こわれないことば

 病院まで迎えに来てくれた銃兎さんが、彼の車で中王区の自宅まで送ってくれることになって、最初は、その道中、少し買い出しをしていこう、という話だったのだけれど。すっかり乗り慣れてしまった銃兎さんの愛車の、助手席に座っている内に、なんだか、意識がぼんやりと、してきて。

『───いけませんね、顔色が悪い。先に家まで送りましょう』
『え、でも……』
『その後、私が適当に買い物して、また戻りますから。家で待っていてください、寝ていてくれても大丈夫ですから』
『あ、それなら……鍵、渡しておきますね。出られなかったら、悪いですし……』
『…………』
『銃兎さん?』
『……いえ、信頼されたものだな、と。少々、驚いていただけです』

 驚いた、というよりは、引きつった、という方が正しい、ような。そんな表情をする銃兎さんに、───少し、失礼だったかなあ、なんて、思ったけれど。銃兎さんの人柄を、多少なりとも私は見ていると思うし、その上で、このひとを信用して、頼りにしているのは事実だし。それに、何より、銃兎さんが戻ってきたときに、本当に出られなかったら申し訳ないし、勿論、流石に寝ないで待っているつもり、だけれど、───何しろ、つい数時間前に、病院で倒れたくらいだから、正直、少し自信がなかったのも、あって。

『では、小一時間ほどで戻りますので、戸締まりはしっかりしておいてくださいね?』
『はい。ありがとう、銃兎さん』

 ───その後、化粧を落とし、時計とピアスを外して、軽く、シャワーを浴びて、部屋着に着替えて。髪を乾かしていたら、丁度いい時間かな、と思ったものの、銃兎さんはなかなか、帰ってこなくて。薬の効果か、頭がぼうっとして、起きているのがつらくて、───横になるだけ、寝るわけじゃないから、と。そのつもりで、ベッドに寝転んで、それで、

『───すみません、思ったよりも道が混んでいて、……さん? ……寝てんのか?』

 ───ぼんやりと、銃兎さんの声を聞いたのは、覚えている。覚えているの、だけれど。



「───えっ?」
「おや、お目覚めですか! おはようございます、ご気分は?」

 はっ、と、ベッドの上で目を覚ましたとき、電気も付いていないのに部屋が明るくて、まず、寝てしまっていたことに驚いたけど、───昨日、家に帰ったのは、夕方だったはず、だから。一体、私は何時間寝ていたのだろう……と、慌てて服を着替えて、髪を整えながら、寝室を出ると、───リビングのソファに、にっこりと笑顔を湛えた、銃兎さんが座っていた。

「え? あ、あの……お、おはようございます……?」
「……ハァ、その様子だと覚えておられないようですね」
「は、はい……銃兎さんが戻るまで、起きてるつもりだったんですが、全然……」
「それは良いんですよ、休んでいてくださいと言ったのは私ですし。そのつもりで、鍵もお預かりしましたから、それはいいんですが……」
「はい……」
「……本当に覚えてないんですね、ったく、よくそれでここまで……」
「……? じゅ、じゅうとさん?」
「……あなた、昨夜私になんと言ったと思います?」
「な、なんて言ったんでしょうか……」
「心細いから帰らないで、泊まっていって。ですよ」

 ───なんでも、昨夜の私は、銃兎さんが戻ってくる頃には、すっかり寝入っていて、熱も上がっていたらしく、───多分それは、油断してシャワーなんか浴びたから、体調が悪化したんじゃないかな、と思ったけれど、ともかく。銃兎さんが帰ってきたら、部屋の灯りも付いていないし、慌てて鍵を開けて、家に上がったら、寝室で私がぐったりと寝入っていたらしく、そこから、銃兎さんが看病をしてくれた、───ということらしかった。言われてみれば、ぼんやりと、何か、飲み物を飲ませてもらったり、冷却シートを貼ってもらったり、色々と、銃兎さんに世話を焼かせたような記憶が、蘇ってきて。

『───じゅうとさん、かえるの?』
『ええ、また何かあったら連絡してください、すぐに駆け付けますので』
『…………』
さん?』
『じゅーとさん、おまわりさんですよね?』
『ええ、そうですね』
『……じゃあ、中王区に滞在しても怒られないでしょ?』
『は?』
『泊まってって、くれませんか……その、心細くて……』
『……ハァ、正気かよ?』

 熱を出して寝込んだのも、点滴だ、検査だと、病院で大事になったのも、本当に、久しぶりだったから。仕事に対する負い目もあったし、寂しくて、仕方がなくて、不安で、心が弱っていて、多分、私がそんな幾許かを、愚直に並べ立てたから、───銃兎さんも、断れずに、放っておけなくなってしまったの、だろう。

