思い出が美しければそれですべて正しい

 は、私の実家の二軒隣の家に生まれた女の子だった。年の離れた私は、が生まれたばかりの頃から彼女を見てきて、兄心や親心といった感情を持ちながら彼女に接してきたと思う。そんなが物心の付く年頃になる頃には、私は調査兵団に入団し、既に兵士として務めていた。そんな私にはよく懐いていて、訓練兵の頃から、時折実家に戻ると、何処から噂を嗅ぎつけてきたのかが飛んでくるものだから、私はと言うと、そんな彼女の子守をするのが常であったのだ。

「……ねえエル兄! いつものおはなしして!」
「ああ、そうだね。何から話そうか、そうだ、前回の壁外調査では……」

 父は、父の唱えた仮説を私が不用意に流布したことで憲兵に殺された。訓練兵団も卒業し、そんなことがとっくに分かっている歳になったというのに、にだけは、私が相変わらず父の仮説を語って聞かせていたのは、何故だったのだろう。幼い彼女には私の言葉の真意など分かるはずもないとそう高を括って、だからこそそんな彼女の無垢な瞳に甘えて、自分の夢を語り聞かせる捌け口としていたのかもしれないし、心の何処かでは、ならば私の夢を理解してくれると、そう期待していたのかもしれない。……は、敏い女の子だった。貴族とまでは行かずとも、この壁の中では、比較的に裕福な家庭に生まれ、親を巨人に殺されたり、親を憲兵に殺されたなどという凄惨な過去もまた、彼女は持たない。学校に通うことを許された、数少ない富裕層の子供。……私が不用意に、そんな夢を語り聞かせたりなどしなければ、彼女は生涯、何事もなく、内地で暮らしていたことだろう。読み書きも勉強も出来る彼女なら、教師になったかもしれないし、商人として成功していたかもしれない。はたまた、器量良しの彼女なら貴族に見初められて、幸福な家庭を築いていたのかもしれない。……しかしは、敏い女の子だったのだ。何も知らないままで生きて行けるほどに、彼女は愚鈍ではなかった。「、いいかい。私から聞いた話は、誰にも話してはいけないよ」「どうして? エル兄?」「なに、世の中には口に出すべきではないこともあるんだ」煙に巻くような私の言い付けを律儀に守り、は決して誰にも、私が唱えた仮説を話したりすることはなかったし、私が彼女にすべてを話したことで、私の立場が脅かされるような事態にも、決してならなかった。は、とても賢く、そして、私に言われたことをしっかりと聞く、いい子だった。

「エル兄! 私、訓練兵団に入る! 調査兵になって外の世界を調べに行くの!」

 ……そう、彼女がそんな夢を持つまでは。

 ……断言しよう。彼女のその夢は、私の借り物だ。私が彼女に錯覚させてしまった、私自身の夢でしかなかった。……それが分かっていたのなら、あのときに止めておくべきだったのかもしれない。しかし、結局私は、表面上で幾許かの静止を唱えただけで、の背を押してしまった。は物分りの良い、賢い子だ。もしも私が、きみに調査兵など務まらないよ、と。そう、言っていたのなら。……或いは、彼女は諦めてくれていたのだろうか。

「……はは、に訓練兵団が卒業できるか?」
「できるもん! エル兄は、調査兵団で待ってて。絶対に私も調査兵になる、それでエル兄とね、壁の外に行くの!」

 ……分かっていたよ、本当は。はとても、優秀な子だったから。座学はそつなくこなすだろうし、もしも何かで躓いたところで、絶対に諦めない気概のある子だと知っていたから、必ず調査兵団にやってくるだろうと、そう、知っていた。
 やがて、訓練兵団を10番以内の成績で卒業した彼女は、調査兵団の門を潜り、入団から程なくしては、彼女の同期であったハンジを私に紹介してきた。新兵の頃から研究者気質で、外の世界に興味を示していたハンジとがどうして親友となったのかが気になり、ふとにその旨を問いかけてみると、は、「エルヴィンが教えてくれた話、ハンジにだけは話したの」と、……そう、まるで悪びれずに言うのだ。「ハンジなら、きっと分かってくれると思ったから。ねえエルヴィン、エルヴィンからもあの話、ハンジに聞かせてあげてよ」……迷いのないその瞳、エル兄、と私を呼ばなくなった彼女に、……ああ、彼女は既に私の手を離れたのだと、そう悟った。確かには、私の同志だったのかもしれない。だが、既に彼女は自我を得て、個としてその夢を追っている。……そう、私が彼女の人生を破壊したなどと、とんだ思い上がりであったのだ。

