ふやけるまでが夜だから

 外回りから、会社に戻ってきたのが18時過ぎで、其処から、事務仕事やら、休み明けに必要な資料を作ったりだとか、突然休暇になった、の担当案件の引き継ぎとか。そういったものを片付けて、あっという間に20時過ぎ。───ああ、やばい、もう1時間しか、約束の時間まで残っていない。

 ───が、突然、先生の病院で倒れて、ドクターストップで、そのまま一週間の出勤停止になって、───ウチの会社にとって、大口の契約先の医師であり、その上、相手はあのイルドックともなれば、まあ、会社としても受け入れざるを得ない、というのもある、けれど。───何より、は、うちの課でかなり重宝されてて、信頼されている社員だから。此処で無理をさせて、このまま居なくなられたら、会社としては、大損害な訳だ。───多分、此処までは、自身、分かっていると思うの、だが。此処から先は、彼女には、自覚のない話、じゃないかと思う。
 ───俺は、ウチの会社の連中のこと、ハッキリ言って、あんまり好きじゃない。ハゲ課長を始めとして、パワハラクソ上司や、カスの先輩共になんか、大した思い入れもないし、後輩達のことも、なかなか辞めずに頑張ってる子達に関しては、このまま頑張ってほしいな、とは思っているが、まあ、その程度で、同期、とか、同僚、だとかになってくると、そもそも、本当に必要最低限のやり取りしかしてない相手のほうが多い。

 だが、は、そうじゃない。
 彼女は、なんだかんだといいながらも、この課の人間に、ちゃんと好かれて、信用されている。

 ───彼女にとっては、表面上、業務上、最低限の円滑なコミュニケーションを図る為、それだけのやり取りや気遣いで、心なんて籠もっちゃいないのだと、は、そう言うけど。営業職、っていう、心の冷え切った人間の集まりの中で、同業者である会社の人間に、そんな内心を看破されない訳が、無いのだ。───だったら、何故、は、その上辺だけで、連中の信用を勝ち取っているのか、と言えば。───結局、それは上辺なんかじゃないからだ、と。その結論に至る、訳で。

『───私は、良い人なんかじゃないよ』

 ───多分、自覚ないんだろうな。繰り返し、そう唱えて、自分に言い聞かせるように、そう、主張する彼女はきっと。───俺にとっては、入社直後の研修の時期から、ずっと、一貫して、優しくて、思いやりがあって、お人好し、という印象のまま、なのだが。
 仕事を続けていく中で、彼女は強くなった。多分、そうしないと、立っていられなかったのだと思う。でも、そうして強がりながらも、俺の前では、ふにゃ、と柔らかい笑顔で、変わらずに笑ってくれるのことが、俺は好きだったのだ。

「観音坂くん、ちょっといいかね」
「へっ? あ、はい、なんでしょうか、ハ、……課長……」
くん、大丈夫そうかね?」
「へ、」
「私も、業務連絡程度には伝え聞いたが、やはり心配でね。とは言え、会社の人間からあまり連絡を入れては、具合の悪いときに、負担になるだろう。だが、きみなら、連絡を取り合っているんじゃないのかね」
「あ、はい……一応、大分落ち着いたみたいです。昼間、少し電話で話しましたが、思ったより元気そうでした。勿論、今日明日の業務復帰は、難しそうですが……」
「ああ、そうか……。それなら良かった、宜しく伝えておいてくれるかね、くれぐれも無理はしないように、と。くんに抜けられては、此方も支障が出る。しっかり治して、復帰してもらった方が、後々安心できるからね……」
「はは、そうですね……伝えておきます」

 ───、やっぱりお前、すごいよ。の力になりたくて、少しでも追いつきたくて、最近、俺だって頑張ってるけどさ、こんな風に、信用なんて簡単に勝ち取れやしない。職場の人間からも、取引先の人、───例えば、先生だって、そうだし、───それに、あの入間さん、あの人だってかなり、気難しそう、というか、風変わり、というか……とにかく、厄介な人、なのにさ。───は、好かれてるんだもん、な。それって、が長年掛けて、積み上げてきた信頼で、実績だろ。が、現場に穴を開けて、すぐに、直属の上司が、の抱えてた案件を、引き継いでやっておく、って、そう、申し出ててさ、ああ、やっぱり、信用されてるんだ、周りに好かれてるんだ、って思った。だって、の仕事ぶりを信じてて、の代わりになら、自分が負担を肩代わりしてもいい、って、そう、周りが思ってる、ってことだろ、それ。
 ───だから、今までずっと、は俺には高嶺の花だ、手が届かないし、振り向いてもらえる筈がないんだ、彼女が俺に良くしてくれるのは、俺が駄目な奴だから、世話してくれてるだけで、彼女のことを好きな奴なんか、いくらでもいて、って、───そう、思ってたけど、今は違う。

 だってさ、───だったら、それが何だよ!?

