鍵穴に蝶の死骸を詰め込んでおいたから

 サラリーマン、ましてや営業職なんてものは社内での生存競争が生業で、学生の身分でもないのに、常に優劣と順位を業績によって徹底的に算出され、あまつさえそれを社内で張り出される。そんな環境では、ホワイトな労働等成り立つ筈もなく、まあどこの業界もそうなのだろうが、営業職ってのはとにかく辞めていく人間が多い。だったら俺は、なんで未だにこんな仕事を続けてるんだ、という話だし、ずるずるとここまで来てしまったのも悲しいサラリーマンの性なのかもしれないが、まあ、辞めるのも転職も結局踏ん切りが付けられずに、怠惰でここまで来てしまっただけ、というだけの話、なのだろう、きっと。俺は所詮、そんなもの。だけど、入社から7年目になる現在、実際に同期の殆どはとっくに辞めてしまった。兎にも角にも、この業界は精神やら肉体やらを病んで辞めていく人間が多い。俺も実際、先生の世話になっていなければどうなっていたか、わかったものではない。上司にいびられて辞めた奴、仕事自体が向いてないと折れた奴、そして、向いてる奴に圧倒されて、勝手に淘汰されていった奴。

 ───であれば、辞めていった同期達を淘汰して生き残った奴、という人間が必ず存在する訳で。それがという、俺にとって社内で唯一の友人、と呼べる人間だった。



「っだから言ったじゃねーかハゲ課長ふざけんなふざけんなふざけんなよなんで俺が……!」

 その日は関東に台風が激突していて、間違いなく帰れなくなるから、と。本社からの帰宅命令も出ていたのに、あのハゲ課長は自分だけ外回りから直帰して、俺達には社内に留まっての業務続行を命じて、悲しい中間管理職の俺は、せめて後輩やらを定時で帰してその尻拭い……をしていたら案の定、仕事が終わる頃には、電車は運休、タクシーも捕まらない、もう今夜は会社に泊まるしかない、という有様で。

「何が楽しくてこんな日に会社に泊まるんだよクソッ……」
「ねー観音坂くん、ホテル行こうよホテル」
「へっ!? はぁ!? ホ、ホテル!? な、なんでが俺なんかと、いや、待っ、」
「? だって経費で落ちるでしょ、これ。会社に泊まるくらいならビジホ行こ、コンビニで夕飯買ってさ」
「えっ、あ、そ、そういう……」
「ちゃんとお布団で寝たくない?」
「……おふとん」
「それにお風呂入りたいもん私」
「おふろ……」

 俺と同じく、部下を帰して自分だけ残っていたと愚痴りながら、仕事を片付けていたテッペン間際、がそんなことを言い出して、一瞬でもの言葉に対して妙な解釈をしてしまったことへの申し訳なさで死にたくなりながらも、その言葉は尤もだ……と思った。もしも、俺一人なら、要らない経費だと、後からハゲ課長にブツブツ言われるのは嫌だから、と絶対に避けるところだが、は全くそんなことは気にしないし、多分なら、上から文句も言われないし、文句なんて言わせないのだろう。俺とは違って、仕事が出来て上からの期待を背負ったエース様なのだ、こいつは。そんな彼女が何故俺なんかと連んでいるのだろう、と思うことも多々あるが、は外面は完璧で笑顔の絶えない、正しく営業の鑑ではあるものの、まあ、営業職なんてどいつもこいつも、内心冷え切っているわけで。俺の前だと口は悪いわ、表情筋も死ぬわ、煙草は吸いまくるし、酒も飲みまくるし。でも、一見完璧な彼女がそうして、俺の前でだけ、俺と大差のない駄目な人間になるのが、不思議と嫌ではなくて、居心地が良くて、彼女は彼女で、俺は彼女を咎めないから気が楽だ、と言って。彼女とは入社以来ずっと付き合いが続いており、お互い部下も持つ現在では、昔程の交流は減ったように思うが、まあ、こうして帰るタイミングが多々被るので、相変わらず俺とはつるんでいるわけだった。

「当然の権利でしょ、主張してこ。あのハゲ、とっくに帰ったんでしょ? 文句なんか言わせないわよ」
「そう……だよな」
「なんか言われたら、観音坂くんは私が庇ってあげるから」
「う……わ、悪い。でも助かるよ……」
「良いってば、実際観音坂くん頑張ってるし、その辺の奴らより全然仕事できるしね。この私が言ってるんだから、信じなさいよ」
「な、なんだよそれ……」

 優秀な人間からの称賛なんて、とてもではないが信じられない。だが、それは他でもないからの言葉で、そう思うと、照れ臭いような、嬉しいような、擽ったいような、堪らない気持ちになってしまう。有頂天になってしまいそうになるし、もしかしたら俺は明日死ぬのか? と思うほど、舞い上がってしまうし、不安にもなってしまう。そんな風に、に褒められただけでも、これなら残業も悪くないな、と思ってしまいそうになるのに、今日はこの後、別室とは言え一緒に泊まる訳だから、二人で酒盛りくらいにはなるかもしれない。いや別に、彼女の部屋に行こうだとかそんな下心がある訳じゃないし、そもそも、それで気持ち悪がられたら、お、俺は。


「え? 満室?」
「はい、この台風で、お客様が殺到しておりまして……」
「ええ……どうしよ観音坂くん」
「わ、悪い……俺のせいだ……」
「いや観音坂くんのせいではないけど」

