くずれていく神話

 宇宙船・六葉町が元の場所に戻ってきて、私が無事に地球に帰り着き、久々にお兄さまとトレモロくんとの再会を果たしたその日、──お兄さまは、すっかりと変わり果ててしまっていた。
 久々に再会できたことが嬉しくて、高揚感に包まれた私はお兄さまに抱きしめて欲しいとそう思って、彼に向かって伸ばしかけた腕は、されど、──つめたいつめたい瞳を前にしてびくりと強張ってしまい、……何事も無かったかのように手招きをして、お茶にしましょう、とふたりに声をかけるだけで私は精一杯だった。
 険しく眉を潜めるお兄さまの横顔には、最早優しかった面影は見当たらず、──私が六葉町ごと宇宙に行っている間に、地球ではこの騒動の事後処理で、MIK総帥としてお兄さまは多忙な日々を送っていたのだろうから、こんなにも消耗してしまったと、……きっと、あの日の厳しい表情はそういうことだったのだろう。
 お兄さまが苦しい日々を過ごしていた間に私はと言えば、──それは確かに、お兄さまやトレモロくんと離れて過ごす日々を悲しく思いながら、毎日ふたりの写真を眺めるばかりの日々を過ごしてはいたけれど、それでも。──多忙を極めていたお兄さまとは違って、MIK六葉支部の手伝いをしていた訳でもないし、精々、家事をこなしながら何でもない日々を送っていただけだったから、その負い目もあって、──私はその時期から、お兄さまに向かって何ひとつとして意見を唱えられなくなってしまった。

 地球に戻ってくるまでは、本当に、お兄さまにお会いできるのが楽しみだったのだ。
 私はお兄さまのことを心から尊敬しているから、お兄さまに会えない日々は不安で、寂しくて。──けれど、だからこそ再会した暁には、お兄さまの笑顔が見たいし喜んで欲しいなとそう思い、毎日せっせとお屋敷のお掃除やお庭の手入れと言った自分に出来る範囲の、きっとお兄さまの為になるはずだと自分なりに思ったことに励み、精を出していた。
 毎日お庭の手入れをしているうちに、家庭菜園やハーブ畑も大分大きくなって、ジャムを作ったりしていたら、近所の方にたくさんの梅の実を貰って、すべてを梅ジャムやシロップにするのはつまらないかなあと思っていた矢先に、UTSの皆さんとお知り合いになった私は、彼らに梅干しの漬け方を習って、地球に帰ったらトレモロくんのごはんのお供にして貰おうと楽しみにしていた。
 他にも、お兄さまに喜んでもらえることもしたくて考えあぐねた結果、お兄さまもパンが好きだから、お兄さまの為に私も美味しいパンを焼けるようになりたいなあ、庭の果物からパン酵母を作れないかな? と思い至って。
 ──パン作りを学ぶにあたっては、六葉町ごと宇宙に飛ばされていた関係で、不在の間もボイルド・ベーグル・レクイエムが近所で営業してくれていたのが、本当に助かった。以前から知り合いだった店長さんに相談して、パンの作り方を習うために通い詰めたお陰で、パン酵母から作った自家製のパンも、自信を持ってお兄さまにお出し出来るだけの味になったと思う。
 店長さんとは元より来店の際には良く話したり差し入れをしたりする間柄だったけれど、──そもそも私が店長さんと仲良くなったのは、店長さんはどことなくお兄さまに雰囲気が似ているから、と言うのが理由で。お兄さまも店長さんも真面目で少し怖そうな雰囲気があるけれど、よくよく見つめていると優しい目をしているところが似ていたから、私は店長さんにすぐに心を開けたのだと思う。それに、みつ子さんという同性の友人が出来たのも嬉しかったし、お兄さまに会えなくて寂しい心の溝を店長さんが埋めてくれてもいたから、宇宙に行っている間、私はボイルド・ベーグル・レクイエムには結構な頻度で通っていた。
 ──でも、それも途中までのことで、あるときに店長さんは行方不明になってしまい、その後しばらくはみつ子さんがひとりでお店を切り盛りしていて、私もそれを手伝っていたものの、ある日突然にみつ子さんまで居なくなってしまい、それきりふたりにはずっと会えていない。

