなら、お前を逃さなきゃよかった。結局もオレを助けてくれないのなら、オレにあたたかな景色を見せてはくれないのなら、いっそのこと逃さなきゃ良かった。確かにあのとき、オレは、が可哀想だったからどうにかして逃そうと思ったに過ぎなかった、だからこそ彼女の脱出を手伝った、……そのはず、なのに。長年の生活で心が摩耗しきったからか? あの頃の気持ちはとうに形骸化して、只々、今のオレに残るのはが隣にいたあの一瞬はマシだったのに、という思い出だけで。これも所詮は美化されたもの、補正された記憶なのだということくらいはオレにも分かっていたが、……それでも、どうしようもなかったのだ。
 もうオレは二度とお前を許さないし、逃がさない。何処にも逃さずに隣に縛り付けて、光らない本を手に、逃げ出そうとすれば身を貫くゼオンの雷光に、目の前で喪われていく仲間や故郷に無力さを噛み締めて、絶望の淵に落ちてしまえばいい。抵抗などすべて手折って、世界が終わるところを隣でお前にも見せてやろうと思った。……それも、只、オレが見てみたかった景色を隣でに見ていてほしい、というそれだけだったのか。オレを裏切ったことを、後悔させてやりたかったのか。お前がオレを見捨てたから、お前のせいで世界もこうなるんだと思い知らせてやりたかったのか。──只々、夜明けの刻は彼女と共に迎えたかっただけなのか。

「てめえ……! に何しやがった!?」

 清麿がコントロールルームへと駆け付けたときには、……はガタガタと震えて怯え切った表情で蹲っていて、──無理もない、清麿がこの場に駆け付けたことで、清麿に見せるために記憶を二度開かれた彼女は、最早心を粉々に砕かれて、術を唱えるどころか意識を保っているだけで精一杯だったはずだ。

「……悪いのはお前だろ」

 何故、が二回も地獄を突き付けられたと思う? ……お前の側にが居たからだよ、高嶺清麿。彼女はオレの傍に居るはずだったのに、オレとそっくりなほどに同じで、それでもオレとは大違いのお前に、……すべてを持っているお前に、どうしてオレがを渡してやらなきゃいけない? 清麿に盗られるくらいなら、粉々に砕いてやったほうが余程マシだ。元はと言えば、ならばオレを助けてくれるかもしれない、オレの心を救ってくれるのかもしれない、などと、安っぽい絆なんて曖昧なものを理由に彼女を信じたせいで、余計に苦しむ羽目になったというのに。──けれど、それでも。……同時に、あの一瞬の眩さを信じたい気持ちが、オレの心の何処かにあった。彼女が居てくれたなら、オレも変われたのかもしれない。……だが、清麿がその邪魔をするのだ。奴はオレを糾弾して、彼女を連れて行こうとする。……そんなものが、許せるわけがないだろう。どうしてオレとあいつは、こうも違う。……どうして、それを思い知らせるのがお前なんだ、

 信じて、いたのに。
 ──お前に、オレの元に戻ってきてほしかった、それだけだったのに。


「──デュフォー!」

 ──そうして、決着の時。バオウ・ザケルガの雷撃から逃れきれずに逃げ場を失ったオレに、──が、泣きながら飛び込んできた。「いやだ」「死なないで」そう言って、もうとっくに動かなくなったはずの足で転がり込んで、オレもゼオンも奴らに敗れたというのに、お前なんかの、長年仕舞い込んでいた未覚醒の能力などで何が出来ると言うのか、本だってとっくに燃やされたというのに、お前は、──お前は。

「デュフォー……もういいよ……」
「……
「もう逃げないから、私が一緒にいるから……もう私の命なんて、あなたにあげるよ……」
「……いいのか」
「いいよ。……ごめんね、デュフォー。ずっと、ひとりにして……」

 ──思えば、にオレの元へと戻ってきてほしかった、という只のそれだけが尾を引いていたのだ。そう、確かに約束したのに彼女は戻ってこなくて、何も信じられなくなって、そのままオレはゼオンと共に世界を閉ざしてしまった。だから、彼女を引きずり戻して同じ場所に、狭い世界の中に閉じ込めておきたかったのだ。オレたちを否定した世界が如何に正しくないものなのかを、彼女に見せてやりたかった。そうして、ようやくを捕まえたと言うのに、今度は泣いて怯えられて、挙句に彼女がオレを忘れたりするものだから、……気が動転していたのだろう、オレは。コントロールルームへと誘致したその時点では、彼女が謝りさえすれば許してやろうと思っていた。ゼオンにも口添えしてやろうと、そう思っていたはずなのだ。忘れた以上はもう、謝ったところで許しはしないし、元より許したところで人間界を破壊することには変わりがなかったが。……少なくとも、心を砕いてやろうなんて思っていなかったはずなのに。──でも、やっと取り戻したものがまた逃げて、清麿の元に行くのが、オレは怖くて堪らなかった。

「……頼む、傍にいてくれ。……」

 ──オレはもうきっと、二度とお前を心から信じることが出来ない。どんなにが約束して傍に居てくれたとしても、彼女の言葉を受け入れられずに疑心暗鬼になることだろう。何度でも、彼女を傷つけるのかもしれない。でも、それでも、……傍に居て欲しい。だけは、オレのものであってほしい、共に地獄に居て欲しい。……オレにはもう、この執着以外の持ち物など何もないのだ。



