夜の光の終着地点

※銀本と桜本が同居している。



 ──その事実に纏わる由来などを今更思い起こしてみるには、既に情景はすり減ってしまっていて、思い返したところで眠れぬ夜が効率よく過ぎ去ってくれる訳でも無い。……不眠症、というそれを自覚出来たのは幼い日のことだった。思えば、10年ほどの付き合いになる訳なのだから、一朝一夕で解決できるものとも思ってはいないし、心療内科などに頼ってみようと思えるほどオレは他人に心を開けてもいない。睡眠薬を服用すれば眠れるのかもしれないが、薬物への依存に溺れる行為もモルモット扱いの日々で既に飽きるほど体験したし、自らそれに手を伸ばそうと思えるほどにオレは世界を信用できていない。情報も娯楽も制限されて天井を見上げることしか許されなかったあの頃とは違い、ゼオンと出会ってからは、眠れぬ夜をゼオンと共に過ごすようになった。積極的に語り明かしたりしていた訳でも無いが、お互いにそれぞれ興味のある本を開きページを捲る乾いた音だけが融けるように響く夜は、不思議と嫌いではなかったのだ。時折言葉を交わしてみたり、珈琲を淹れる俺に倣おうとするゼオンのコップには牛乳を足してやったりしていたあの時間は、きっとオレにとって大切だったのだろう。
 ──そんな、当たり前すぎて知らなかった、理解出来るほど心が育ち切っていなかったオレに、人らしい情緒というものを芽生えさせてくれたの家に転がり込んで、互いの魔物の子を含めた4人での共同生活を始めてから暫く経つこの日々の中でも、やはりオレはまだ上手く眠ることが出来なくて、眠れぬ夜は相変わらず、ゼオンと共にこの家のダイニングで本を読んだりしながら時間を潰して過ごすことがある。──尤も、ゼオンの方は不眠症などとっくに治っていて、オレに付き合って無理に起きていようとしているだけだ。ゼオンはそれを否定するが、オレには“アンサートーカー”の能力がある以上、些細な隠し事などは何の意味も成さない。……元々、ゼオンが眠れない理由は、王宮で受けた虐待の日々に起因するもので、双子の弟であるガッシュとの関係が修復され、仲睦まじい兄弟に落ち着いた現在、身体の構造的にも幼いゼオンが眠れないはずなどない。只、ゼオンはオレが眠れないのを知っているから気に掛けて、オレの気を紛らわせようとして傍で起きているだけで、今だって欠伸を噛み殺す仕草を本で隠して誤魔化そうとしているゼオンにも悪いし、最近では、不眠症を治せるものならばオレだって治したいと思うようになっていた。

「……二人とも何してるの?」
「……、起こしたか」
「ううん……デュフォー、眠れない? ホットミルクでも淹れようか」
「珈琲があるから、気にしなくていい」
「だめだよ、珈琲なんて余計に眠れなくなっちゃう」
「……どうせ、起きているだけだからな、それなら目を覚ました方が効率が……」
「だあめ。はちみつ入れて、いっしょにミルク飲もう? きっと眠れるから」

 薄い夜着に桜色のカーディガンを羽織っただけの姿で、ぼんやりとした歩みで、はダイニングへと入ると、そのままキッチンに立ってミルクパンを取り出し、冷蔵庫の扉を開ける。ダイニングテーブルに着いたままでその姿を見つめていたオレは何とはなしに、本に栞を挟むと椅子から立ち上がり、キッチンに立つの手元を覗きに向かう。……案の定、其処にはグレーのマグカップがふたつと、ピンクのマグカップがひとつ。「……お前まで、付き合って起きているつもりか?」「ううん、私も寝付けなかっただけだよ」問いかけたところで、から返ってくるのはそんな白々しい言葉ばかりだ。……そうも、寝ぼけきった顔をして何を言うのか。オレはお前のことなら人一倍見ているんだから、後ろ髪に少しだけ寝癖が付いているのだって分かっている。直してやろうと髪を撫でられた本人は、理由が分からずに不思議そうな顔をしていたが、暢気なものだ。

「眠れないときはね、蜂蜜を入れたホットミルクを飲むとね、不思議と寝付きが良くなる気がして」
「……血糖値が上がるからか?」
「え、ちゃんと理由があるの?」
「満腹になると眠気に襲われるだろ。それと原理は同じだ」
「そうなんだ……私、あったまって眠くなるんだと思ってた……デュフォーはやっぱり物知りだねえ」
「……まあ、お前の言う通り、体温の上昇も影響しているかもな」

 温めたミルクをマグに注ぐからグレーのマグをふたつ受け取って、テーブルに戻り自分とゼオンの前に置くが、案の定ゼオンは既に舟を漕いでいた。やはり無理をしていたのだろう、が来たことで緊張の糸が緩んだか。眠ったゼオンを部屋に運んでやってもオレは構わないが、子ども扱いをしすぎるとこいつは怒りだすので、「ゼオン、寝るなら部屋に戻れ」と、軽く肩を揺らすと、半覚醒のままのゼオンがぼんやりと目を開く。

「ああ……オレは寝ていたか……?」
「ああ、ちゃんとベッドで寝ろ。子供だろうが身体を痛めるぞ」
「ああ…………、これはが?」
「あ、うん。でも眠いなら無理に飲まなくていいよ、片付けておくから……」
「イヤ、の気遣いは無碍にすまい。いただいてから部屋に戻ろう……」