 それから数年、……最初の壁外調査からも生還したは、心を折られることもなく、兵士として歩み続け、いつしか、兵団内でも指折りの実力者に数えられるまでに成長していたが、……私は、そんな彼女を見つめているうちに、あることに気付いた。……ハンジに、生きていてほしいから、絶望しないでほしいからと、その一心で剣に徹した彼女の中では、その数年間の間でとっくに、目的と手段が、入れ替わっていたのだ。は既に、使命に目覚めた。彼女の中ではもう、外の世界の謎を解き明かすことは目的ではなく、仲間を死なせないこと、戦い続けていくことこそが、彼女自身の目的に挿げ変わっているのだ。……只、その道中で、古い夢を紐解けたなら、などという程度に、私の唱えた夢は、彼女の中では優先順位が下げられてしまっていた。
 ……無論、その理由は、私にも分かっていた。……何も理由は、ハンジだけではなく。大切な親友であるハンジも、得難く想う余りに距離を置いたリヴァイも、彼女を慕う班員に、大切な仲間である他の団員、壁内に生きる全ての人類、……そして、調査兵団のトップに立った私。その全てを尊ぶからこそ、彼女は使命に生きる人生を選んだ。私を兄と慕ったからこそ、調査兵団に入った彼女は、私を兄と慕うからこそ、兵士としての覚悟を固めて。……彼女を妹のように想う私はそれでも、自分の夢のためにばかり生きている。自分を騙し、仲間を騙し、或いは彼女すら、いつからか騙していたのかもしれない。私の夢を語って聞かせるよりも、壁内人類の為を語って聞かせたほうが、彼女には効果的なのだと悟ってから、私はにすらも、夢を語り聞かせなくなった。その事実に、が何を感じているのかなど、目を伏せて見て見ぬ振りをしてしまった。本音を話さなくなった私に、にも建前を使うようになった私に、彼女は呆れただろうか、失望しただろうか、それとも、気にも留めなかったか、騙されてくれたのか。……そうして、このまま、いつか。もまた、私の夢のために、私に死を命じられる日が来るのかもしれないとすら、そう思いながらも。私は愚かにも、諦められなかったのだ。もしも私があの子に死ねと言ったなら、リヴァイはそれでも、私の判断を飲むのだろうかと、……そう、漠然と毎日、考え続けていた。


「……あぁ、反撃の手立てが何もなければな……」

 ……それでも結局、私が辿り着いたのは。私が死んで、が生きる道だったらしい。……ああ、嫌だ。もうこのまま、何もかもをかなぐり捨てて、地下室へと走ってしまいたい。も、リヴァイも、ハンジも、部下も、新兵たちも、壁内人類も、王政も、……全てを、見捨ててしまいたいのに、私には結局、その道を選べなかった。……私と新兵が囮になっている間に、この中で立体機動に長け、獣を殺せる可能性のあるリヴァイとが獣へと隠密で接近する。……きみたちがふたりで掛かれば、仕留められる可能性は限りなく高いだろう。私と新兵は、此処で死ぬが。……その作戦を、うんざりしながら話す私に、……きみは、こう言った。

「……エルヴィン、あなたの夢は、私が叶える」
「……
「地下室には、私が行く。この世界の真実を、私が確かめる……だから、」
「……うん、分かっているよ、
「……エル兄は、リヴァイの言う通りにして」
「……うん」
「……私に全て託して、此処で死んでください」
「……ああ、仕方ない。お前になら、任せられる。……俺の夢はお前に委ねるよ、……」

 ……地下室に辿り着くのは、俺のはずだったんだがな。死ねと命じるのも、俺のはずだったのに、きっと、きみには辛い選択ばかりを与えてしまったのだろう。それでも、は最後まで決して、……俺に恨み言のひとつも、言わなかったなあ。俺に人生を奪われただとか、俺のせいでこんなことになっただとか、あのときこうすればよかっただとか、こんなはずじゃなかっただとか。……地獄を歩みながらも、あの子は、只の一度も、俺に弱音を言わなかったんだよ。

「……おいリヴァイ! ハンジも! お前らうちのに手を出すなよお!」
「ちょっと、エルヴィン飲みすぎ……誰、こんなに飲ませたの? リヴァイ?」
「ちげえよ、ハンジだろ」
「だっはっは! エルヴィンほんと酒癖悪いよねえ、おもしれー!」
「笑い事じゃ……」
はなあ! おれが大切に育てたんだぞお!」
「私、エルヴィンに育てられた覚えはないんだけど……」
「どうしてそんなこと言うんだ、……まさか、未だに反抗期なのか…!?」
「何言ってるのエルヴィン……」
「コラ! ! ちゃんとエル兄と呼びなさい!」
「もうそんな呼び方する関係じゃないって、何いってんのほんと……私、あなたの部下なのよ?」

 ……いつからか頑なに、お前が俺を兄とは呼ばなくなったこと、……実はね、少し、寂しかったんだよ。立場があるからだとも、分かっていたけれど。……それでも、彼岸で思い出したいつかの夜の会話に、最後の声が滲んで溶けて、捧げた心臓が空けた風穴を塞ぐように、全身に染み渡って、もう、何処も痛まない。……ああ、そうか。お前はずっと、俺を兄だと慕ってくれていたのだ。……それは、よかった。きっと、それなら、俺の夢は、お前が叶えてくれるのだろう。人類の存続という使命のその傍らで、すこしだけ、寄り道をして。お前の夢の中にだけ、俺は生きているのだ。 inserted by FC2 system


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