 六葉町が地球へと戻った現在でも、ボイルド・ベーグル・レクイエムは閉まっていて、──パンの作り方を教えてもらったことへのお礼も、お兄さまに会えなかった間に安堵をくれたことへのお礼も、まだ何ひとつとして言えていないのに、いつお店の前を通りがかっても、お店は開いていなくて、店長さんには会えなくて。
 ──それに、店長さんに面影を借りるほど会いたくてたまらなかったお兄さまとは、以前のようにはお話しできなくなってしまった。
 ……もしかすると、以前よりも厳しくなったお兄さまは、無防備に宇宙へと連れて行かれてMIKの仕事を増やし、お兄さまが苦労をされている間に手伝いもせずに、暢気に過ごしていた私のことを、最早疎ましく思っているのかもしれない。
 その頃、お兄さまは遺跡の影響からか大分苛烈になってしまっていて、部下を叱咤する厳しいお声が怖くて、──私はきっと、あの冷たさを明確に自分へと突き立てられたらどうしようと考えると、恐ろしくて堪らなかったのだ。……お兄さまに突き放されてしまったら、私。平然として居られる自信なんて、ないの。
 だから、ふたりのためにパン酵母や梅干しを作っていたんです、だなんて酷く能天気なことは口が裂けても言えなくて、……それどころか、今までも私がお兄さまの為になると思って頑張ったつもりになっていたことって、全部全部、お兄さまにとっては余計なことだったのかもしれないと、そんな風に思ってしまったのだ。

「──さんは、お兄さんのこと、異性として好きなんですね?」
「え? そ、そんなことは……」
「あら、聞いている限りなどそう聞こえますけど……」
「……で、も、……お兄さまは、お兄さまで……」
「義兄妹なのでしょう? 気にするようなことですか?」
「……それは……」

 お兄さまと離れている間、通い慣れたボイルド・ベーグル・レクイエムにて、みつ子さんにお兄さまの話をしたら、そんな風に言われたことがある。どうやらみつ子さんは店長さんのことが好きらしくて、私はみつ子さんのその気持ちを応援しつつも、彼女の恋の相談に乗ることが多かったから、その流れで私にも好きな相手は居ないのか? とみつ子さんに聞かれたのだ。
 ──好きなひと、と聞かれると、少々迷うところである。店長さんのことは私も格好良いと思うけれど、みつ子さんの恋を応援したいと思っているから、きっと彼へのこの気持ちは恋とは異なるものなのだろうと、そう思う。やっぱり私は、店長さんにはお兄さまを重ねているだけなのだ。
 ……お兄さまは、私にとって誰よりも大切なひとだ。……お兄さまにとっては、きっとそうではないけれど。
 お兄さまと出会った日のことを私は残念ながらはっきりと覚えていないけれど、脳裏にはうっすらと雨の日だった記憶だけが残っている。……記録の限り、私がお兄さまに助け出されて病院に運び込まれた日には、雨などは降っていなかった筈なのに。
 お兄さまに助け出される以前のことを、私はよく覚えていなかったけれど、何もすべてを忘れている訳ではなくて、……ぼんやりと、誰かに虐げられたり、家から里子に出されたりして、ずっとずっと、私には居場所らしいものが無かったことだけはなんとなく覚えているのだ。
 ──お兄さまは、そんな私に居場所を作ってくれたひと。
 助け出してくれただけじゃ飽き足らずに、私がこうして日々を過ごすための地盤をくれたひとで、私の世界に白以外の色をくれたのは、他でもないお兄さまだった。
 だから私は、宇宙人を管理すると言うMIKの理念に心から賛同出来ている訳ではなかったけれど、お兄さまのお手伝いがしたくてMIKに籍を置いている。
 お兄さまはラッシュデュエルが強くて、聡明で、護身術の類にも長けていて、MIKという巨大な組織をあの若さで率いている、とっても立派なひと。……私が誰よりも、格好良いとそう思っている、私の、だいすきなひと。
 彼は私にとって恩人で、誰よりも敬愛する相手だから、──もしかすると、みつ子さんの言う通りに、私はお兄さまのことが好きなのかもしれない。……でも、それはきっと、妹として私を扱ってくれているお兄さまへの裏切りなのだと、私はそう思う。
 お兄さまが私に与えた役目は飽くまでも“妹”で、──それはきっと、いずれ私は彼の手から離れるのだというそれを意味している。──私はお兄さまのことを誰よりもお慕いしているけれど、きっと、お兄さまが私に求めているのはそんな感情じゃない。だから私は、お兄さまを好きになってはいけないのだと、固く固く、自分に言い聞かせてきた。そもそも、こんなにも自分に親身になってくれるひとを好きにならない道理がないのだから、……きっとこれは、初恋の機微にも似た勘違いなのだと、そう信じていたかったし、それがお兄さまの為になるのだと思っていた。

