夜のすべてを見たこともないくせに

 シンジュク中央病院は、弊社としても大口の契約先で、うちで提供している機材の数も、また、先方の医師の数も多すぎるくらいに多いので、複数人で対応を兼任する形で、先方にはうちをご贔屓にして貰っている。私も、その頭数に入っているので、基本的に週に一度は顔を出すし、機材のメンテナンスや在庫チェック等、訪れる機会は多いの、だが。───只、その中でも、寂雷先生とは、今では、余り直接話す機会はなくなっている。以前は私と観音坂くんとで交互に、寂雷先生の所属している科を、対応していたのだけれど、現在は、二人はチームメイトである訳だし、私より観音坂くんのほうが適任だろう、と思ったこともあって。いつの間にか、そういう体制になっていた、というだけの話、なのだけれど。

「お久しぶりですね、くん」
「はい、お久しぶりです。最近はあまりご挨拶にも伺えず、失礼いたしました」
「いえいえ、きみも忙しい人だと承知していますからね。独歩くんも、心配していたっけ」
「……え?」
「うん? ああ、数日前に、彼が来たときにね、きみの話をしていたんですよ」
「……そう、なんですか」
「ああ、心配しないで。勿論、良い噂だからね」
「良い、噂……」
「はい。独歩くんからよく聞いているよ、きみがどれだけ素晴らしい人で、彼の支えになっているか、とね」
「いえそんな……、それは、寂雷先生の方ですよ、本当に、麻天狼を組んでから、いつの間にか、……観音坂くんは、頼もしくなって……」

 ───多分、やっぱり、私はきっと。

 未だ、麻天狼が存在していなかった頃、観音坂くんが今よりずっと、不安定だった頃なら、彼の隣に、いる理由があった、と。結局、私の価値はそれだけ、だったのだと思う。ずっと私が、首位を独占し続けてきた、弊社営業部の業績も、最近では、観音坂くんが、遂に二番手まで迫ってきていて、───多分、何かのきっかけがあれば、───例えば、観音坂くんがもう一段階、何かを吹っ切れたりだとか、───或いは、私の心が折れたり、だとか。そういう、何かが起きたなら、多分。───私は、追い抜かれる、と思う。仕事面に置いても、彼に、置いていかれるような気がして、仕方がないのだ。そんな風に、後ろ向きに現状を捉えて、絶対に負けない、と吠えることすら出来ていない私は、多分、もうとっくに、負けているし、振り落とされてしまっている。

『……は、いつも、可愛いよ……きょ、今日だって、その、可愛いし……』

 ───それ、どういう意味? って、今度こそ、そう、聞けばよかったの、かな。多分、少し前の私なら、やっぱりそう考えただろうし、はっきりと、その続きを聞けていたと思う。だって、少し前まではちゃんと、これ以上、ずるずると、私だけが好きなままでは居たくなかったし、私のこと、好きになってほしいと思ってた。あの夜のことよりもあの朝のことを、後悔していたから。───少し前の私なら、勇気を振り絞って、聞いていたはずだと思うのだ。

 でも、もう、死んだの。
 もう、観音坂くんの知ってる私は、死んじゃったんだよ。

『あなたに知ってほしいんです、私の好きなものも、私が、あなたを好きなことも、ちゃんと』

 ───あの夜、それ以前の私は、死んだ。
 強がっていられた頃の私が死んで、それからはもう、本当に、下り坂を転がるように、ずっとずっと、灯りのない道を必死に掻き分けて、歩くことすらままならず、地べたを這って、身体を引きずって、今更、ようやく、自分の手足が、傷だらけなのだと気づいて、───そうして、私は。痛くて仕方がない身体を、誰かに支えて貰える安堵をもまた、知ってしまった。私は、一人で何でも出来る。誰に何をされても平気、自分の想うままいられたら、それで大丈夫、なんて。───少し前までは、本気で、そう思っていたのに、な。

「───私は、全然、大した人間なんかじゃないんです、観音坂くんみたいに、ちゃんと、頑張れなくて……」
「……待って、くん」
「? はい?」
「きみ、顔色が悪いですね。独歩くんも気にしていたので、会ったらついでに診察を、と思っていましたが……手を貸して」
「え、は、はい」
「……脈が早いな。体温も高いし、一度、ちゃんと診察しましょう。私から、会社に事情を説明しますから、今日は帰って休むべきだね」
「え、だ、だめです、会社に戻ったら、やらなきゃいけない仕事がまだ」
「……それは、今日か明日が期日なのかい?」
「いえ……そうでは、ないんですが……」
「では、」
「もっともっと、頑張らなきゃ、しっかりしなきゃ、ダメなんです、そうじゃなきゃ私、私……このままじゃ、こんなことじゃ……」
くん? どうしたんだい、落ち着いて」
「……だって、本当に、観音坂くんと、一緒に居られなく、なっちゃうんです……」
「……くん」
「し、仕事まで、だめになったら、本当にもう、私、私には……価値が、」
「……くん、落ち着いて、私の声が聞こえる? くん、───すみません! 誰か!」
「───神宮寺先生、どうされましたか!?」
「彼女が過呼吸を、私が対処しますから、きみは至急、───」

