薄氷を花と偽る

 ───色々と、精神的に落ち込んでいたり、不安要素が多かったのは、まあ、その通りなのだけれど。───それでも、このままグレーゾーンを、終わり無く、ぐるぐる回っているのでは、私らしくないよな、と思う。
 私らしい私、って、私が思うそれは、私の理想で作り上げた像、でしかないし、別に、それを誰かに強要された訳でも、───ましてや、観音坂くんに願われたからそう振る舞っていた訳でも、無くて。

 ───今思えば、本当に、それは私の自己満足、だった訳だ。

 大学を出て、今の会社、一部上場の医療機器メーカーの営業部に就職、して。順風満帆だと、最初は思っていたのだけれど、───まあ、入った会社が、とんでもなくブラックだった。学生時代、精々、接客業のアルバイト経験が多少あるくらいの、20歳そこそこの小娘に、その現場がどれだけ苦しかったか、なんて、言うまでもなく、分かりきっていて。多分、その環境で、私は自然と、この環境を乗り切る術を、身に着けて。精神を病んだとか、体を壊したとかで、同期もどんどん減っていって、絶対に私はそっち側にはならない、こんなところで負けるものか、───と、そう思ったから。いつの間にか、私は、今の私になっていたのだ。

『───、お疲れ様』

 只、そうして私が擦り切れていく、新しい私に焼き直されていく日々の中で、───観音坂くんだけが、私を繋ぎ止めてくれていた。───私は嫌な奴、性格が悪くて、打算的で、契約を取るためなら、多少の嘘なら方便だと思っていて、仕事の為なら仕方ないと言い訳しながら、自分を護る為に、そういう人間になった。───でも、本当に、取り返しの付かないほど、最低な人間になった訳ではなくて、ギリギリの所で、心の柔らかい部分は残っていたのだなあ、と今は思う。
 それが、残っていたのは、観音坂くんのお陰だ。
 私が、私で踏み留まれたのは、彼が隣に居てくれたから。
 ───本当に、それだけのこと、だったのだ、なあ。なのに私、いつからか、観音坂くんの前でも、完璧であろうとして、必死に繕って、───それじゃ、壊れるわけだよ、って。そんなことにも、自力では気付けないくらいに、一人で追い詰められて。───一人で思い詰めないで、って。あんなにも繰り返して、観音坂くんに、言い聞かせようとしてきた言葉、なのに。私がそれを、一番出来ていなかったのだから、とんだお笑い草だ、と思う。

 ───だから、観音坂くん、私ね、分かったの。
 やっぱり私には、観音坂くんが必要なんだ、って。

 同期として、只隣に居てくれたあなたが、明日も笑って、私の隣にいてくれないと、私は、───独りでは歩くことも出来なかった、みたいなの。



『おつかれさまです。電話、取れなくてごめんね。病院から戻って、すぐ寝ちゃってて…その後、熱も下がったので、大分落ち着きました。それで、ちょっと話したいことがあって。観音坂くんの都合の良い時で良いから、電話してもいいですか? 

 ───銃兎さんのシャツを、乾燥機から取り出して、アイロンを掛けて。それから、彼が軽く身支度を整え、私の自宅を出て、まっすぐ仕事に向かって、───そうして、私は銃兎さんを見送った後で、───また少し、横になって考えて、薬の効果か、2、3時間ほど眠って、目を覚ましてから、熱い紅茶を飲んで、また考えて。───電話、してもいいのかな、って悩んだけれど、今日、本来なら普通に平日で、つまり観音坂くんは仕事中、な訳で。───考えあぐねて、結局は、電話じゃなくて、メッセージを一通、送った。今なら、私は自由が利くし、彼の都合が良いときにでも、折返し連絡を貰えたら、電話、かけようかな、って。

「───え、わ、え?」

 ───そう、思ったのだけれど。
メッセージを送信して、一分も経たない内に、即座に私の端末が、着信を知らせようと鳴り響く。───ディスプレイには、観音坂独歩、の文字。

「は、はい……? 、です」
「あ、良かった。観音坂です。おつかれ、今平気か?」
「う、うん。おつかれさま、私は平気だけど、観音坂くん、今仕事中じゃないの?」
「ああ……今丁度、次の取引先に向かうまでの空き時間で、この隙に、昼も済ませようと思ってたところだから、俺は大丈夫。……で、、話したいこと、あるって……」
「あ、うん、その……ええと、今、時間どのくらい平気?」
「ああ、10分、15分くらいなら……足りないか?」
「え、う、ううん、全然、へいき、だけど……」