 みんなに好かれてる、彼女を好きな奴なんか、他にも居るに決まってる? ああ、そうだよ、その通りだよ! 俺なんか眼中にねえ、と言いたげな、強敵まで出てくるしさあ! ───でも、本当に、そんなの、当たり前なんだよ、な。が、気付いてないだけで、さ。周りはみんな、仕事が出来るだけのエース様が好きなんじゃなくて、仕事が出来て人柄も信頼できる、が好きなんだよ。───だから、、本当はかなり無理してたんだな、って。みんな、ショックで、心配してて、彼女のために出来ることを探してて、さ。───俺、の引き継ぎ、申し出たんだ。滅多に自分から意見なんかしないから、みんな、騒然としてたよ、はは。───でも、頑張れ、って言われた。の受け持ってた案件なんだから、厄介な客も多いし、下手な仕事したら、追々、の責任、負担にだってなりかねないんだからな、って。そう、脅かされてさ。

「───でも、観音坂は、に相応しい男に、ならないとだもんな。頑張れよな」

 ───そう、言われたよ、お前の上司に。

「───はい」

 その通りだな、って思った。逃げたって何も変わらない、逃避行動は、明日の俺の首を絞めるだけ。明日、笑顔で見送れる自信がないなら、此処で、踏ん張るしか無い、だろ。

 ───だから、今日も。
 引き継いだ案件の分まで片付けて、事務仕事も増えて、ばたばたしてたら、もう、こんな時間だった。の受け持ちの分は終わったし、俺のも、まあ、大体は、粗方、形になったから……ああ、もう、これ、持ち帰ったほうが早いな。を待たせたくないし、今週は、なんと珍しく、土日両日ともに休みだ。───それも、急な呼び出しがなければ、では、あるが……、まあ、その時はその時で、出社して仕上げればいい。どの道、期日は週明けなんだし。

 そう思って、20時半を過ぎた頃に、いそいそと帰り支度を整えて、オフィスを抜け出し、約束の店に向かう。いつもなら、こんな時間に抜けようものなら、冷たい視線を感じたりするもの、だが、───の件があったから、それで早く出たのだろう、と。ある程度、周りも察してくれているので、特に何も言われなかった。約束の店は、駅を挟んで反対側だが、まあ、急げば間に合うな、と。気持ち早歩きで、競歩気味に。健脚も、サラリーマンの必須技能のうちだしな、なんて思いながら、足早に店に向かった。

 ───話したいことがある、と。
 そう、切り出してきたのは、彼女の方だが。───一体、何の話、だろうか。やっぱり、なにか悩んでいるみたいだし、その相談か? 俺で力に、なれるといいけど。一緒に悩んで、考えることは出来るから、ともかく、話して、聞いてみようと思っている。───でも、それより、何より、要件はともかく、───俺は単純に、に会えるのが、嬉しかった。会いたいんだ、って。素直にそう言ったら、会って貰えることになって、───そもそも、こうして、わざわざ外で、二人で会おう、なんていうのが、随分久方ぶりだった、し。……ずっと、俺からの誘いは、断られていた、から。こんなときに、よくないよな、不謹慎だよな、とは思いつつ、───俺は、内心、何処かで、滅茶苦茶に浮かれていたし、───ずっと、上手く行っていなかったけど、にちゃんと、男として見て貰いたい、って、確かに、そう思ってたから、───これは、もしかしたら今日は、ある種のチャンスなのか? なんて考えも、脳裏をちらついていて。いや、勿論、突然そんなこと言っても、俺に何が言える、何が出来るんだ? って感じなんだけど、さ。

「───あの、すみません。21時から予約してました、観音坂です」
「はい、観音坂様ですね、どうぞ、お連れ様が個室でお待ちです」
「あ、はい……」

 俺の名前で予約しておく、とは言われたけど、いざ店について、レジ付近で店員に声を掛けたら、あっさり通されて、───、本当に俺の名前で、予約したんだな……。ってことは、その、……観音坂です、って、名乗ったんだよな……? が、電話で……、うわ、なんかそれ、滅茶苦茶イイな……。