「す、すみませんでした……」
「全く、私が理性的な人間である事に、あなたは感謝するべきですよ。自分に好意のある男を気軽に部屋に上げて、泊まっていけ、だなんて、弱ってろくな抵抗もできないでしょうに。私じゃなければ酷い目に遭ってますよ、さん」
「う……ご、ごめんなさい……あ、あの、銃兎さんは、ソファーで寝てたんですかね……?」
「好きな女の部屋で、何もなく眠れると思うか? ずっと起きていましたよ」
「す、すみません! すみません! あ、あの、シャワー使ってください……」
「ええ、お言葉に甘えます」
「あ、えっと、朝食作っておきますね!?」
「いえ、それは結構です。昨日のうちに色々と買ってありますので、大人しくしていてください、病人なんですから」
「は、はい……大人しくします……」
「ふふ、よろしい」

 ───朝、と言っても未だ早朝の五時を回った頃だというのに、早く寝すぎたから、この時間帯に目が覚めた私はともかく、昨夜ずっと、私の世話を焼いていた銃兎さんが、この時間に起きていて、ソファーの上で脚を組み、ノートPCを叩きながら、ぐったりとした顔をしていた時点で、なんだかもう、色々と察しは付いていたけれど。───やっぱり、徹夜、させてしまったらしい。それは、当然だ、銃兎さん、身長高いし、脚の低いソファでは、座っているだけでも窮屈そうなのに、そんなところで眠るのは、至難の業だと、思うし、───何より、此処は私の家で、銃兎さんは、自惚れでもなんでもなく、此処までしてくれる程度には、私のこと、好きで。ああ、なんだか、もう、本当に、わたし、何処まで銃兎さんに迷惑をかけて、振り回したら気が済むというのだろう……!?

「───ああ、何もしなくていいと言ったでしょう? 全く、あなたというひとは……」
「い、いえ! ……銃兎さんに、迷惑おかけしてばかりなので、このくらいはさせてください……まあ、珈琲淹れただけ、ですけど……」
「そんなことはありませんよ、有り難くいただきます」
「あと、余計なお世話かとは思ったんですが、シャツ洗って乾燥機に掛けてるので……」
「ああ、そうでしたか。仕事柄、帰れないことも多いので、車に着替えは積んであるんです。ですが、手間が省けますし、助かります」
「え、そうなんですか? じゃあ、余計だったんじゃ……」
「いえ、私にとっては良い口実になりますし。まあ、女性の前で見苦しい格好で、申し訳ないのですが」
「? 口実、ですか?」
「ええ、……乾くまでは、此処に居る理由になるでしょう?」

 リビングのソファーで、隣同士に並んで、ローテーブルに向かい、珈琲を飲む。私はどちらかと言えば、紅茶派だけれど、多分、銃兎さんは今日もこの後、此処からまっすぐ、仕事に向うのだと思って、少しは、頭が冴えたほうが良いと思ったので、今朝は珈琲にした。ローストされた香ばしい豆の匂いと、昨日の内に、銃兎さんが買ってきてくれていた、ベーカリーのパンと、お惣菜やさんのサラダを並べて、早朝、───静かな時間を、ふたりで過ごす。私は顔を洗って、髪は整えたけれど、未だ部屋着のままで。銃兎さんは、シャワー上がりの濡れた髪を、軽くタオルで拭き、シャツが未だ乾かないから、上半身裸の首元に、タオルを掛けて、───その横顔は、寝不足で疲労が滲むのに、───決して、私に気付かせようとはせずに、彼はにこやかに、微笑んでみせるのだ。

「───やっぱり、意識はしていただけないんですね」
「え?」
「いえ、この格好でも、何も思わないのだな、と思いまして」
「え。───あ、す、すみません、いや、その、そういうつもりでは、なかったんですが……」
「ふふ、良いんですよ。私だけが意識していて、癪だっただけです。少し、意地悪をしてみたくなってしまいました。気にしないでください。……ああ、そういえば、」
「は、はい?」
「昨夜、何度か端末が鳴ってましたよ。───恐らく、観音坂さんからかと」
「───え!? ど、どっちですか!?」
「両方ですね」

 そういえば、色々あって全然、端末を見ていなかった、というか、見る余裕も、無かったから。慌てて、社用の端末の画面を見ると、───確かに、観音坂くんから、着信が一件入っていた。私用の端末にも、ほぼ同時刻に、着信履歴が残っていて、───特に、留守電は入っていなかったから、一瞬、肩を落としたものの、───すぐに、私用端末の方に、観音坂くんからのメッセージが残っていることに、気付いた。

『具合、平気か? 先生から連絡貰って、迎えに行ったんだけど、もう帰ったって言われて…力になれなくて悪い。見舞いに行きたいんだが、中王区には入れないから…せめて、声聞きたくて。よかったら、連絡くれ。俺が安心したいだけだから、無理しなくていいからな。でも、俺に出来ることがあれば、力になるし、相談とかも、乗るから。お大事に。 観音坂』

「……よっぽど、電話取ってやろうかと思ったんですよ? さんなら今寝てますよ、私が付いていますのでご安心を、と」
「え!? そ、そんなこと言ったんですか!?」
「言ってませんよ。流石に、私だって罪悪感くらいは覚えますから」
「そ、そうですか……よかった……」