 私はきっと、いつかはお兄さまのお傍に置いてもらえなくなるけれど、それまではせめて、お兄さまの役に立ちたい。
 秘書としての業務をあまり任せて貰えないのは、──私の仕事が遅いから? 私が、役に立たないから? だったら、せめてお屋敷の管理だとか、家事仕事ならば私にも出来るところを見て貰おうとそう思ったけれど、竜宮邸には私が来るよりもずっと昔からホッテンマイヤさんが仕えていて、基本的に炊事以外の家事は彼女に一任されている。私が来てからは料理は私が担当するようになったけれど、それだって私に碌な仕事が無いのを哀れに思って、分け与えて貰えたに過ぎないのかもしれない。
 だからこそ、六葉町が地球を離れている間は、気合いを入れて本邸の管理をしているつもりだったけれど、綺麗に手入れされた庭と掃除の行き届いた邸内を見てもお兄さまは肩を落とすばかりで、……結局、褒めては、いただけなかったな。
 ──だから私は余計に怖くなって、パン酵母もジャムも梅干しや梅シロップのことも何も言い出せずに、既製品を出しているかのように未だに振舞っている。
 私はどうやら、真っ当なお家で育った子供ではなかったらしいから、──完璧なお兄さまが求めているような気遣いを、彼に返せていないのかもしれない。
 ──どうしたら、私もお兄さまのお役に立てるのだろう。
 そんな風にぐるぐると考えあぐねても、遺跡の影響で険しい表情ばかりを浮かべるようになっていたお兄さまには、到底相談などを切り出す勇気も持てなくて、困り果てていた頃に私は、──アンジュちゃんたちがトレモロくんのマキシマムカードの材料になることを知ったのだった。

 ──マキシマムカード。遺跡のオーバーテクノロジーを用いて人を素材にして作る強力なそのカードの生産については、──流石に私にも、お兄さまを止めたいと言う気持ちがあって。……けれど、当時は自分自身が遺跡を潜って六葉町に漂流した人間であることさえ忘れていた私は、“どうして”遺跡を使ってはいけないかをお兄さまに説くことも叶わず、倫理を盾にしたところで最早お兄さまは止まってくれないのだろうと言うこともまた、その頃には明白だった。
 私の知っている竜宮フェイザーさんという人物は、いつも穏やかな目をしていた。
 仕事になれば、真面目な彼は厳しい判断を下すことも少なくはなかったし、ラッシュデュエルの際のお兄さまは真剣そのものと言った表情をいつも浮かべていたけれど、──それでも、今のお兄さまは、絶対におかしい。……だって、地球を守るためにMIKを創立したお兄さまが、どうして地球人をカードにしてしまおうとするの?
 何かが可笑しいと言うことは分かり切っていて、けれど、遺跡のことを忘却している以上、私は“お兄さまが遺跡に操られている”という原因に思い至ることも出来ずに、彼への進言は叶わなかった。
 ──だからこそ、マキシマムカードを肯定できない自分に対して、私は次第に焦りを覚えていた。無理にでもお兄さまに話を合わせておかないと、益々嫌われてしまうかもしれないのに、……また、家族に捨てられてしまうかもしれないのに。
 ……それでも私、マキシマムカードを使うこと、やっぱり肯定なんて出来ないよ。
 だから、──いっそのこと、私も。“それ”になりたいと、私はそう願ってしまった。
 どうしたって私はお兄さまに頼っては貰えなくて、お役にも立てないと言うのなら。──アンジュちゃんたちはトレモロくんのことが大好きだから、マキシマムカードと言うその役目を他の隊員に譲りたくないのだと、一番傍でトレモロくんを支える役目は、自分達が担いたいのだとそう言って、彼女たちは率先してカードになる道を選んだ。
 ──彼女たちのそんな想いが痛いほどに分かってしまった私は、……やっぱりお兄さまに、恋をしていたのかな。
 けれど、お兄さまは私をカードにしてはくれなくて、──其処に愛があるからこそのトレモロくんと彼女たちの選択を見届けた直後にお兄さまに懇願した「私をあなたのマキシマムカードにしてください」というその言葉を、彼自身によって険しい表情で退けられた際には、──本当に、ショックだった。
 トレモロくんと彼女たちとの間には確固たる信頼と愛があったけれど、──ああ、私とお兄さまの間にそんなものは無いのだなと、そう、思い知らされてしまったから。

