眠りには水彩を溶いておいて

 ──翌朝、私がベッドの中で目を覚ますと、隣にはデュフォーがすやすやと寝息を立てて眠っていた。
 以前の私だったなら、きっと、隣にデュフォーが寝ていることに気付いた瞬間に驚いて悲鳴を上げていたのだろうなと、そう思う。実際、まだヤエがこの家で暮らしていた数年前、家に泊まっていたデュフォーが私の隣に潜り込んでいることに驚いて大声を出して、ヤエが凄まじい勢いでデュフォーに向かって怒ったことがあったなあ、……なんて記憶も、今では良い思い出だと感じられるのだから、ふしぎだ。
 昨夜、湯あたりをしてしまった私の世話を焼いてから、デュフォーが髪を乾かしてくれて、それで彼に髪を撫でられているうちに途中から眠くなってしまったような記憶がぼんやりと残っているから、きっとデュフォーは寝落ちてしまった私を寝室まで運んで、そのまま自分も私の隣で寝たのだろうと、そう思う。
 ほぼデュフォー滞在時用の彼の部屋と化している客室には折り畳みベッドがあって、ベッドメイクはまだ出来ていなかったけれど、一応、デュフォーはシーツや寝具が客間のクローゼットの何処に仕舞われているのかも知っている。けれど以前より、折り畳みベッドを買ったところでデュフォーは相変わらず私の部屋でいっしょに寝ることが多々あったし、寝具を出すのが面倒だったからか、……それ以外の思惑があったのかは知らないけれど、昨夜も彼は私の隣で眠ることにしたらしかった。
 すうすうと規則正しく寝息を立てるデュフォーの静かな寝顔には、……あの頃のような陰りも激情も、既に見当たらない。
 私のせいで、随分と寝不足だったみたいだし、デュフォーの眠りはどうやら相当に深いようで、目が覚めた時私はゆるやかに彼の腕の中に抱きかかえられていたけれど、そろりそろりと私がお布団の中から抜け出しても、デュフォーが目を覚ますことは無かった。

 私の朝支度は日頃から早く、部活の朝練もあるから、私が起き出す時間になったところで、きっとデュフォーはまだ眠いのだろう。時差ボケも、かなりあるだろうし。
 デュフォーを残してベッドから抜け出し歯を磨いて顔を洗い、デュフォーの為に買い置いてあるグレーの歯ブラシとシェーバーとタオルを洗面台に出しておく。それから制服に着替えて髪を整えるとエプロンを付けて、私はお弁当の準備に取り掛かるのだった。
 今日のお弁当の中身は、おかかとチーズのおにぎりと、小さめに作って冷凍にしてある豆腐ハンバーグ。それから、さつまいもの塩バター炒めと、冷蔵庫に中途半端に残っていた小松菜とベーコンを刻んで混ぜた玉子焼き。それにほうれん草のごまよごしと彩りにプチトマトを添えて、桜色のころんとした小さなお弁当箱──以前、ヤエが使っていたそれに、自分の分を詰める。
 それから、──少し多めに用意したそれらを、少し迷ってから、デュフォー用のお弁当箱にも詰め込んで、それぞれをナプキンで包み、お箸とおしぼりを付けてランチバッグに入れたのだった。
 クリアノートとの決戦が迫っており、デュフォーがモチノキ町に長期滞在していた当時、ヤエの分を作るついでに、みんなのコーチ役で忙しなく動くデュフォーの分もお弁当を作ることが度々あって、そのときに、彼用のお弁当箱を用意して、……でも、デュフォーが旅に出てからは、時々帰ってきてもお弁当を作るようなことは、無かったもん、なあ。基本的に、滞在中は常にいっしょにご飯を食べていたし、その必要がなかったから、こんなのは久しぶりだった。
 けれど、今日は少し事情が異なるので、デュフォーの分もお弁当を用意してみたけれど、……よく考えたら、デュフォーも今日は外で食べるかもしれないと、お弁当箱に詰める段階になってから、気付いてしまった。
 そもそも、私が居ないからと言ってデュフォーが時間を持て余すわけでもないだろうし、偶に帰ってきたモチノキ町で、彼だって何かしたいことがあるかもしれない。
 ……だから、これは流石にお節介だったのでは? と、朝食用の焼き魚をグリルで焼いて、朝食の分に取り分けておいた卵焼きの隣に大根おろしといっしょに並べて、お味噌汁の入った鍋をかき混ぜながら、私はそんな風に考えてしまっていたけれど、朝食の用意が整う頃に身支度を終えて寝室から出てきたデュフォーはテーブルの上に置かれた包みを見るなり、「……この弁当、オレが貰っていいのか?」と、目敏くもそんなことを訊ねてきたのだった。