 ──日本・モチノキ町在住の女子中学生・が、旅行先のニュージーランドで行方不明になった。失踪時の痕跡は無く、自宅には荒らされたような跡も無く、外出時に行方不明になったものと考えられている。家の長女だが、数年前にも誘拐されており、その際に家は長女・を除いた全員が殺害されている。警察では、数年前のこの事件との関連性を疑い、事件当時にと共にいた同級生の少年や、友人らから事情聴取をする他、現在も捜査は続いているが、手掛かりは少なく捜査は非常に難航しており──。

 それが、世間で語られるところのという人間の顛末であった。
 実際の私が、現在ヨーロッパの片田舎で、世を忍ぶ生活を自ら望んで送っていることを知る人物は、数少ない。

 ファウードでの戦いで魔物の子と別れを済ませた私は、デュフォーと共に、戦いと無縁の場所で今、共に暮らしている。本が燃えてしまって、心に決めていたことも、パートナーと約束したことも何一つ守れなくて、……あの子と約束していたのに守ってあげられなくて、それで、私には何もなくなってしまった。あの戦いでは、デュフォーも、ゼオンも、私とパートナーを傷付けて痛めつけたかったのだろうから、本を燃やすなんて生ぬるいことしてはくれなくて、結局、心ごと力を無くしてしまった私は、高嶺くんに本を焼いてもらうことでしか、あの子を護れなくて。……私は、情けないパートナーだった。あの子と仲の良かったガッシュにも、それに高嶺くんにも心に傷を残してしまった私は、超能力らしいものでデュフォーを連れて、どうにかファウード内部から脱出だけは叶ったが、あの後ではもう、モチノキ町には帰れなかった。だから世間では私が失踪扱いになっていることもネットニュースで知っていたけれど、──私はあれから一度も、モチノキ町には帰っていない。
 失踪した私をずっと探してくれていたのか、少し前に高嶺くんが此処を訪ねてきてくれたものの、勝手に居なくなったことを彼に謝罪して、私は日本には帰るつもりがないという意向を伝えた。私の言葉を聞いた彼は呆然として、「オレはを助けに来たんだ」「デュフォーに脅されているんじゃないのか?」「力になりたい、なんでも話してくれ、頼ってくれよ」……って、そう言ってくれたけれど、高嶺くんと会ったことをデュフォーが知ったら、また彼が不安定になってしまうかもしれないし、私は高嶺くんの優しさには応えられなかった。

 ──だって、私。本当に自分で望んでデュフォーと一緒にいるのだ。
 昔、私は、デュフォーのことが本当に大好きで、大切だった。はじめて私を認めて、優しくしてくれたひと。私にとっても彼がすべてだったはずなのに。……私が彼を忘れて、楽しく過ごしていた期間で、先に彼の心を壊したのは私なのだから、この結末は因果応報。思い出したばかりの際には、実感が伴わずに混乱したけれど。今はちゃんと、自分の意志で、私はデュフォーと生きている。
 ……きっと、客観的に見たのなら、私に落ち度はないのだと思う。私はあくまでも誘拐されて、家族を殺されて、記憶が飛ぶほどの酷い目に遭った子供でしかなくて、被害者なのだと思う。只、私が彼に心を壊されるまでの過程で、それを客観視してくれるひとがいなかった、というそれだけで。私は、悪くないのかもしれない。……でも、デュフォーは、「お前がオレを置いて行ったから、こうなったんだ」って、そう言ったの。その結果、この世界は消えてなくなるかもしれなかったのに。……私は悪くない、だなんて。どうしたら言えるのだろうか? はじめて自分に優しくしてくれたひとに、私はほんとうに酷いことをしてしまった。只々、今の私の中に残ったのは、大切なひとを忘れた挙句、彼に酷い仕打ちをしてしまったという後悔だけなのだ。

「デュフォー……私は此処にいるからね」

 このまま二人で世界を閉じてしまうことは、きっと正しい結末ではないのだろう。他に、道があったのかもしれないけれど、デュフォーの心を護る為にはこれしか選択肢はなかった。あの戦いで何も学べなかった私たちは、これからもずっと、ふたりぼっちで生きていく。彼の傷の代償が、私の心を粉々に砕く程度で済むのなら安いものだ。だって心が砕けても、私にはまだ、彼の心を護るくらいのことは出来るもの。……それに、こんな選択が出来たのも、私がこの能力で彼の全てを見渡せてしまったからで。デュフォー曰く、彼の超能力は“答えを得る”類のものではないということなのだけれど、どうしてか私には、彼が私に向ける幾許かの答えだけは、理解できたのだ。彼が私にしたことは、傍目から見ればとても正しいものではないのだろう、凶行であったのだろう。それでも私はちゃんと知っているのだから、それでいいと思う。……そう、ここまでやっても、彼の根本にあるものは正しく愛だったのだ。ぐちゃぐちゃでどろどろの何かでも、愛憎の末路でも、確かにそれは愛で、これは互いに自分の蒔いた種だから。私はこの先もずっと彼から逃げられないし、逃げを望むことも二度とない。 inserted by FC2 system


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