「───、お疲れ様」

 こんな、些細なことでもさあ、俺は滅茶苦茶どきどきしてて、───ああ、これが、も同じだったら、どんなにいいことだろう、って。そう、思うんだよな……。

「───え、観音坂くん!? お、おつかれさま。は、早いね……!?」
「あ、ああ。仕事、急いで片付けてきたんだ、けど……」

 案内された個室の引き戸を開けて、───多分、はまだ、ついさっき来たところ、という感じで、それは、安心、したん、だ、が……。

「───あの、ええ、と……」
「な、なんでしょうか……」
「……今日は随分、めかしこんでるんだな……?」
「え、あ、へ、変かな!? 病人の癖に、可笑しいよね、あはは、変だよね……」
「は!? いや、変なんて言ってないぞ!? いや、その、……ちょっと、驚いて……」

 ───深い緑色のワンピースには、見覚えがある。大分前に、二人で出掛けたときに、が試着してた、やつだ。に、滅茶苦茶似合ってて、俺が必死でそう伝えたら、は、ちょっとだけ、照れくさそうに笑って、それがまた、可愛くて……早く着てるところ、見たいな、と思ってたけど、会社に着てくるような、服じゃないし、それ以降、仕事が忙しかったり、まあ、最近は、すれ違いが多かったから、だけど、───と、休日に会うことも、無かったから。全然、そんな機会もなくて、拝めず仕舞いだったやつ、だし、ネックレスも、昔、俺が贈ったやつだし、多分、だけど、───俺、あんまりそういうの詳しくないから、間違ってたら、糠喜びにも、思い上がりにも、程があるんだけど……。

「───それ、目のとこの化粧、俺があげたやつ、か?」
「! え、すごい、なんでわかったの!?」
「い、いや、……に似合うやつ、かなり真剣に選んだから、さ……見覚えある色だと思って……ワンピースも、前に買ってたやつだよな?」
「う、うん。そう、なの……」
「だよな? やっぱり、似合ってる。やっと、着てるところ、見れたな」
「そ、そっか。気付いてくれて嬉しい、ありがと……」

 ───ええ、なんだ? 滅茶苦茶可愛いんだが、え? なんで? 今日って、の相談で? 多分仕事のこととか、悩みがあって、それで会うことになったん、だよな? あ、あれか? 先生からも息抜きが必要、って言われた、って聞いたし、それで? ちょっとお洒落して、買い物かなんかしてきた後、とか? そ、そういうことか?

「えーと、今日はここに来る前、何処か行ってたのか?」
「え? ううん、まっすぐ、此処に来たよ?」
「あ、そ、そうなんだ!?」
「う、うん……そう、だけど……?」

 ───えっ、じゃあ、俺と会うから? こんな、めかし込んで来た、のか……? いや、そうやってお洒落とか、すること自体が気分転換、とか、そういう、こと、かもしれない、けど……いや、でも……。

「あー、あの、先に謝っておくな。気を悪くしたら悪い」
「え、う、うん?」
「……滅茶苦茶可愛い、今日……いや、はいつも可愛いぞ? そうなんだけど、特別可愛いっていうか……」
「え!? あ、あの、……ほ、ほんとに?」
「う、うん……。顔色も、良いし、なんか、安心したよ……可愛いし……」
「そ、そっか……そ、それなら、よかった……」
「ああ……」
「あの、今日ね、」
「う、うん?」
「……観音坂くんに会うから、お洒落、してきました……」
「……へっ!?」

 ───一瞬で、頭が混乱、した。

 ───いや、なんだそれ?
 だって、そんなの、───勘違いしてくれって、思い上がってくれって、そう言ってるようなもの、じゃないのか?

「───あの、観音坂くん、……私ね、観音坂くんに、話したいことが」
「───あ、あの、まず注文しよう、な?」
「……あ、あ、そ、そうだよね!? ご、ごめん、私ってば……」
「いや、大丈夫だから……とりあえず、何飲む?」
「……うーんと、私はまだ、お酒はやめておこうかな……ジャスミン茶がいいかな」
「じゃあ、俺は烏龍茶にする」
「え? なんで? 観音坂くんは飲んでいいよ? 気使わなくていいし、せっかく明日休みなんだから……」
「……いや。今日は、と話すために、来たから」
「う、うん?」
「……だったら、酔っ払ってられないだろ」
「……そ、っか」