「うん、私の分も作らなきゃいけなかったから、一応、デュフォーにも、と思って……」
「そうか」
「……あの、でもね、外で食べる予定とかだったら、気にしないでね……?」
「イヤ、有難く受け取っておく。今日は出かける予定も別段ないしな、清麿には連絡を取ろうと思っているが」
「ああ、そっか。清麿くんは部活してないもんね」
「ああ。よりは、清麿の方が暇だろ。……まあ、オレも多少疲れてるから、今日は留守番でもしておく」
「それなら良かった。苦手なもの、入れてないと思うけれど……」
「平気だろ、……の作る食事は、いつも美味い。……この味噌汁も、ホッとする味がする」

 以前のデュフォーからは考えられない「ホッとする」という抽象的な表現に、思わず頬が緩む。アメリカを母国に持つ彼にとっては、お味噌汁が家庭の味だとか別段好きだとか、きっとそんなことはないのだろう。
 けれど、デュフォーが「ゼオンがカツオブシを好きだったんだ」と以前話してくれたことがあったから、もしかするとデュフォーにとっても少し馴染み深いものだったりするのかもしれないと思って、いつの間にか私はデュフォーに和食を作ることが増えたような気がしている。
 カツオブシで出汁を取ったお味噌汁だとかの食事を出すと、デュフォーはいつもよりもほぐれた表情で食べてくれる気がする。
 お味噌汁の具は多すぎても味が濁るし、出汁の味が分かりづらくなるので、具材はお豆腐を一種類だけだ。……以前までは食べ盛りの子供たちが周りに多かったから、食べでがある方が良いと思って、常に具材を二種類以上入れるようにしていたけれど、いっぱい食べてくれるあの子たちはもう人間界には居なくて、我が家の食卓には私と、……それから、時々帰ってきてくれるデュフォーだけが残った。

「──それじゃ、学校行ってくるね」
「ああ。……学校まで、送らなくていいのか?」
「大丈夫! デュフォーはきっとまた寝るでしょ、気にしないで」
「そうか、ならそうさせてもらう」
「夜ごはん、何かリクエストがあればメールで教えてね。帰りに材料を買ってくるから」
「……メールを送ったところで、ちゃんと見るのか?」
「み、見るよ! ちゃんと電源入れておくから……小まめには、見られないとは思うけれど……」
「ふ、……分かった、思い付いたらメールする。……気を付けて行ってこい、
「うん、いってきます! デュフォー!」

 満開の花のような笑みを浮かべて玄関を出たは、数歩歩いたところでこちらを振り返って大きく手を振り、そんなことを、互いの姿が見えなくなるまで何度も繰り返していた。まるで子供のようなその仕草に、……ふは、とオレも思わず笑ってしまう。中学生の頃の彼女は、身の丈以上に大人びた振る舞いをする少女だったが、……いつの間にか、すっかり年相応になったものだと、その変化を素直に嬉しく思う。
 朝食分の皿洗いはしておくと言ってを押し切って送り出したので、登校する彼女を見送ってから俺は食卓を片付けて、それから、もうひと眠りすることにした。客室のベッドを整えて其方で眠るか、軽い仮眠ならリビングのソファでも良いかとも思ったが、……まあ、怒られはしないだろうと分かっていたからオレはの厚意に付け込んで、結局、彼女の自室で眠ることにしたのだった。
 清潔な桜色のベッドシーツがぱりっと綺麗に張られた寝台は、甘い香りがする。
 が使っているシャンプーのにおいか、或いは、彼女自身のそれなのか。酷く安堵を煽られるその香りに肺が満たされると、疲労感も相まってすぐに瞼が重くなってきて、──そうして、オレが二度寝から目を覚ます頃には、既に枕もとの時計は昼前を指していた。
 思ったよりもしっかりと眠ってしまったことに少々驚いたが、……まあ、こんなにも安心する場所で横になったのだから、それも無理はないか。

 昨日、久々にモチノキ町へと戻り、その足で直行した図書館にて見慣れた小さな背中を見つけたそのときに、──まさかに何かあったのではと張り詰めていた緊張感から解放されたオレは、急激な安心感で眠気に襲われてしまい、図書館でも小一時間ほど仮眠していた。
 前日の夜にふとの声が聞きたくなり電話をかけてもまるで繋がらず、メールも返ってこないしそもそも電源が入っていない様子に痺れを切らして、らしくもなく感情的に此処まで押しかけてしまったが、……が無事だったのならば、まあ、それでいいが、流石に少しは苦言も呈したくなると道中はそう思っていたはずが、──こちらを見上げるのまあるい瞳に俺だけが映り込んでいて、ぱちぱちと長い睫毛で瞬きをしながら驚いた顔で、……それでも、少し頬を染めたが高揚感に満ちた声で「デュフォー」とオレの名を呼んだその瞬間に、……確かに覚えていたはずの些細な怒りなどは、何処かへと消え失せてしまっていたらしい。
 今朝に「メールしてね」と言われるまでオレもそのことをすっかり忘れており、辛うじて口を突いたのは軽い冗談でしかなく、……嫌味の体裁もあまり保てては居なかった、な。

