夜を弾く、星が絡まる

 ──どうして、海外から飛んで来てくれたの? って、……あなたが起きたら、そう訊ねてみようかと思ったけれど、きっとそんなことを問いかけたなら呆れた顔で「頭が悪いな、」って、デュフォーはそう言うのだと思う。
 だって、そんなのって、聞くまでもなく“答え”は分かり切っていて、“アンサートーカー”の能力を持ち合わせていない私にだって、聞かずとも分かる。
 只、デュフォーにとっては、……今でも私がそれほどまでに大切な存在なのだと、これはきっと、そういうことだ。

 昨夜デュフォーはマドリードに居たらしいと清麿くんに聞いて、私は思わずマドリードから日本まで16時間弱で到着することに驚いてしまったけれど、清麿くん曰く「直行便で14時間と少しかかる筈だぞ」とのことで、──マドリードと日本の時差は約7時間。日本の夜24時が向こうでは7時間前の17時だから、仮に其処から飛行機に乗っていたのだとしても体感時間では夜を迎えている筈で、……でもデュフォーはどうやら、飛行機の中では眠れなかったらしい。
 14時間もシートに座っていればエコノミークラス症候群にもなるし、お世辞にも快適とは言い難いから、それが理由で眠れなかっただけかもしれないけれど。敏い彼のことだから、きっとその辺りの対策は済んでいたことだろう。
 ──だったら、デュフォーがぜんぜん眠れなかったというのは。
 ……きっと、私のことが心配だったから、気を揉んでいたと、そういう意味なんだろうな……。
 それが、私の姿を見つけるや否や安堵したのか、図書館の固い椅子と机に突っ伏して、すうすうと静かな寝息を立てるデュフォーの姿に、どうしようもなく、胸がぎゅっと締め付けられるような想いがしてしまう。
 頬に影を落とす長い睫毛が伏せられている閑かな横顔をまじまじと見つめて、……きれいだなあ、と。そう思ってしまっている自分には少なからず動揺があったけれど、……ああ、これがきっと“答え”なのだろうと、諦めにも似た気持ちもまた、其処には同居していた。

 ──困惑と安堵とがないまぜになった、それでもやさしい気持ち。気軽に触れればさらりと消えてしまいそうな、それでいて、簡単には無くなってはくれないような。そんな思いを抱えながらも隣で眠るデュフォーを時折眺めて、清麿くんとふたり、宿題を片付けていく。
 正直に言えば、今の私はまるで勉強どころではなかったけれど、それでも、今のうちに片付けておかないと、後からデュフォーと話す時間が少なくなってしまうから、きっとそれでは後悔すると思う。
 それに私は、デュフォーと清麿くんに置いて行かれたくないし、少しでも追い付きたいから、勉強だけは疎かにしないと心に決めているのだった。
 そうして、宿題を片付け終わった頃には窓の外はすっかり茜色に色付いており、「そろそろ出るか」と小声で声をかけてきた清麿くんはそのままデュフォーを揺り起こそうとして、はた、と動きを止めると正面に座る私へと視線を滑らせる。
 私は教科書とノートをトントンと机に当てて揃え直して鞄に仕舞いながら、清麿くんの視線に首を傾げていたけれど、やがて清麿くんは、困ったような顔で「……が起こしてやった方が良いかもな?」と、そう零すのだった。
 確かに、デュフォーを起こすと約束していたのは私の方だし、その約束を違えるのも良くない気がする。……それに、デュフォーのことは私が起こしてあげたいとそう思ったこの幼い独占欲のような気持ちは、……あなたにぶつけてしまっても、良いものなのかな。これって、持っていてもいいもの、なのだろうか。

「──デュフォー、起きて? そろそろ出よう?」
「……ん……今、何時だ……?」
「もうすぐ17時だよ、……大丈夫? まだ眠い?」
「イヤ……先程よりは、大分マシだ……」
「じゃあ、そろそろ出るか」
「……ああ」

 ぽやぽやとまだ何処か眠そうな顔をして私の隣を歩くデュフォーは心なしかぼんやりしていて、図書館を後にしたものの、この後何処に向かうのかの相談も切り出せないまま、私もまたぼうっとデュフォーの横顔を覗き見ている。そんな私たちの様子を察したのか、少し歩いたところで清麿くんが髪を掻きながら、「……なあ、デュフォーは今夜どうするんだ? うちに泊まるか?」と切り出してくれた。

「イヤ、の家に泊まるが……?」
「泊まるが? ってお前……、急に押し掛けたんじゃも困るだろ」
「それは華も同じだろ」
「そりゃそうなんだが、は明日も学校が……」
「? わ、私は別に平気だよ?」
……イヤ、でもなあ……そうだ、オレはお前に話があるし……」
「……さっきからどうした? 清麿、その話というのは、が居ては都合が悪いのか?」
「……そ、そうなの? ……あの、それなら、デュフォーは今回は、清麿くんのおうちで……」