 ───ああ、そっか、そうなんだ。どうしてこんなに、焦っているんだろう。どうして、不安で仕方なくて、夜も眠れないのだろう。観音坂くんのこと、頑張って諦めよう、って。そう、決めたのに、それでも、全然、気が楽にならなくて、苦しくて苦しくて、仕方なかったのは。───そうだ、結局は。このまま諦めて、転がり落ち続けてしまったなら、そうしたなら。───私には、彼の隣にいる理由が、ひとつもなくなってしまうって、そう、思っていたから。───ばか、だなあ。もうこの恋は、終わりにしよう、って。そう、思い悩んだところで、結局、私、未練しか無くって。でも、そうだ。このまま、心身共に、腐って崩れ落ちていったなら、どうせ、いつかは。───仕事を、続けられないところまで、落ちてしまったら。わたし、そのときは、本当に。───観音坂くんと、赤の他人になるしか、ないのだもの、なあ。



 ───目が覚めたとき、私は、院内の処置室で、寝台の上に寝かされていた。着ていたスーツのジャケットは、バッグとともに椅子の上に置かれて、シャツを少しまくった腕から、点滴の管が伸びている。ぼんやりと、白い天井を眺めながら、状況を理解しようと、重い頭を必死に、動かして。

「───過労だそうですよ、貧血で、低血糖も起こしていたそうです。全く、このご時世にどうしたらそうなるんですかね、戦争はもう終わりましたよ?」
「……じゅうと、さん……」
「熱もあるそうですし、ああ、会社には既に、神宮寺さんから連絡が行っているので、心配は無用です。責任感の強い貴女のことですので、気になるとは思いますが、今日はもう、」
「……えっ、じゅ、じゅうとさん? なんで?」
「何故、って。さんが倒れられたと聞いたので、迎えに来たんですよ。良かったですね、入院にはならないそうです。只、数日は自宅で静養を、と。診断書も出してくださるそうですよ、労災、降りるんじゃないですか?」
「え、いや、そういう問題じゃなくて、なんで銃兎さんが、え? ここ、シンジュクですよ?」
「……まあ、今日はたまたま、此方に出てきていまして。本当ですよ? 以前、シンジュク交番勤務だったもので、その縁で少し、ね」
「え、そうなんですか?」
「ええ。おや、話していませんでしたか?」
「はい、初耳ですけど……いや、でも、そうじゃなくて、」

 簡易なベッドの脇に置かれていた、安っぽいパイプ椅子では、少し、長い足を持て余すのか、窮屈そうに、脚を組んで座りながら、───心配そうな顔で、私を覗き込んでいる銃兎さんが。なぜ、どうして。───当然のような顔で、そこにいてくれるのか、わたしには、なにも、――わからなくて。

「───さん、神宮寺さんと話している最中に、倒れられたそうで。大事はないものの、静養が必要だと。会社に連絡が行ったそうなんですが、生憎、女性社員は出払っていて、迎えに来られなかったそうなんですよ。ご自宅、中王区でしょう。男性では、貴女を家まで送れないので」
「あ、……な、なるほど」
さん、一人暮らしですし、家族の迎えも呼べませんし、意識が戻ってから、一人タクシーで帰すのも心配だったそうで。で、緊急だったので、看護師の方が、鞄の中を確認したそうなんですが、私の連絡先の書いた名刺が入っていた、と」
「そ、それで? ですか?」
「ええ、それで。神宮寺さんとも私は面識がありますし、……さんの会社の方に確認したところ、私的に親しくしている、と。そう、証言された方もいたそうで。どなたかは、存じ上げませんがね。誰かに、見られていたのかもしれませんね」
「……そう、ですか……」

 そう、説明を受けたところで、疑問など、聞きたいことなら、いくらでもあったけれど。───それ以上に、銃兎さんが此処にいることに、私は酷く、驚いていて。───だって、シンジュクに仕事で来ていた、という話が本当だとしても、それはそれで、今日は勤務日だった、ということになるのだから。それを、恐らくは、投げ出すか何かして、わざわざ、彼を振り回して、迷惑をかけてばかりいる、───私なんかの為に、ずっと、このひとは、私の目が覚めるのを、待っていたということになる、訳で。

「……私よりも、観音坂さんが、よかったですよね?」
「───え」
「迎えに来る相手が、ですよ」

 ───だから、銃兎さんが涼しい顔で、冗談っぽく、───でも、どことなく、寂しそうに、そういったとき。───本当に、ショックだった。───だって、彼の言うとおり、なのだ。銃兎さんがわざわざ来てくれたことに、確かに感謝しているのに、私、───勝手に傷付いて、勝手に落胆して、また、銃兎さんの気持ちを踏み躙っていた。