 観音坂くんからのメッセージを、読み返して、噛み締めて、───なんだか、少し、涙が出そう、だった。だって、わたし、最近、結構彼に、愛想無かったりとか、前ほど彼の力になれたりも、していなかったのに。仲の良い同期から、よく話す同僚、くらいまで、私のポジションも下がっちゃったかな、とさえ、思っていたのに。───このまま一人で落ちて、潰れていって、観音坂くんとの接点は、どんどん遠ざかっていくのだと、勝手に思い込んで、ぐるぐると暗がりの底に、沈んでいたのに。

「───で? 諦められそうですか?」
「え?」
「観音坂さんのこと、ですよ」
「……やっぱり、無理そうです……」
「そうですか。まあ、そうでしょうね……」
「あ、あの、銃兎さん」
「いえ、お気になさらず。……諦められないのは、さんだけではないでしょうし」
「? それって、どういう……」
「……単純に、私も諦めません、と。それだけの意味、ですよ?」

 諦めない、という単純な一言を、言い切る、それだけのことが。───いつからか、こんなにも難しくなってしまった。だからこそ、私は、このひとは、凄いなあ、と思うのだ。それは、純粋な感想で、気持ちを蔑ろにするつもりも、値踏みするつもりもないし、───それだって、一歩間違えたなら、失礼にしかならない感想、なのだけれど。

「……凄いんですね、銃兎さん」
「は?」
「人を好きでいるのって、私は、すごく辛くて。……多分、元々、あんまり人間が好きじゃないんです、ちょっとした人間不信、というか……こんな仕事してるくらいですし、まあ、人の悪い側面ばかり、見てきたからじゃないかと、思うんですが……」
「……なるほど」
「……でも、そんな私が、好きだな、と思えた数少ない人間が、観音坂くんなんです。彼は真面目で、いつも真剣で、面倒見が良くて、正直で……好きな人柄、なんです。この仕事をしている中で、彼のことだけは信頼できました」
「……それが、恋愛的な好意に繋がった、と?」
「多分、そうです。……勿論、他にも人柄が好きな人は居ますよ? 一二三くんとか、寂雷先生とか……、あと、銃兎さんの人柄も、私は好きです」
「……そうですか」
「はい。……今はその、それしか、言えなくて、私……」
「いえ、十分ですよ。裏を返せば、此処から恋愛的な好意に繋がる可能性もあるわけでしょう? ……上等だ、俺は諦めねぇよ」
「銃兎さん……」
「……まぁ、私としても、清々しく勝利宣言、と行きたいところですので。悔いの残らないように、してくださいね。こう見えても私、あなたに関しては、フェアに行きたいと思っているんですよ」
「ふふ、なんですか、それ? 銃兎さん、おまわりさんなんだから、いつだって公正でしょう?」
「……さあ、どうでしょうね? まあ、あまりにも事が動かなければ、私だって実力行使に訴えるかもしれませんがね」
「え、」
「あまり、信用しすぎてはいけませんよ。……お前の前では、只の男だよ、俺も」
「……は、はい……」
「ふふ、良いお返事ですね」

 ───本当に、もうだめかも、って。病院で意識を手放す間際は、そう、思っていた。其処から、立ち直らせてくれたのは、間違いなく、銃兎さんで、私は本当に、このひとに、どうしようもなく、救われている、と思う。───多分、このまま銃兎さんの手を取ったなら、毎日、笑って過ごせるのだろう、な。私も、彼のことは結構好きだし、多分、一度受け入れたなら、自然と、恋人として愛することは、出来るようになると思う。───でも、やっぱり、私。一通のメッセージに、無言の着信に、舞い上がって、泣きたくなるくらいに、───観音坂くんが、大好きだ。彼のことが、好きで好きで、たまらなくて、彼は私を、ちゃんと気にかけてくれているのだ、と。それが分かっただけでも、嬉しくて仕方がなかった。彼の厚意に、それ以上の好意が含まれているか、と言えば。───そんなことは、ないのだろうな、とも、今の私は、思ってしまっているけれど。

「───あの、銃兎さん」
「はい、なんですか?」
「……駄目だったら、また、慰めてくれますか?」
「ええ、大歓迎です。お待ちしてますよ」
「いや、お待ちされるのは、ちょっと、不吉なんですが……」
「冗談ですよ」

 ───最後に、泣きの一回を。二度あることは三度ある、で、それも終わるかもしれないけれど。───まだ、泣き寝入りには、早いよね?

「まあ、こっぴどく振られた時は、迎えに行きますよ。それで、その脚で新居探しでもしましょう、プロポーズの用意、進めておきますから。そのまま、会社も辞めてしまえば後腐れないでしょう?」
「もー! 銃兎さん、それは意地悪いですよ!」
「そうですか? 今のは、本気ですが」
「余計に、質悪いです……」 inserted by FC2 system


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