 動揺して、思わず、遮った言葉も、───俺から、重ねた言葉で、結局、奇妙な雰囲気を払拭することは、叶わずに。別に、言葉を止めたかったわけじゃないんだ、そもそも、どんな内容だろうと、今日は、の話を聞く為に、来てるんだし。───でも、あの流れで、言おうとしたことって、なんだろう。───もしも、俺が言いたいことと、一緒だったら、って。正直、少し思ってしまった。だって、あんなの、思わせぶりにも程がある、だろ。何の意味もなく、そんなことする奴じゃないって、よく知ってるから、───つい、半年前くらいの俺なら、俺の都合に良いように、解釈していたかも知れない。
 ───でも、今は、どうしても、脳裏をちらつく顔があって。
 綺麗にめかしこんだ姿、こんなに近くで見たのは、久々、いや、下手したら初めてかも知れない、が。───見たんだよな、つい最近も。遠目から、だけど。───入間さんの隣で、あの人に手を握られて、笑ってる姿を、さ。

 飲み物と一緒に、注文した料理の、前菜とかつまみ系のものが、いくつか運ばれてきて、が頼んだ料理はどれも、あっさりめのものばかりだったし、いつもよく言ってくる、観音坂くんこれ食べられる? の半分このお誘いも、なかったし、やっぱりまだ、本調子じゃないんだな、と心配にもなって。ちゃんと食べられてるのか、じっ、と見ていて、───そこで、ふと、気付いてしまって。

「───そういえば、なんか珍しいな、ジャスミン茶なんて」
「───ああ、そういえば、そうかも?」
、紅茶派じゃなかったっけ、アイスティーとか、なかったのか?」
「ううん、あったんだけど、最近、中華食べる機会多くてね、それでちょっと、気に入ってるの」
「へ? 中華? 何か、会社の近くに店でも出来たのか? 俺は、気付かなかったけど……」
「そうじゃなくてね、ヨコハマの……」

 ───ぴしり、と。その瞬間、空気が凍った、ような気がした。

「───へえ、ヨコハマか……そっか、最近よく行くんだ?」
「う、うん……割と、行く、かな……」
「そうなんだ、……入間さんと、仲良いんだな?」

 馬鹿、やめろ、と。───そう、脳内で、線路の踏切、信号機の音が、けたたましく鳴っていた。それを聞いて何になる、そんな話をしに来た訳じゃないだろ、───それはもう、百も承知で、それでも、諦めてたまるかよ、って。そう、決めたはずだろ、何言ってんだ、俺。何言ってんだ!? おい! 止まれよ! そんなこと、言うな! 聞くなよ!

「……うん、そうだね」
「そ、うなんだ……」
「……銃兎さん、こまめに連絡くれて、会いに来てくれるし、予定合わせて、ドライブとか、誘ってくれてね……。それで、お世話にもなってるから、最近よく会ってた、けど……」
「……名前で、呼んでるんだ」
「呼んでって、言われたから……」
「……へえ、呼んでって言われたら、は、そうするんだ」

 ───自分でも、ぎょっとするくらいに。ゾッとする、冷たい声だった。胃袋から、食道を逆流するように、氷の塊を吐き出したみたいに、ずるり、と滑り落ちた、冷たい声。───そうだよ、嫉妬、だよ。なんで入間さんばっかり、俺だって、俺だって、って。そんな気持ちを、───よりにもよって、こんな、弱っているときに、本人に、ぶつけてしまったことに、───はっ、と我に返って、慌てて顔を上げる。は、───ぽかん、と呆然とした、何を言われたのかわからないような、顔をして、きゅっ、と唇を結んで、小さく震えて、───信じられないくらいに、傷付いた顔を、していて。

「……なんで観音坂くんに、そんな言い方されなきゃいけないの?」
「なんで、って……」
「誰にでも簡単に、軽い女だな、って? そうだね、観音坂くんには特別、そう見えるのかもね」
「おい、落ち着けって……」

 泣きそうな顔で、は言葉を繋いで、───俺は、何を言えばいいか、分からなくなって。───どうして、こうなるんだよ、こんな筈じゃなかったのに、今日は、本当に久しぶりに、二人で会えるし、多分、相談事か何かで、少しでもが、俺に頼ってくれてるんだから、力になれるよう、頑張ろう、と思って。───もう、あんな風に、傷付けたり、誤魔化したりしない為にも、今日は酒だって飲まないし、それで、真剣に、話をして、───そして、それが、ちゃんと出来たら、俺は、