「───まあ、当然ながら、私より先に、観音坂さんにも連絡が行ったようですよ。実際来たのは、私の方でしたがね」
「……ああ、そう、なんですか。……そうですよね、観音坂くん、今日も外回りだし、そんなに暇じゃないし、私だって、本当は、こんなことしてる場合じゃ……」
「……何をそんなに、焦っているんですか?」
「え、」
「最近、前にも増して苦しそうだな、とは思っていましたし、心配、していたんですよ。こう聞くのも気が引けるのですがね。……仕事、上手く行っていないんですか?」
「……上手く行ってない、訳では、ないんです」
「でしたら、何故? 実際、あなたなら、たかが数日、現場に穴を開けたところで、挽回など容易いでしょう? 会社は回らないかもしれませんが、それはあなたの責任ではありませんし。何より、あなたは優秀な人だと、上は分かっているのでは? 私だって知っていますよ」
「……前は、自分でもそう思ってました。でも、最近……」
「今まで出来ていたことが、上手く出来なくなった、と?」
「……はい」
「……失敗して、信頼を失って、会社に居場所がなくなるのが、怖いですか?」
「…………」
「……ああ、なるほど、そういうことですか。……そうなったら、観音坂さんに会えなくなるから。諦めたいんでしたもんね、そうなれば、会社だけが接点になりますから、ね。それで、空回っていた訳ですか」
「……お恥ずかしい話、です」

 ───銃兎さんの目にもそう映るくらいに、私、わかり易かったのだろうか。自分では、今の今まで、自覚できていなかったけれど、───だとしたら、とんだ道化だなあ、と思う。あれだけ虚勢を張り続けて、墜ちるときは、こんなに一瞬だなんて、思わなかった。───でも、本当に、もう。ここから、浮上する手立てが、私には全然見えないし、分からない。苦しみ藻掻いて、溺死する未来しか、───既に、私には見えていないのだと、もう、思い知ってしまった。膝が、折れてしまった。

「───まあ、良いんじゃないですか?」
「え?」
「ヨコハマも、良いところですよ。中王区からは大分離れますが、シンジュクなら一本ですし、私も、今の自宅は、単身用のマンションですが、引っ越せばいいだけの話ですし」
「……?」
「……いざとなったら、私が養いますよ、と言っているんですが」
「……えっ」
「まあ、あなたはそんな事にならないとは思いますがね。それに私も、プロポーズには相応のシチュエーションを用意する算段ですので、今のは飽くまで、最悪の結果を回避する方法くらいはご用意出来ますよ、という話ですので」
「……えーと、あの、本気で言ってます?」
「ええ。私はいつでもさんに本気ですよ? ご存知ありませんでした?」
「……いえ、ご存知です……」
「そうですか、それは良かったです」

 今日だって、昨日だって、きっと、ずっと、私はこの人を傷付けている、筈なのに。───どうして、こんなに、寄り添おうとしてくれるのだろう。だって、人を真剣に好きで居続けることって、苦しいんだよ? ───それなのに、相手が振り向きもしない、状況って、すごく、すごく、辛くて、苦しくて、心臓が破れて、呼吸が潰れてしまいそうに、なるはず、なのに。どうして、───どうして、そんなにも、穏やかに、涼しく。このひとは、───私のことだけ、真摯に考えてくれるのだろう?

「───まあ、少なくとも今、休み明けの会社での立場ですとか、その後の生活ですとか、そういったものは気にせずに、しっかり休んでください。神宮寺さんから直接連絡が行ったんですから、何も言えませんよ。労基にガサ入れされかねないでしょ? さんの会社」
「……はは、言われてみれば、それは確かにそうですね……」
「ええ、もう少し落ち着いたら、ご自宅まで送りますし、何かあれば、連絡してください? 欲しいものがあれば、買っていきますし、ひとまず今日必要なものは、買ってから帰りましょうか、簡単な食事とか」
「……はい。何から何まで、すみませ、」
「ストップストップ、私は謝罪は欲しくありませんよ、さん」
「……あ、あの、銃兎さん?」
「はい、なんです? さん」
「……ありがとう、ございます。……来てくれて、嬉しかったです。説得力、ないかもしれませんが……目が覚めたときに、誰も居なかったら、多分、私泣いてました」
「……それはよかった、駆けつけた甲斐が、あったというものです」

 なんだか最近、私、謝ってばっかりだ。以前は観音坂くんに、今みたいに、私が指摘する立場、だったなあ。───格好、悪いなあ、わたしって、本当に馬鹿だよねえ……。 inserted by FC2 system


close
inserted by FC2 system