 ――良いことがあった後には、まあ、爆速でしっぺ返しが来る。そういう星の元に俺が生まれたばっかりに、会社近くのビジネスホテルは全滅で、まで俺の不運に巻き込んでしまった、と平謝りを繰り返す俺に、はふと思い付いたように、なんでもないような顔で、とんでもないことを言い出した。

「仕方ないよ、ホテル街なら流石に空いてるだろうしそっちにいこ」
「……は?」
「まあ、会社に戻るのも釈だし」
「いや、待て、ほ、ホテル街って、」
「え、ホテル街はホテル街でしょ。私は別に観音坂くんとならいいよ」
「……へえっ!?」
「え? だって寝るだけだし、誰も見てないよどうせ、私達以外帰ったし。あーでも観音坂くんが嫌なら、ネカフェかカラオケでも行く?」
「そ、そりゃ別に、俺だって、い、……嫌ではない、けど……」
「そう? じゃあ行こ」

 ――深い意味なんて、無かったのだろう。そんなことは、わかっている。止むを得ず、他に選択肢がなくて、そうしただけ。そうじゃなければ、みたいな人間が、俺なんかとラブホに入ろうと思う訳がない。そんな関係じゃないし、間違いが起こらないと信用してくれてるんだ、冷静に、平然としていなければ、の信用を失ったら、俺はもう生きていけない。だって、この会社でどうにかやっていけてるのも、全部、がいてくれた、からで。

「さ、先に風呂入ってきていいぞ」
「あ、いいの? じゃあ先に適当に飲んでて。ありがと!」
「い、いや。が体冷やすと悪いからな……」
「それは観音坂くんもでしょ? じゃ、早めに上がるね」

 せめてこのくらいは気を利かせよう、と放った言葉も、なんか気持ち悪くないか? そういうつもりで待ってます、って聞こえていたらどうしよう、これセクハラになるんじゃないか、そうじゃなくても、に気持ち悪いと思われたら、き、嫌われたら、どうしたら、と。彼女が浴室に消えてから、ぐるぐると不安に襲われて、───同時に、浴室からの水音が酷く生々しく聞こえて、気が、狂いそうで。深く深呼吸をして、部屋をまじまじと見渡した、───のが、悪かった。雰囲気を盛り上げようという、店側の要らない配慮で、無駄にえろい、ぼんやりとピンクに落ちる灯りに、枕元に用意されたコンドーム。まるではっきりとは見えないものの、浴室は一面磨りガラスで、薄らと、艶かしい身体の線が浮かび上がっていて、慌てて目を逸らす。事故とは言え、こんな場所に、意中の相手といる、と、思うと、───ああ、まずい、急に自信がなくなってきた。だめだ、戻ってきたとまともに目を合わせて話せる自信もないし、話せたところで、正直何もしない自信が一切無い! この7年、何も出来ずに此処まで来たわけだし、まあ、大丈夫だろうと流されて入ってしまったが、いや、まずい、雰囲気が完成されすぎていてまずい、これはだめだ!

「───酒! そうだ、酒だ……!」

 ───そう言って、ストロング何某を勢い良く煽って、酒が回ってしまえば、無理やりにでも陽気に乗り切れるかもしれない、さっさと寝落ちてしまえるかもしれない、とそんな淡い期待を抱いて、必死に3本目を開けたところでが戻ってきて、その時点で俺はだいぶ酔っていて、そのままと飲んで、確かそれで……。


「───嘘だよな?」

 さあっ、と血の気が引くのが自分でも分かった。すっかり朝日が差し込む時間帯、台風一過後の空は、俺の心とは裏腹に快晴で、慌てて自分の格好を確認して、隣ですやすやと眠るのシーツを、バッ、と剥ぎ取って、一瞬で元に戻し、動揺してそのまま俺はベッドの上から落ちた。いや、わかる、正直バッチリ全部覚えてる。───だから、が裸で眠っている意味も、俺がその隣でやはり全裸で寝ていた意味も、分かる。だが、一人でドタバタ騒いでいる俺にも気付かずに、すっかり熟睡しているはだいぶ疲れているらしく、お、おれは、な、なんか、まさか、にかなり無理を強いたんじゃ、いや、強いたんだよな……覚えてるもんな……絶対嫌われた……死にたい……。

「……ん、かんのん、ざかくん……」
「ヒッ、ヒイッ! す、すみませんすみません申し訳ありません……!」
「……おはよ」
「へ? あ、え?」
「おはよ、かんのんざかくん」
「……お、はよう、……」

 セクハラで会社をクビになるのか、そもそもこれ強姦だよな、捕まるよな、は優しいから上に報告しないかもしれない、でもそんなの俺が耐えられない。無理だ、警察に自首しよう。一生掛けてでも彼女に償おう、俺の生涯なんかに、そんな価値があるとは思えないけど、ああでも、それよりなにより、こんな形で、この7年間が台無しになるのが、そりゃ勿論、俺なんかとが釣り合うとも、振り向いてもらえるとも思ってなかったけど、ただおれは、の信頼を裏切ったことが、俺は、本当に、───と、後悔でぐるぐる回る頭に、目頭が熱い。もういっそ、お前の手で殺してくれ、と床に頭を擦りつけて許しを乞おうと思った、俺に。されどは、なんでもないように告げるのだった。

「……あさごはん、どうする?」
「……へ?」
「だから、あさごはん」
「……あ、ああ、あさごはん……」

 え、俺って、にとって朝ごはん以下なんだ……。そう、なんだ……。 inserted by FC2 system


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