「……銃兎さん、私のこと好きなんだって」
「え、」
「───私、迷ってるの」
「迷ってる、って」
「観音坂くんは、どう思う?」

 ───俺は、今日、にちゃんと告白しよう、って。そう思って、此処に来たのに。───なんで、こんな話に、なってるん、だよ。

「どう、って……」
「銃兎さんのこと、どう思う?」
「そりゃ、……まあ、悪い人じゃない、よな、真面目じゃないけどエリートだし、公務員で安定してるし、ラップも上手いし、面倒見だって良いし……」
「そっか。……じゃあ、やっぱり、受けたほうがいいのかな」
「……え」
「銃兎さん、今回も病院に迎えに来てくれて、───それで、私の事心配して、もしも、今の状態がつらいなら、……ヨコハマに越してきたらどうか、って、そう、言ってくれてて……」
「───おい、それ、待てよ、なあ……」
「……観音坂くんは、私が銃兎さんの恋人になればいいと思う?」

 ───それ、もう、付き合うとかどうとか、そういう話じゃ、ないだろ、入間さんが、言ってるのは。───それ、俺に対する、勝利宣言だろ。───え、なんだよ、それ。話したいことって、もしかして、それだったのか? こんな、思わせぶり、なんて俺が思うほどに、綺麗に着飾った姿も、───もしかして、今日この後、入間さんに返事を伝えに行くから、だとか、そういう、こと、なのか?

「……ふざけんな」
「え? なに?」
「……ざっけんなよ! そんな訳ねーだろ! 誰があんな汚職野郎に、お前を持ってかれて、はいそうですかおめでとうございますお幸せに、なんて言えるかよ!? 誰が嬉しいんだよそんな話!?」
「え、ちょ、か、観音坂くん、」

 ───ぶつん、と。頭の中で、何かが切れる、音がする。だって、有り得ないだろ、無しだろ、そんなの。俺は確かに、惨めな奴だよ、だけど、そんな、───こんな終わり方って、そんなの、許されるのかよ……?

「なんでだよ、なんでそんなこと言うんだよ、お前、ほんっと、俺の気も知らないで……、」

 ───なんで、どうして、こんなに好きなのに、お前のこと信じてるのに、大切にしようって、頑張っても、全然足りないから、───やっぱり、俺じゃ駄目、なのか? 俺じゃ駄目だから、最後の最後に、期待したところを突き放して、突き落とす、って、そういう、ことなのか? ───あの人にそうしろ、って、そう、言われたのか? なあ?

「───なあ、入間さんが好きなのか? そりゃそうだよな、あの人完璧だし、俺じゃ男として敵わないよな知ってるんだ、知ってるけど、知ってるけど、でも、いやだ、俺は」
「か、観音坂くん、」
「……なあ、どうせ明日から、今までみたいに話せなくなるなら、どうせ、叶わないならさあ……」

 ───なあ、俺、このまま諦めたら、それでいいのかなあ。───きっと、その方が、お互いの為には良いんだろうな、俺はこれ以上、に嫌われずに済むし、で、嫌な思いをしないで済むし、───お互い、明日からも、何事もなかったことにして、変わらない顔で、生きていけるし。……でも、さあ。こんな、こんなのって、このまま、終わりになんて、……出来るわけねーよ。どんだけ、好きだと思ってんだよ、俺が、のこと、どれだけ、

「かんのんざか、くん……?」
「もう明日から、他の人の物になるなら、俺なんか、隣に居られなくなるならさあ……」
「ねぇ、ちょっと」
「もう、どうでもいい、からさ……いいよな?」
「え、なに、やだ、こ、こわいよ? ちょっと、観音坂くん、待……っ」

 ───ぐい、と力任せに、座敷の低いテーブルの上、向かい合わせに座ったの手首を掴んで、身を乗り出して。がちゃん、と音を立てて、グラスと食器が倒れて、俺のネクタイとワイシャツを汚したけど、そんなのもう、どうでも良くて。ぐるぐると、かき回された思考回路に、もうとっくに、俺の中の導火線は、バチバチと音を立てて、灰になって、ごうごうと、正気を焼べて、燃えていた。きっと、目は据わっていて、───そんな俺が、怖いのだろう、は、半分泣きそうな顔で、俺を見上げていて。

「……すきだよ、

 ───俺も、泣きそうだよ。絞り出した言葉は、多分、きっと、この場に、酷く不釣り合いで、陳腐で、格好悪くて、情けなくて、さ。

「……え?」
「俺の方が、ずっと前からすきだったのに……でも、当然だよな……俺、いつものこと、傷付けてばっかりで……」
「観音坂、くん……?」
「どうせ、もう一緒にいられなくて、友達にも戻れないならさあ、全部ぶちまけても同じだしさ……はは……今までごめんな、色々……」