 ───そう、全然平気でしょ。だって、観音坂くんに話したいことって、───もう、ひとつだけだもん。

「えっと、その……」

 ───私はあなたが好きです、って。そう伝える、だけだ。もう、そうしなきゃ私は、元には戻れないし、前にも進めない。その結果どうなるかは、分からないし、振られてしまったら、休み明け、どんな顔で出社するつもり? という葛藤も、捨てきれないけれど。銃兎さんに、あんなに色々助けてもらって、最悪の場合は、全部捨てて、ヨコハマに来ればいいじゃないですか、なんて言葉まで言わせてしまって、───それで、また逃げるのは、違うと思った。───でも、それでも、上手く言葉が出てこなくて。私、もう、嘘吐いたままじゃ、息が出来ないのに。はっきりと、言わないと。白黒、付けないと。───多分、このままでは、私自身がもう、どうにも、ならない。

「───なあ、
「は、はい!?」
「……悪い」
「え!? な、何が!?」

 なんと言えば良いのだろう、どう、切り出すのが、正解なのだろう、と。そうやって、考えあぐねて、ひとりで混乱して。言葉に詰まっていたら、不意に観音坂くんが、謝罪を呟くものだから。───さあっ、と、血の気が、引いた。───正直、勿論、断られる可能性は、覚悟しているし、───やっぱり、駄目じゃないかな? という気持ちが強くて、只、それでも、私には彼が必要だったから、どっち付かずの間柄でも、このままフェードアウトしていく関係でも、私が潰れてしまいそう、だったから、答えを、出さないと。そうじゃないと、もう駄目だ、って。それだけのこと、だけれど。───あ、やっぱり、断られる? 何も言う前から、私の様子がおかしいから、勘付かれた? ───私に、好きって、言われるのですら、観音坂くんにとっては、迷惑、だったのかな……?

「直接、会って話さないか?」
「……え?」
「その、声が聞ければ安心できると、思ったんだが……すまん、電話で話してると、どんどん気になって……ちゃんと、顔を見て話したい。何か、大事な話なんだろ……? 電話じゃ言いづらいみたいだし、って、いや、そうじゃなくて、……これは、俺の都合、俺の言い訳だな……」
「か、観音坂くん?」
「その……会いたいんだ、俺が、に。倒れたって聞いた時、本当にゾッとした……何かあったら、って……急いで外回り終わらせて、病院に向かったんだが、……のことで頭いっぱいで、取引先でミスして、それで遅れてさ……情けないよな、ほんとすまん」

 電話越しに聞こえる、耳障りのいい、落ち着いた声が、少しだけ、焦りを孕んで、熱を持っている気がした。───どんな顔で、観音坂くんは、今、スピーカーの向こうにいるのだろう。彼の声に、ごそ、と小さなノイズが混じって、ああ、今のは前髪を、かき上げたのかな、と思って、じわ、と耳の中が、熱くなる。───会いたい、本当に? 私も、会いたいよ。だって、こんなにも、声を聞いているだけで、彼の表情が目に浮かんで、吐き出す吐息一つで、胸が苦しくて、仕方がないのに。

「そう、だったの……」
「ああ。……入間さんが来たって、聞いた。だから、俺なんか、お呼びじゃなかったかもしれないけど……」
「っ、そんなことない!」
「!」
「……わ、たしは、観音坂くんが、心配してくれて、嬉しいよ……あの後、来てくれたなんて思わなくて、ごめんね、帰っちゃって……」
「え、そんなの気にするなよ。の体調が一番だし……で、さ。そんなこと言った手前、出てこい、っていうのは気が引けるんだが……その、休暇が終わってから、とかでも……ああ、いや、でも……うう、中王区って、申請さえ通れば入れるには入れるんだよな? 申請、出して、それで俺が、会いに行けば……」
「……申請、多分すぐには通らないよ。私的な面会では有事扱いにならないから、却下される可能性のほうが、高いと思う……」
「ああ、そうなのか……あー、だとやっぱり……」

 ───実際、一度、外で倒れているし、一週間の自宅療養、なんて大きな話にも、なってしまったのだけれど。そんなに、いつでもどこでも倒れる、なんて状態では、ないし。外出が困難、というレベルでは、ないし。

「……観音坂くん、明日仕事?」
「いや、明日は休みだ、だから、明日にでも、と思ったんだが……」
「そっか、じゃあ、私が会いに行くよ」
「え!? で、でも、だ、大丈夫なのか? また倒れたり、したら……」
「ううん、電車の混雑時間とか避ければ、平気だと思う。だから、明日の昼とか……」

 ───そう、言い掛けて、───あ、私、また、観音坂くんの前で格好つけてる、強がってる、と気付いた。咄嗟にそう言ったものの、───明日でいいの? ほんとうに? ───今夜、明日のことで思い悩んで、また潰れて、泣いて、苦しむ羽目になるんじゃないの? ───本当は、今すぐにでも、話がしたかったから、連絡したんじゃないの? それで、観音坂くんはすぐに連絡してくれたのに、肝心の私が、上手く話せなくて埒が明かないから、って、───勝手にひとりで、負い目を感じて、だからって、また、気を使った気になって、満足している、って。それだけ、なんじゃないの?

