月と蛞蝓

 最近、の様子がおかしい。

 ここ暫くは、ずっと、お互いに仕事が忙しくて。繁忙期、というのも何か違うかも知れないが、医療機器を扱うウチの会社は当然、医療現場が慌ただしくなる時期には、必然的に引っ張られて対応が増え、仕事に追われる羽目になる。例えば、インフルエンザが流行する冬場だとか。そういう時期は、いつにもまして、忙しさが段違いなのだ。
 ましてや、俺もも、後輩の面倒を見たりだとか、先輩や上司に気遣いをしなきゃいけなかったりだとか、何かと気苦労の多い、所謂中間管理職でもある訳で。
 只でさえ、日頃からバタバタと動いているというのに、ここ数ヶ月ほどは、段違いの忙しさの中で、過ごしていたのだった。仕事の後で飲みに行くにも、もう店なんか空いていない、という日々が続き、必然的に、とのやり取りは減っていた。精々、仕事中に少し話したり、喫煙所で愚痴を言い合ったりだとか、そんなレベルだ。

 ───俺は、そんな生活が、当然、苦痛で仕方がなかった。

 この会社でやっていけているのも、どうにか、出社しないとな、という気持ちに、自分を毎朝持って行けているのも、ぜんぶ、───会社に行きさえすれば、に会えるから、でしかないんだよ、俺は。そりゃ、最近は少し、仕事にやりがいだとかも覚え始めて、もう少し頑張ってみよう、と、多少前向きに、変われたのかな、と思う節も、無いことも無いけどさ。もしも、俺が変われたのだとすれば、やっぱり、それはの存在がデカいん、だよ、な。

 只々、お互いに仕事が終わらなくて帰れないから、成り行きだけで、一緒にいただけ、だったけれど。───去年のクリスマス、と一緒に過ごして、会社からの帰り道に、イルミネーションを見に行って、さ。そのときに、思ったんだ、俺。

『───観音坂くん! みてみて、間近で見ると思ってたより全然大きいよ!』
『……ほんとだ、こんなにデカかったんだな……』
『きれいだねえ、あ、あっちでクリスマスマーケットやってるみたい。ホットワイン売ってるよ! 買う?』
『……いいな、それ。飲んでくか?』
『うん! いこいこ!』

 ───ふたりで見たその景色は、確かに綺麗、だったけど。それよりも、ずっと、その横顔が。───丸い瞳にイルミネーションの光を吸い込んで、きらきらと瞬かせる、のほうが、ずっと、きれい、だ。───なんて、気の利いた台詞は、全然言えなかった、俺だけど。───そうだよ、こんな、俺なんか、だけど、やっぱり、どうしても。───彼女の隣は、誰にも渡したくない。来年のクリスマスは、もっと胸を張って、の隣に居られるようになりたい、って。そう、思ったんだ。


 ───まあ、そうはいっても、年が明けてすぐに、怒涛の忙しさに、追われ始めたから。だからって、すぐに何か、行動を起こせたわけじゃ、ない。6年も、何も出来なかったくせに、急にアクションに打って出られる、なんて風に、自分を過大評価していた訳でも、ない。
 でも、その、そろそろ仕事も落ち着いてきた、し。まずは、食事にでも誘ってみよう、と思ったのだ。大丈夫、大丈夫だ。───別に、それだけなら、今までずっと、何度もやってきたこと、だから。仕事帰りのラーメンだとか居酒屋を、ちょっと洒落た店に、変えてみるだけだから。一二三に相談して、店も目星をつけてあるし、は結構、そういう小洒落たバルとかレストランとか、好きだし、彼女ならきっと、喜んで頷いてくれるはずだから、大丈夫、大丈夫……。

「───え? 食事?」
「そ、そう! が好きそうな店、偶然見つけてさ、その、取引先の人に、教わったんだけど、それで……」
「それって、いつ? 今日の帰りとか?」
「いや、その、ちょっと会社からは離れてるから、……今度の休みとか、どうかな、って……思うん、だが……」
「次の休みって、」
「来週の日曜、辺りとか、どうだ……?」
「来週の……、あ、ご、ごめん、観音坂くん……」
「……へ?」
「あの、……その日、ちょっと、先約があって……」
「……え」
「あ、あの、……本当にごめんね、折角声かけてくれたのに……」
「え、あ、い、いや、……き、気にしなくていいから! 全然! 俺も別に、都合が合えば、くらいだったし! が気にすることじゃないから!」
「……あ、そう、なんだ」
「そう! 全然平気だから!」
「……そっか」

 ───そのときの俺には、がそう言って、少し寂しそうに笑った理由が、分からなくて。

「……よかったら、また誘ってね?」
「……うん、また今度な」

 が俺の提案を断ったのなんて、初めてだったから。───また、今度、という言葉に対して、───それって、本当に誘ってもいいのか? 迷惑に思われないか? なんて、完全に怖気づいてしまった、のだ。

 それからも、相変わらず、仕事の帰りに飲んだりとか、飯に行ったりだとか、そういった今まで通りの付き合いは続いていたが、なんとなく、その頻度は以前より、下がっていたし、その理由には、いくら俺でも、すぐに気づいた。――以前のように、の方から、俺に声を掛けることが、少なくなってきているのだ。