 お兄さまのマキシマムカードになることも許されず、それどころか、護身用として私は“誰か”を封じて作ったマキシマムカードをお兄さまに与えられて、──何も返せていないのに、私はいつも、お兄さまから貰ってばかりいる。そのことがずっとずっと私は耐え難くて、だから、せめてMIK隊員としての仕事を全うしようと、マキシマム召喚を狙おうとしたことだってあったけれど、──“これ”を使えば相手がどうなるのかを間近で見たからこそ、私の手はがたがたと震えてその選択を選び取ることも叶わず、──彼の武力になることさえも、出来なかった。

 先日に、「もう兄と呼ぶのはやめなさい」と私に囁きかけたお兄さま──今後はフェイザーさん、と呼ばなければならないのだろうか──彼はあのときに、驚くほどに穏やかな眼で私を見ていた。──お兄さまの薄水色の瞳は酷く凪いで、其処にはまるで海原のような慈しみに満ちたまなざしを湛えていて、……それで私は本当に、訳が分からなくなってしまった。
 お兄さまが私を突き放したのは、私が役立たずだから、要らない子だからと、……そういうことでは、なかったの? お兄さま、私には、もう分からないよ。──私はずっとずっとお兄さまのことがだいすきで、あなたに恋をしてはいけないのだと自分に言い聞かせて日々を過ごしてきたのに、……あなたにとって私がずっと欲しかったその椅子は、妹よりも劣るものだと、これは、そういうことなの?
 私は、義妹としての価値もなくなってしまったからこそ、あなたに突き放されて、これからは其処に座るの?

 ──もしかすると、お兄さまはずっと前から私に愛想を尽かしていて、もう家族から他人に戻りたいと、……そう、思ってしまったのかもしれない。
 ……それでも、新たに別の役割を与えようとしてくれているのは、少しは情を持ってくれているからだと、せめてそのように自惚れたかったけれど、もうそれっぽっちの希望すら、この深淵には存在し得なかった。

 けれど、腑に落ちないこともある。……どうしてお兄さまは、兄と呼ぶなと突き放しておきながら、──あのとき、私の唇を優しく塞いだり、したのだろうか。お兄さまにとって、それは吐き気を催すような行為ではなかったのだろうか。

「──、其処の書類を取ってくれるか」
「はい、おに……」

 ──お兄さまのお考えが、分からない。彼から突き放されたあの日以降も、相変わらず私は総帥直属の秘書官として、お兄さまの執務を幾らかばかりお手伝いする日々を過ごしていて、──仕事とプライベートは別だと言うそれだけのことに過ぎないのかもしれないけれど、私を嫌いになってしまったのかもしれないお兄さまは、相変わらず私を傍に置いてくださっているし、地球への帰還を果たしてから殊更に厳しくなっていた、私の外出制限が緩和されるようなこともなかった。
 もしかすると、今後は傍に控えていなくてもいい、だなんて。──そんな風に言い捨てられるかもしれないという可能性にだって、私は怯えていたと言うのに、そんなことはまるで起き得なかったのだ。

 お兄さまの義妹として竜宮家で共に暮らすようになってから、──否、それよりもずっと前、お兄さまに助けられたその日から、私は彼を慕い尊敬しているし、実弟のトレモロくんだってお兄さまのことは大好きだったから、彼から教わったお兄さまの素敵なところも私はたくさん知っているし、そういうものを全てひっくるめた上で、私は竜宮フェイザーと言う人物のことを、今も変わらず大好きだと思っている。
 ──だからこそ、既に関係性が変質してしまったようでありながらも、特に変わり映えのない日々をお兄さまの傍で自分が送っていることが、私にとっては酷く不可解で、……そんなことを考えながらも、執務机にて書面に視線を落とすお兄さまの横顔を見つめていたら、思わずぼうっとしてしまっていた私は、──無意識のうちに。……お兄さま、と。固く禁じられたその呼び方が口から滑り落ちてしまっていて、……慌てて口を覆う私を見つめながらもお兄さまは、「……」と、静かに私の名を呼ぶものだから、──私はといえば、一気に頭が冷えていくのをはっきりと肌で感じていた。

「ご、めんなさい、フェイザーさん……言い付けを守らなくて……」
「言い付け、とは?」
「……外に出てはいけないと、そう言われていたのに……私、勝手に抜け出して……それに、それ以外も、ずっと、ずっとお兄さまに……」