「───ごめん、今のなし。観音坂くん、今日、仕事何時くらいに上がれそう?」
「え? あ、ああ、外回り終わったら、会社に戻って、事務仕事して、早けりゃ三時間くらい残業したら、上がれるかな……」
「そっか。だったらさ、その、私、待ってるから。夜、会えないかな……?」
「は!? で、でも昨日の今日だぞ!? いや、明日も大差ないかもしれんが、それに、待ってるって言ったって……」
「うん、会社の近くだと流石に、あれだけど……でも、寂雷先生には、心因性のものが大きいから、気分転換に出掛けられるなら外出てもいい、って言われてるし」
「そう、なのか……? 先生がそう仰るなら……大丈夫、なのか……?」
「うん、会社の人と鉢合わせたら流石に気まずいけど、……観音坂くんは、特別だから」
「……そう、か。特別、か……」
「……うん。だから、今夜、会社の反対側の、飲み屋のね、前に、二人で何回か行ったとこ」
「……ああ、あの店な。確かに、あそこは個室も多いし、金曜の夜でも、今から電話しとけば座れそうだな」
「うん。21時にとりあえず、予約しておくから。急がないで、仕事終わったら来てくれたら大丈夫だからね? 個室で座ってる分には、私も体調とか、気にしないで済むし……」
「分かった。なるべく早く終わらせるよ」
「うん、じゃあ、観音坂くんの名前で予約しておくね。その方が入るとき、分かりやすいでしょ?」
「ああ、助かる。……じゃあ、今夜な」
「うん、今夜」
「また、な。体調、悪くなったりしたら、遠慮せずに言ってくれ。シンジュク以外でも、中王区の近くでも、場所変更あれば、俺がそっちに行くし」
「うん、わかった。じゃあ、また夜に」
「うん。……また後で、な」
「また、ね」


 ───それから、昨日の反省を踏まえて、明るい時間にシャワーを浴びて、髪を乾かし、少し横になって。夕飯、何時になるか、わからないからなあ、と思いながら、夕方、銃兎さんが昨日、買ってきておいてくれたパンを、ひとつだけ食べて、それから、身支度を始めた。一応、病人だし、観音坂くんは今日も普通に仕事だったんだし、派手な格好は、悪いし、変かなあ、とも思ったけれど、───以前、観音坂くんと休日に出掛けたときに、彼が似合うと言ってくれて、購入した、ピーコック・グリーンの、お気に入りのワンピースを着て、クリスマスに、彼に貰ったパレットでメイクをして、正直、私の趣味ではないけれど、数年前に彼が贈ってくれたから、ずっと大切にしている、オープンハートのネックレスを付けて、仕事の時は高めのハイヒールだけど、彼に合わせて、ローヒールのパンプスを選んで、───って。もう、露骨すぎるくらいに露骨な格好、こんなの、今まで一度も出来なかったこと、だけれど。
 ───ずっと、思ってた。こんな風に、彼を意識したお洒落をして、隣に立って、───それで、観音坂くんに、可愛いって、思ってもらえたなら、どんなにいいだろう、って。

『……はは、かわい、……』

 ───観音坂くん、時々、ぽろっと溢れたみたいに、わたしのこと、、って呼ぶの。本人が全然、気付いていないみたいだから、只の一度も指摘したこと、無かったけれど。───もしかして、私の居ないところでは、普段から、私を名前で呼んでいるのかなあ? と、そう思う節が、いくつかあって。それならそうで、私の前でも、そうしてくれたらいいのに、───そうしたら、私だって、独歩くん、って。そう、堂々と、名前で呼べるのに、と。───そんなことですら、思い続けるだけで、言えなくて、この六年間、ろくに行動には移せなかった、私だけれど。

 ───正直、ちゃんと言えるかどうか、は。
 何度考えても、あんまり、自信がない。

「───あ、お忙しい所失礼します。今夜21時に予約をお願いしたいのですが、はい、大丈夫ですか? はい、二名で、座敷の、個室でお願いしたいのですが、はい……」

 でもね、ちゃんと伝えなきゃ駄目だって思ったの。後戻りが出来ないところまで、来てしまったから。それなら、本当に退路を自分で叩き壊してでも、前に進むしかない。それが、私の作り上げてきた、で、───そんな、は、観音坂くんが隣に居てくれないと、成り立たないのだと、よく分かったから。この一世一代には、自分の持てる全力で、挑むしかないと、そう決めたのだ。

「───はい、では二名で、はい。名前は、ええと、───観音坂、です」

 例えば、あなたの名前を名乗った、こんな小さなことでも、私はずっと、どきどきして、心臓が、押し潰されそうに、きゅうきゅうと泣いているのだということを。───ほんの少しでも、あなたに、知っていてほしい。もしも、駄目だったとしても、私の恋を、他でもないあなたに、知って貰えたというその事実だけでも。───私は、きっと、また、歩いていける筈だから。 inserted by FC2 system


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