 ───今日、告白しようと思ってたんだよ、確かに、そうなんだけど、───こんな形で、なんてつもりじゃ、無かったよ。でも、もう俺が何を伝えたって、ああ、やっぱり駄目なんだな、諦めるしか無いんだな、無かったことに、するしかないんだ───と、そう、物分りが良い振りなんて、全然、出来そうにない。……もう、良いよ。全部、駄目なら、もう、全部、滅茶苦茶になればいい。ここで、傷が大きくなればなるほど、俺の明日が、悲惨になればなるほど、───俺は、のこと、ずっと覚えていられるから。だったら、もう、いっそ、古傷になんて出来ないくらいに、傷付きたいよ。

が、ヨコハマに行くなら、俺は極力、ヨコハマに行かないように善処する、もし、そうじゃなければ……俺、会社辞めるよ、もうお前に付き纏わない、お前の幸せ邪魔しないから、だから……」

 ───だから、なんなんだろう? なんだって、言うのだろうか。だから、だから、───嫌いにならないでくれ、かな。それだってもう、むりだよな。好きになってもらうどころか、もう、これじゃ……、

「……あのさあ、勝手に自己完結しないでくれる!?」
「……は?」
「そりゃ、私だって人のこと言えないよ!? でも、観音坂くん、ほんっと、そういうところだから!」
「な、何だよ……?」

 ───掴んだ、細い手首を、力無く、手放そうとして。――逆に、ぎゅっ、と強く、手を掴まれた。───の細い指で、握り込むように包まれた手が、───ひどく、温かくて、ああ、やっぱり、無理してるんだ、まだ、少し熱があるんだろ、なのに、こんなところに来て、とか、そんな状態の彼女に向かって、俺は何を、とか、妙に冷静に、頭の何処かで、分析している。───だって、あまりにも、この状況には現実味が、無かった、から。

「……観音坂くん、わたしのこと、すき、なの?」
「……うん、ずっと、昔から……好き、だよ」
「私、そんなの聞いてないよ……」
「……うん、だって、俺じゃ釣り合わないだろ……ずっと、言えなかった」
「……私だって、そう思ってたよ」
「……?」
「……私じゃ、駄目なのかなあ? 同期でしか、友達にしか、なれないのかなあ? って、ずっと、そう、思ってた……私が好きなのは、独歩くんだよ……」
「……は?」

 ――今、、は。───なんて、言ったんだ?

「独歩くん、全然、その気無さそうなんだもん、私ばっかり好きなんだと思ってたから、ずっと……」
「え、な、───そ、そんな訳ないだろ!? 俺は入社2年目から、ずっとを好きだったんだぞ!?」
「私だって、2年目から好きだったよ!」

 ───なんだよ、それ。そんなの、初耳だよ、いや、だって、それは同じなんだろうけど、いや、え、でも、ほんとに? ───が、ほんとに? 俺のこと、すき、なのか?

「な、なんで……」
「なんでってなによ!?」
「え、ま、い、痛い! 痛いって、!」
「好きじゃなかったら、こんなに一緒にいる訳ないじゃん!? ばかなの、独歩くん!?」
「いや、だって、同期のよしみで構ってくれてるのかと、思うだろ……!?」
「同期のよしみでホテルなんか行かないよ!」
「だっ、あ、あれこそ成り行きで!」
「ラブホだよ!? その気ない訳ないじゃん! 馬鹿なの!?」
「いや、だってあのときは、俺が酔って無理矢理!」
「そんな訳ないじゃん! 私、本気で抵抗してなかったでしょ!? 覚えてないの!?」

 ───暗黙の了解、みたいな雰囲気になってさ、あの夜のこと、口に出したらいけないような、改めて、反芻したりするのも、に失礼だと思ったし、いや正直、何度も何度も思い出してるよ、滅茶苦茶覚えてるよ、いや、でも、でもさあ!?

「……覚えてるよ! 覚えてるけど、俺の都合の良い幻覚かと、」
「……ハァー!? 人の裸見といて幻覚!? さいてー! ばか!」
「───ッ、そうだよ! 俺は最低なんだよ! だからあのとき、頭真っ白で、俺はお前に嫌われたら、もう生きていけないのに……!」
「嫌いになる訳ないでしょ!? ……だって、嫌いになれないから、ずっと苦しかったん、だよ……」

 ───あの日、俺が選択を誤ったのは、まあ、分かり切っている。分かり切ってた、ん、だけど、さ。───間違えたのは、と俺が、男女の関係を持ったこと、それ自体、ということに、なってしまっていた、けど。……俺が後悔してたのは、本当は、翌朝のこと、だよ。あのとき、訳が分からなくなって、平謝りして、は何もなかった、って、水に流してくれたけど。───本当にあのとき、は、平気だったのか? って、───それで、最近、分かったんだよ。平気なはず無いんだ、絶対に、傷付けたはずで、俺は何か他に、言うべき言葉も、言いたい言葉も、あったはずなんだ、って。