 ふうふうとミルクを冷ましながらごくごくと一気に飲み込んで、ふらふらした足取りでゼオンは部屋に戻っていく。「、デュフォーを頼むぞ……」と言い残した声はとっくに宙に浮かんでいるというのに、ああもお節介なのは兄という立場に由来する本人の気質なのか? ……そんな気付きも、以前のオレならば疑問の先を問うこともなく受け流していたのだろうに、今ではゼオンの気持ちを素直に受け取れているのだから不思議なものだ。……さて、ゼオンは大人しく部屋に戻ったが。隣に座ってピンクのマグカップを両手で包む、もう一人のお節介の方は、どうしたものだろうか。

……お前は明日も学校だろ、早く寝ろ」
「うーんと……私も眠れなくて……」
「嘘を言うな」
「……やっぱり、バレてるの?」
「当然だろ、……オレに気を遣わなくていい。お前が身体を壊す方がオレは、余程……」
「……私もそうだよ」
「は……?」
「デュフォーを放っておくのは嫌だなあって、私が明日寝不足になるのよりもずっと、今のデュフォーがつらい方が嫌だな、私……」
「……難儀な奴だな、お前……」
「ふふ、あなたもね」

 本当は心底眠くて仕方がないのだろう、ぼんやりと瞼が下がる目元は平時よりもずっと静かで、そんな状態にも関わらずにオレの気を紛らわせようとするものだから、蜂蜜入りのホットミルクで上がった血糖値でも、ふわふわと揺れる脳を回転させるには糖分が足りなかったのか、は対して中身のない会話を繰り返すばかりで。──だと言うのに、の穏やかなその声で語りかけられると、内容などどうでも良くて、オレは只々恐ろしいまでの安息を覚えるのだ。彼女の優しい声の後ろで、微かに扉の空いた部屋から聞こえるゼオンの規則的な寝息が、オレンジ色の明かりに照らされた夜の帳にじんわりと広がる様が、凍てついた心臓を溶かしていく。……その穏やかさに、思わず目眩がした。

「……あれ、デュフォー」
「どうした? 
「ここ……腕のところ、傷があるよ? 何処かで怪我したの? 大丈夫……?」
「ああ……古傷だ、これは。気にしなくていい」
「古傷……? なんか、噛み跡みたいに、見えるけれど……」
「……ストレスでな。研究所に居た頃から、癖になっている」
「じゃあ、それ……」
「ああ。……自分で噛んだだけだ、気にするな」
「だけ、って……余計に心配になるでしょ、そんなの……なんで……」

 寝巻の袖をまくっていたことで見えたのか、オレの手首を両手で掴んだは痛ましい表情で赤い古傷を見つめている。そんな顔をするくらいなら、目を背けておけばいいだろうに、決してお前はそうはしないのだろう。きゅっ、と結んだ唇が震えていて、悲しげな顔でオレを見上げて、それから徐にオレの手を離したかと思うと、何を想ったのかは自分の袖をまくり、白い腕をオレに向かって差し出してきた。

「ここ、噛んでいいよ」
「は……?」
「デュフォーの腕もう噛むところなさそう、痛そうだしこっちにしなよ」
「イヤ……もう噛み癖は治った。気にするな」
「ほんとう? ……そんなに古くなさそうな傷もあったし、引っ掻いた後もあったけれど」
「それは、少し腹が立っただけで……あとは、瘡蓋が痒かっただけだ」
「じゃあやっぱり、こっち噛んで。また引っ掻いたらいけないから」

 ──どうしてこいつは、こんなにもお人好しなのか? ずい、と口元に向かって差し出された腕は白く、ひっかき傷のひとつもない。呆然と言葉を反芻して、その必要はないと提案を退ける言葉が口を吐く一方で、白魚の腹のようなふっくらとすべらかなそこに噛み付いたのなら、きっとさぞかし甘いのだろうと、どうしようもない劣情が脳裏を掠める。……オレは決して、この少女を傷付けたい訳ではなく、心底、大切にしたいと思っている。だと言うのに、はそうしてオレを惑わせるような真似をするものだから、言葉で分からないのならば行動で、と戒めを籠めた──などというのは、結局口実作りに過ぎないのだろうが、我慢しかねてオレは柔らかな其処に噛み付いてしまった。……とはいえ、牙を立てることもなく、そうっと食んで、軽い歯形が残っただけの腕をはまじまじと見つめて、「もっと痛くしてくれても、大丈夫だったのに……」などと眦を下げるものだから、お前のその態度が、オレを“昼”に戻ることを許さないのだろうと言ってやりたくて、……けれど結局、彼女に暗がりを許容されているのはオレだけなのだ、と言う優越感を抱いて夜に溺れて、オレはそれ以上何も語らずに、の隣で柔らかな熱に包まれて揺られていた。うっすらと白い腕に残る傷跡を見つめるたびに、胸に溢れたこの感情は、後悔だったのか達成感だったのかは分からなかったが、それは酷く甘美で、きっと味を占めてはいけない類のものなのだろう。──ああ、まだまだ朝には帰れない。 inserted by FC2 system


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