 ──おずおずとそのように切り出したのか細い声に、……私は思わず、少しだけ呆けてしまっていた。……まさか、今までバレていないつもりでいようとは。可愛いが私の元から逃げ出そうなどと思わないようにと、以前から彼女にはしっかりと見張りを付けていたし、仮にMIK本部の外に出たとしても、その後ろに護衛が同行していたことに、どうやら、はまるで気付いていなかったらしい。
 ……ああ、本当に彼女は、危なっかしくて心配になる。──これでは、やはり今後も、迂闊に一人では出歩かせられたものではないな。外出時には必ず私かトレモロが同行するように徹底しなくては。──何しろ、外には危険が幾らでも転がっている。──例えば、“外を歩いていただけでも、ラッシュデュエルに負ければ、カードにされてしまっても文句は言えない”のだからな。そのような場所などを、とてもではないが彼女には出歩かせられない。
 ──しかし、この様子では。どうやらは、私が先日に「兄と呼ぶのをやめろ」と、そう告げたのは、まさか、私がに愛想を尽かしたからだとでも思っているのだろうか。……であれば、それは、酷い思い違いだと、そう教えてやらなければ彼女が可哀想だろう。

、それはお前の思い違いだ」
「え……」
「……確かに、以前からお前が外に出ていることは知っていた。……私の目を盗み、六葉町に出かけていたな?」
「……はい……」
「だが、今更それを咎める気は私には無い。……窮屈な生活をさせてしまって、すまないな。だが、これもお前を護るためだと理解してほしい」
「……はい、ごめんなさい……」
「……私は何も、お前に愛想が尽きた訳では無いよ。私とお前は、今後も家族だ」
「え、……で、でも、お兄さまって、呼ぶなって……」
「ああ。……もうじき夫婦になるのだから、それは当然だろう」
「……え?」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、まるで、投げ渡された言葉の輪郭をそうっと確かめるかのように、は私に言われた意味を必死に理解しようとして、──それでも、まるで理解が追い付いていないのか、書類を握ったままの指先はかたかたと小さく震えていた。──彼女から少し離れたデスクから見ていても、その動揺ぶりは幾らか不憫で、──私は椅子から立ち上がると彼女の傍へと歩み寄って、白い手から書類を受け取りながらも空いた華奢な指先を絡め取り、水面のように揺れている澄み切った瞳を覗き込む。──ああ、やはりお前の眼は美しい。水晶玉のように潤んだ艶やかさを湛える目が、……たとえ、眼前の私をまるで恐怖を帯びたまなざしで見上げていようとも、……残念ながらお前は、もう何処にも逃げることなどは叶わないのだ。

「……私とトレモロと、家族で居たいだろう?」
「……それは……はい……」
「であれば、本当の意味で家族になるために、お前は私の妻となればいい」
「……で、も、今のままでも、家族、って……」
「兄妹のままでは、永遠に共に在ることは叶わないだろう。……それとも、お前は今更、私から離れても生きていけるとでも思っているのか?」
「……い、や、です……わたしは、お兄さまの傍に……」
「ならば、私の言うことを聞いておいた方が身のためだぞ、
「で、でも……きょうだい、なのに……そんなの……お兄さまにとって、めいわ……」
「……何を言う? お前と私は、元より兄妹などではないだろうに」

 我々に血縁関係など、端から存在していないのだから、これはそれだけの話だろう? ──そう言って宥めるようにの髪を撫ぜる私を見上げて、……まあるい瞳からはぼろぼろと、透明な雫がとめどなく溢れ出してしまった。「……なんで、そんなこと、言うの……?」嗚咽交じりに零れだす言の葉は次第に明瞭さを欠いて、理屈などはとうに帯びておらず、只彼女の感情任せに転げ出ては自身の情緒を刺激するそれらの音を聞きながらも、私は妹をあやす兄を装って、彼女を抱き寄せては何度も何度も、繰り返し頭を撫でてやるのだった。
 ──ああ、お前は、なんと物分かりの悪い子だろうか。可愛い余りに、甘やかして育ててしまったのかもしれないが、私はこの先もお前を猫可愛がりしてしまう自信があるものだから、なんとも困った子だ。……お前の兄が言うことが間違いだったことなど、一度たりとも無かっただろうに。──我々は兄妹などではないからこそ共に生きていけるのだと、愛し合うことさえも、母なるこの星に布かれた法の下に許されているのだと、……これからじっくりと、お前に教えてあげよう。──お前が兄と信じる男は、出会った日からずっと、お前に焦がれんばかりの情動を抱いているのだ、妹よ。……お前ひとりの力では、到底抜け出すことなど叶わないと知れ。 inserted by FC2 system


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