「……あ、その、」
「……独歩くん、謝ってばっかりなんだもん……きっと、意味なんか無かったんだな、って、思うしか、ないじゃん……そこまで私に興味無いんだな、独歩くんにとっては、不慮の事故で、忘れたい事なんだろうな、って……」
「……ごめん」
「……また謝った……」
「う、今のは仕方ないだろ……」
「……だから、あの日も仕方ないだけだったのかなって、思ったの」
「……違うよ」
「……でも、わたし、そう思わなきゃ、もう、むりだったんだよ……」

 ぎゅうっと握られた手は、あつくて。指の先から、髪の先まで、ふるふるとちいさく震えて、綺麗に伸びたまつげは、涙で濡れて、ぽたぽたと、俺の指先に零れ落ちるしずくには、化粧が溶けて、水滴がきらきらと、輝いていた。俺はそれを、静かに見つめてから、視線を上げて、もう一度、の目を、まっすぐに見つめて、───彼女の瞳に、しっかりと俺だけが映り込んでいることに、酷く、安堵を覚えながら。きゅっ、と。華奢な両手を包み込むように、───手を、握り直して。

「……それで、入間さんと?」
「……だって、独歩くんは、私に興味ないし」
「……ごめん、めっちゃ興味ある」
「早く言ってよ……」
「すみません……」

 ───会話の内容は、さっきと、ずっと地続き、なんだけど。───滅茶苦茶、空気が穏やかで、心地よかった。ほわほわ、ふわふわ、って、胸の奥が、くすぐったくなるような。───ああ、そうだ、俺はずっと。と一緒だと、このあったかくて、やさしくて、少し切ない、気持ちになれるのが、───たまらなく、好きだった。

「……独歩くんが、私と友達のままでいたいなら、独歩くんのこと好きなの、やめなきゃって、他の人を好きにならなきゃ、って、思って……」
「……あー、その、提案よろしいですか」
「……はい」
「……俺のこと、もう少しだけ、好きでいてもらえませんか……?」

 ───いや、図々しい、よな。分かるよ。俺もびっくりしてる、俺って、こんなに図々しい奴だったのか? って。───でも、なんか、にそう聞いたなら、あっさりと、───知らなかったの? なんて、言われそうだとも思う。、俺より俺に詳しいし、───なのに、俺の気持ちは知らなかったの、か。今思えば、ちょっと、笑えるかもな、それって。

「……酷いこといっぱいしたよな、本当ごめん。だから、その、帳消しには出来なくても、頑張るから、信じて貰えるようにするから、せ、せめて、俺に少し猶予をだな、それでその、俺のこと、嫌じゃないと思って貰えたら、なんだが……」
「えっ、なにそれ!? いやです!」
「えっ!?」
「……なんで? まだ、これ以上、待たなきゃいけないの? どうして? 独歩くん、私のこと好きなんでしょ? 私も、独歩くんが好きなんだよ? 何がいけないの?」
「う……それはその、俺の、気持ちの問題というか、……いや、違うな、これも、俺が罪の意識から逃れたい、だけだよな……?」
「……あの、独歩くんが言おうとしてることがね、わたしの、思い込みじゃなければ、だけれど」
「……うん」
「私、断らないから、だから……ちゃんと言って?」
「……本当に? 駄目って、嫌だって言わないか?」
「言わないよ、なんでそんなこと言うの?」
「……分かった、言うぞ」
「うん」
「……
「……はい」

 ───夢、みたいだ。でも、夢じゃないんだよな。だって、緊張と動揺で、ちょっと汗ばんだ俺の手を、振り解くこともなく、は目の前で、じっ、と俺を見つめて、次の言葉を促している。絶対に断らないから、って、そう、念押しして、───ここで、俺達の関係に白黒付けようと、そう、彼女が言ってくれたから。───俺も、すんなりと、素直な気持ちを伝えられたのだ。

「俺と、結婚してくれ」
「はい……え、は、はい!?」
「だ、だめなのか……? 断らないって、言ったのに……」
「だ、だって、急に話飛躍してない!? け、けっこん、って、そんな、急に」
「……だって、そうでもしないと不安だろ……、可愛いし、それにさ、」
「? それに、って?」
「それにな、俺達、……今更恋人になって、それで、何するんだよ」
「え、それは、ご飯行ったりとか、休みに出掛けたりとか……?」
「今まで通りだろ、それ?」
「……今まで通り、だね?」
「な? 今まで、普通にそうしてきたけどさ……よく考えてみたら、そうだよな?」
「……そう、だね……。あの、でもさ、観音坂くんは、」
「独歩だろ。さっきまで呼べてたのに、なんで急に戻るんだよ」
「ど、独歩くんこそ……ああ、もう、それはいいや、……でも、でも。本当に、いいの?」
「何が?」
「……私で、本当にいいの?」