 正直に言えば、清麿くんのおうちに泊まったら? なんて言葉は心にもない遠慮でしかなくて、私はデュフォーには今回もうちに泊まっていって欲しかった。急に現れた彼が何時まで滞在していくのかなんてわからないし、……それに、基本的にはデュフォーが帰ってきた際にはうちに宿泊していくのが常となっていたから、……今回に限っては、その法則が崩れることが妙に不安だったのだ。
 確かに、うちに来てもらったところで、私は明日明後日と学校だから日中は何もお構いできないし、普段ならデュフォーだってそれも分かっているからか、極力は土日に合わせてモチノキ町に帰ってきていたし、……そういう意味では、日中は家に華さんのいる高嶺家の方が、デュフォーにとっても良いのだろうなとは思う。
 それに、私は昨日ひとりでぐるぐると頭を悩ませてしまってもいたから、今デュフォーとふたりきりになるのは、あまり良くないというか、……普通に接することが出来るのかと若干不安に思うところでもあって、……でも、急に訪ねてきたデュフォーは予定を大幅に変更して無理を通して来てくれたのだろうし、下手をすれば週末まで待たずに、明日にでも帰ってしまうかもしれない。
 そう思うとやっぱり、……少しでも、いっしょに居たいなあ、と思ってしまうの、私、我儘だなあ……でも、清麿くんはデュフォーに何か大切な話があるらしかった。「私がいると都合が悪いのか」という問いに対して清麿くんは口をもごもごとさせて、煮え切らない返答をしながらも「イヤ、そういう訳じゃないんだが……」と零している。
 ……きっと素直に肯定したなら、私が傷付くかもしれないから、傷付けない言葉を探してくれているのだろう。
 それならちゃんと私が身を引いて、今回は高嶺家に泊まってもらって、という結論にこの場を纏めるべきだと分かり切っていて、……だって私は、何か特別にデュフォーに話がある訳では、ないし。……でも、なあ。

「……清麿、悪いがやはりの家に泊まる。が離してくれないから仕方ないだろ、諦めろ」
「……エ?」
「ハ?」
「見ろ、……裾を掴まれている」
「エ、……ア、アレ!? ゴメンネ、私、なんか、無意識に……き、気にしないで……!?」
「イヤ……気になるだろ、無茶を言うな」
「……分かった。じゃあひとまずは、の家で頼むな。……あ、でも今夜の夕飯はうちで食ってけよ、お袋に今日はを連れて来いって元々言われてたし、デュフォーも来れば喜ぶだろうからさ」
「ああ。もそれで良いか?」
「……うん、じゃあ、お邪魔してもいい? 清麿くん」
「おう! 寄って行ってくれ!」

 デュフォーに指摘されたことでようやく気付いた私の片手は、まるで縋るように彼のジャケットを握り必死で引き留めようとしていて、それを見た清麿くんは少し考えこむ素振りをしてから、「……まあ、きっと大丈夫だよな」と少しだけ困った顔をして笑っていた。
 清麿くんが言わんとしている言葉の意味は、正直よく分からなかったけれど、──ともかく、その日はそのまま清麿くんのお家にお邪魔して、華さんの夕飯をご馳走になることにしたのだった。
 華さんは元々私を夕飯の席に招いてくれるつもりだったらしいけれど、急遽一人増えての訪問になってしまったから、夕飯の支度を手伝うべく私も高嶺家の台所にお邪魔する。華さんは「ちゃん、デュフォーくんと話してていいのよ? 久々に会うんでしょ?」と、そう言ってくれたけれど、──清麿くんはデュフォーに何か相談があるみたいだったし、その都合を無視して私が我儘を通してしまったからという事情もあり、私は結局夕飯の支度に参加し、彼らの座る席に付いたのは食卓にご馳走が並ぶ頃だった。
 それから、デュフォーの旅先での話や私と清麿くんの近況報告について話しながら、華さんも含めた四人で晩御飯を食べた。清麿くんの好きなコロッケと、私の好きなものもたくさんあったし、急遽私の発案で作り足したデュフォーの好物も並ぶ食卓は色とりどりで賑やかで、淡いオレンジのフィルターを掛けたような穏やかな色がその空間には満ちている。
 そんな光景を前にして、私は思わず、……デュフォーが居て、清麿くんが居て、華さんが見守ってくれているこの食卓は、……人間界に家族のいない私にとって夢のような場所だなあ、と、ぼんやり、そんな風に思った。
 一歩外に出ればきっと、冷たい空気が肌を刺すこの季節に、まるでこの場所だけが、世界の何処よりも暖かい場所であるかのような、……そんな錯覚に陥っている。
 やがて過ぎゆく幸福な時間はやはり名残惜しくて、夕飯を終えて後片付けを済ませ、華さんが淹れてくれたお茶を飲みながら暫く談笑した後に、私とデュフォーはお暇することにしたものの、私も含めて今日は泊まって行けばいいのに、という華さんの提案は魅力的で、──けれど私は何の支度もしていなかったし、明日も学校だし、デュフォーも「どのみちを送っていくから、オレもそのままの家に厄介になる」とそう言ってくれたことに、私はほっと胸を撫で下ろしたのだった。