『───観音坂くん!』

 入社以来、ずっと、いつでも、変わらずに。満面の笑みで、俺を呼んでくれた、彼女だったけど。最近、前ほど、彼女の笑顔を、見ていない気が、する。

『───、』

 ───寧ろ、最近では、俺が彼女を呼び止めてばかり、で。

『───なあに、観音坂くん?』

 例えば、それで嫌な顔をされるだとか、そんなことは一切無くて。俺が誘えば、仕事後の飯も、飲みも、一緒に行ってくれたけど。でも、なんとなく、だけど、さ。───は近頃、俺の顔を見て、少しだけ、悲しそうな顔をするんだよ、な。何処か、傷付いた、ような。そういう、表情だ。───心当たりなんて、そりゃ、腐るほどあって。───もしかして、とうとう愛想が尽きたのかな、だとか。もうとっくに、同期のよしみで付き合ってくれてるだけ、なのかな、だとか。そもそも、今の関係以上、なんてことを、勝手に望んでるのは、俺だけだろうし、───やっぱり、迷惑、なのか? だとか。そう、想ってしまうのも事実で、───でも、本当に勝手だけど、このまま引き下がるなんて、出来そうにないから。俺の欠点なんて、悪いところ、なんて、きっと、いくらでもあるけど。に好かれる為なら、頑張って、少しずつでも治すから。
 だって、今までだったら、このままの距離感で居て貰えるだけでも、嬉しかったし、それでいい、と思い込もうとしてきた、けど。結局、全然、そんなんじゃだめだったんだよ、俺。結局俺は、無欲な振りをしてみたところで、謙虚になんかなれないし。どうしようもない、奴なんだよ。どうしようもない自覚がある癖に、にだけは、そんな俺を許して欲しい、なんて。身の程知らずにも程があるけど、俺は、そう想ってしまったのだ。

『───な、なあ、この日、なんだけど、よかったら……』

 ───でも、それからも。

『……あ、ごめん、この日は予定が……』
『ごめんね、折角誘ってくれたのに、』
『本当にごめん! 次は、予定合わせるから……』

 休日の予定だとか、怖じ気づきながらも、───デートのつもりで誘った提案は、尽く断られてしまっていて。……やっぱり、俺じゃ駄目なのかなあ? 迷惑、なのかなあ? なんて、心が折れかけて来た頃のこと、だった。


「───ん、あれ」
「? 一二三? どうした?」
「……いや、あれ、ちゃんでね? って思ったんだけどさあ、あの隣にいるのって、MTCのおまわりさんじゃね?」
「……は?」

 ───最近では、偶の休日も、と出かけることもなく、接待か家で寝ているか、ばかりだったから。気分転換に外に出よう、と。俺のメンタルを案じて誘ってくれた、一二三の提案で、その日は少し遠出して、ヨコハマまで来ていた。日中だと一二三が目立つし、女の人が多いのは不安だから、少し暗くなった時間帯に、こんな時間に、男二人で歩く場所じゃねえよなあ、なんて言い合いながら、みなとみらいの周辺を歩いていた、その矢先、だ。───見渡す限り、カップルだらけの夜景の中に、の姿を見つけたのは。

「……ほん、とだ……だ……」
「なーんであの人と一緒なんだろな? ま、いっか! 声かけてみよーぜ! 人数多いほうが楽しいっしょ! おーい! ちゃ……」
「っ、ばか、一二三!」

 一二三の大声で、が一瞬、こちらを振り向いて。───俺は、咄嗟に。一二三の口を両手で塞いで、そのまま一二三を引きずりながら、建物の影に隠れて、しまって。

「……?」
さん? どうしました?」
「なんか今、一二三くんの声が、したような気が……」
「おや、せっかくのデートなのに、他の男の話ですか? 酷い人ですね」
「だ、だって今、だれか、私の名前呼んでませんでした!? 銃兎さんだって聞こえたでしょ!?」
「さあ? 生憎ですが、私はさんの声しか、聞いていませんでしたので」
「……もう! すぐそうやって茶化しますよね! 銃兎さんって!」
「私は、茶化しているつもりはないんですが、ね……ほら、早く行きましょう? 予約の時間に遅れてしまいますよ」
「……は、はい」

 ───慌てて隠れておきながら、ばっちり、二人の会話が拾える距離を選んでしまう俺は、どうしようもなく、情けなくて、みっともなくて、格好悪くて、───二人の会話を聞いてしまったことを、後悔する俺とは対象的に、青い光のライトアップの中で寄り添う二人は、楽しそうで、───なんか、思わず、服装もよく合ってるな、とか、私服のセンスが近いのかな、とか、今日一日、一緒だったのかな、だとか。そんな邪推を重ねてしまいたくなるくらいには、───立ち並ぶ姿が、酷く、お似合いで。

「───どっぽ? あのさ……」
「……うん、悪い、大丈夫だ、から……」
「……ほら、あれじゃん。前からちゃん、入間サンにさあ、付きまとわれてるって言ってたじゃん」
「……うん、そう、だな……」

 入間さんが、頻繁にシンジュクまで彼女に会いに来ている、と。そう、聞いていた、けど。───名前で呼ぶ間柄になっていたことも、の方から、ヨコハマに会いに来たりしていることも、俺は、知らなかったし。───今日、本当は、俺はと出掛けたくて、先週また、食事に誘ってたん、だよ。でも、そのときも、は、さ。

『───ごめん観音坂くん、その日、先約があって……』

 ……あー、そうか、あの先約って、俺の誘いを断った理由って、入間さんと会う為、だったんだ……。あー、そっか、そう、なんだ……。

「……一二三ぃ」
「お? お、おーい!? ちゃんどぽ! なあ、どっぽ! しっかりしろ! な!?」
「……やっぱ駄目だ、俺、立ち直れないかもしれん……」
「お、おー! よし! 今日は帰ろーぜ! 帰って俺っちが独歩の好きなもんなんでも作るし! んで、作戦会議だ! な!?」
「……ああ……」

 作戦、なんて、残ってるのかなあ? だって、これってさ、もう、――俺、失恋してるよな? 負け確じゃないか? これ……ああ、もう、世界の終わりか? 今日は……最悪の日だ……。 inserted by FC2 system


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