 ――今更、何を言うんだろう。でも、真剣なまなざしで、不安げに、俺を見上げるは、本気で、心配しているのだろう。───いつもいつも、は、こうだ。自分のことは二の次で、俺のことばかり、心配して、さ。

「……俺は、がいいよ。じゃなきゃ嫌だ。は、違うのか?」
「違わないよ……、私も、独歩くんがいいよ、独歩くんじゃなきゃ、嫌なの」
「うん、よかったぁ……」

 ───俺はさ、のそういうところが。
 本当に本当に、好きで堪らないんだよ。

「……あの、すみません」
「え?」
「は?」
「お料理、お持ち致しましたが……」

 ───ギュッ、と手を握りあって、見つめ合って、それ以前も、口論したり、───結構な大声で、騒いでいた、と思う。酒も入っていないし、店に入って、まだ、大して飲み食いもしていないのに、滅茶苦茶ヒートアップしてた、よな。───此処、個室だけど。完全に仕切られたわけじゃない、所詮は居酒屋、だから。───あ、全部、聞こえてたな? と。いつのまにか、不自然なほどに、周囲が静まり返っていて、俺達の居た部屋の引き戸を開けた店員が、───心底、申し訳なさそうな顔で運んだ料理は、とっくに冷めきっていて。

「───
「……はい、独歩くん」
「店、出るか」
「うん……そう、だね……」

 ───絶対これ、他の客にも聞かれただろ、大喧嘩からの公開プロポーズだよこれ、ラブホがどう、とか言う話も、全部、大声で話してたもんな!? 馬鹿か!? ああ、もう、二度とこの店来れないな、と。と、素早いアイコンタクトで、店を出る支度をして、迷惑料として、多めに会計を置いてきて、───それから。

「───なあ、この後どうする? 店、変えるか?」
「うん……、でも、花金だよ? 座れるお店あるかな……」

 ───眠らない街、シンジュク。見慣れたこの街の、ネオンの灯り、雑踏の騒がしい通り道を、何度も何度も、何年も何年も、二人で歩いて、生きてきたけれど。俺達、年甲斐もないこと、してるかな、って。小さく笑って、手を絡めて歩く、初めてのこの夜は、───どうしようもなく、特別で。

「あー……、でもさ、さっきの話、もうちょっと詳しく、しておきたいよな……? 俺は、もう少し話したいんだけど……」
「あ、う、うん! 私もそれは、そう思う!」
「だったら、……これから、俺んち、来るか?」
「いいの? あれ、今日、一二三くんは?」
「あー、多分、今日はシフト休みだったような……」
「じゃあ、飲み物とか買って帰ろうよ、一二三くんの分も」
「そうだな……あ、あれだ、あと、ゼクシィ、だっけ? いるよな?」
「え!? あー……うん、要る気がする。私も、初めてだし、よくわかんないけど……? 多分、いるのかな……? 資料みたいなものだよね? 多分……」
「だ、だよな!? 資料いるよな!? よし、じゃあ、コンビニ寄って、酒とゼクシィとつまみだな、買って帰るか!」
「う、うん! そうしよ!」
「……うん、じゃあ、帰ろうか、
「……はい、独歩くん」

 最後まで、ほんと、格好付かないし、締まらないし、情けない男だよな、なんて思いもするけど、───それで、が笑ってくれるなら、無理して格好付けても、仕方ないもんな。

、まだ、本調子じゃないだろ。転ぶなよ」
「さ、流石に転んだりしないよ! お酒だって飲んでないし!」
「いや、ごめん。今のは俺の言い訳だ。───歩こう、、ふたりでさ、手、繋いで。……な?」
「……うん」

 ───俺は独りでも歩けるし、多分、だって、その気になれば、そうなんだと思うんだ。でも、さあ。と出会って、俺には、ふたりで一緒に、隣に並んで、歩きたいひとが、出来たから。───どうか、末永く、にとっても、そんな存在であれたなら、どんなにいいだろう、───そんな相手で、在りたい、在り続けたいな、って。今の俺は、心からそう思うんだよ、な。 inserted by FC2 system


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