 そうして、デュフォーとふたり、静かな帰路に付いたときにようやく、──デュフォーが帰ってきてからはじめてふたりきりになったことに気付いて、急にどうしたらいいのか分からなくなってしまった私は、矢継ぎ早にあれこれと話題を振っていたような気がする。
 デュフォーはそれに対して逐一相槌を打ちながらも、何処か怪訝な顔をされているのも分かっていたから、その点を指摘されるのが私はどうにも不安で、足早で家についてすぐにお風呂の支度を整えると、「デュフォー、先に入っておいでよ。私は明日の準備があるから」と半ば強引にデュフォーをお風呂場に押し込んで、デュフォーが上がってくるなり今度は私がお風呂場に向かい、──そうしてバスタブに身を沈める間にも、……なんだか、態度が露骨になってしまっているような、……ちょっとイヤな感じになってしまっているような気がして、……どうしよう、今までずっと、どんな風にデュフォーに接していたんだろうかと、ぐるぐると思考は渦を巻く。

「──上がったか。……ずいぶん遅かったが、逆上せていないだろうな?」
「……うん、だいじょぶ……」
「イヤ……少し逆上せてるんじゃないのか? 水を持って来てやるから待ってろ。落ち着いたら髪を乾かしてやるから此処に座れ、
「……うん、ありがと……」

 お風呂を上がったら、今度はデュフォーに何の話をしようか、不自然にならないように、嫌な態度になってしまわないようにと必死に頭を悩ませているうちに、すっかり逆上せそうになってしまって慌ててお風呂を出た私を待っていたのは、我が家に取り置かれている男性用の寝間着に袖を通して寝支度を整えつつも、ドライヤーや私のブラシとヘアオイルを用意して待ち構えている、デュフォーの姿だった。
 恐らくは幾らか顔の赤い私の様子を見て、台所から冷たいお水を取ってきてくれたデュフォーはグラスを私に差し出しながら、「持てるか?」と穏やかな声色でそう訊ねて、私がこくりと頷くと安心したようにふっと笑う。
 それから、私が落ち着くまで黙って隣にいてくれて、その後、大人しく髪を乾かされている間もデュフォーとの間には会話らしいものはなく、ごうごうと耳元で鳴り響くドライヤーの音と、彼の大きな手で頭を撫でられる感覚だけに支配されているうちになんだか脳は甘い痺れに襲われて、──次第に瞼が重くなり、私はうつらうつらと舟を漕ぎ始めてしまっていた。

「……乾いたぞ、
「……うん……」
「もう寝るか? お前も疲れただろ」
「……まだ、客室の……デュフォーのベッドメイキング、してないから……」
「別にいい。オレはオレで勝手にやるから、無理せずに寝ろ」
「……でも、まだ、デュフォーと話したいし……」
「それは明日で良いだろ」
「……明日、何時まで居てくれるの? 私、学校だから……」
「イヤ……明日も泊まっていく。それなら無理をする必要はないだろ?」
「……明日も、居てくれるの?」
「少なくとも、週末までは居る。平日に無理をさせるつもりもない、学業に専念して早く寝ろ」
「……そっか、よかったあ……」
「……?」

 ──ああ、なんだ、よかった。デュフォー、週末までうちにいてくれるんだ。今日はまだ水曜日だから、土日を含めて、……まだ四日間もいっしょにいられるんだ、って。そう思ったらとってもホッとしてしまって、急激に眠くなってきた。
 そう言えば、私も昨夜は色々と考え事をしてしまったからなかなか寝付けなくて、無意味に夜更かしをしてしまったもん、なあ。……なんだか、ふしぎだ。昨日はデュフォーのことを考えて眠れなかったのに、私、当のデュフォーが隣にいると、安堵で眠くて堪らなくなってしまうらしい。
 ……子供みたいだって、あなたにそう思われていないと、いいなあ、なんてぼんやりと考えていると、──やがて、ゆらゆらと遠退く意識の中で肩に触れた暖かな手で、ふわり、ゆらりと身体が揺れたような、気がして。「……おやすみ、」とこの世で一番穏やかな声に囁かれながら、私はいつの間にか、優しい眠りに落ちてしまった。 inserted by FC2 system


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