 二度寝から起き出して、リビングに向かうと勝手知ったるキッチンでコーヒーを淹れて、から渡された弁当を電子レンジで温める。冷えたままでも十分美味いとは思うが、せっかくが作ってくれたものは、最善の形で味わいたい。
 弁当箱を開けると、朝一で登校前に調理をしたにしては手の込んだおかずがいくつも詰まっていて、改めて凝り性だなとそう思うが、……もしもこれが、オレが来ているからいつもよりも張り切っていただけなのだとしたらとそう考えて、……その“答え”は直接本人から聞きたいと思ったから、特に答え合わせをすることもなく、オレは弁当に箸を付けるのだった。
 豆腐とひき肉で作られたハンバーグは和風の味付けで、どうやらカツオブシがソースに使われているらしい。……これは、ゼオンが羨むだろうなとそう思いながら食べ進めていくと、かぶり付いたおにぎりの中身もカツオブシで、思わず笑ってしまった。
 ……きっとは、オレもカツオブシが好きだと思って、わざと多めに取り入れているのだろう。
 実際のところ、オレはゼオンと過ごした日々を思い出すから、それをなんとなく好ましく思っているという程度に過ぎないのだが、……こうしてがオレの為に用意してくれているからこそいつかは、本当に俺の好物になる日も来るのかもしれないなと、そう思う。
 ひとつひとつを噛み締め、味わって平らげた弁当箱を洗って流しに伏せておいてから、ぐるりと家の中を見渡すとしみじみと、この一軒家を学生が一人で管理するのは苦労も多いだろうに、本当にいつも掃除の行き届いた家だと、そう思う。
 の家は清潔感があって、それでいて、何処か暖かなにおいがする。この家はいつ来ても居心地が良くて、きっと、一歩踏み入れた人間は皆、この家から帰りたくなくなってしまうのだ。……それはもちろん、オレも含めて。

 ──そういえば、昨夜は風呂を出てすぐに寝たから、風呂の掃除はまだしていなかったはずだとふと思い出して、が学校に行っている間に片付けておいてやろうと、風呂を洗って、お湯を張ればすぐに入れる状態に整える。
 それから、他に何かすることがあっただろうかとそう考えて、……まあ一応は、客間のベッドにシーツを布いて布団と枕を出しておくことにした。
 の提案で導入された折り畳みベッドだったが、オレは正直なところ、こんなものよりもの寝室で寝たい。「旅先の疲れもあるだろうし、手足を伸ばしてゆっくり眠れた方が良いよ」とは言うが、不思議とそれよりも、シングルサイズのベッドの上でぎゅうぎゅうにくっついての隣で眠った方が、ぐっすり安眠できて疲れも取れるのだから、仕方が無いだろ。
 まあ、の言い分も尤もではあるのだが、……それでも、オレは彼女の隣に居るときが、一番落ち着く。その理由が彼女への愛に起因している自覚などはとうに伴っているからこそ、……いつの間にかオレが隣に寝ていても驚きもしなくなったには、安堵も不満も同じ程度にあるのだが。

 客間を整えて自分の荷物も運び、に渡そうと買っておいた土産物を確認して、ついでに掃除機でも掛けておくかと家の中の仕事を幾らか片付けた後で、再びリビングに戻り一息ついたところで、──ふとオレは、窓の外に雨が降り始めていたことに気付く。
 ……そういえば、此方に戻ってきてからはや清麿と騒がしく過ごしていたし、今朝もと話していたから、モチノキ町に滞在してから一度も天気予報を見ていないし、気にも留めていなかった。ニュースの音に会話を邪魔されるのが癪だったとはいえ、……普段ならば旅先でも常に天気のことを気にしているし、そうしていればに傘を持たせてやる余裕くらいはあっただろうに、……これは、に会えたことで相当に浮かれていたのだと自覚し、思わずため息が漏れた。
 現に、留守番を始めてからもオレはのことを考えるばかりで、この家で心を休めるばかりで、テレビを付けようとさえ思わなかったのだ。
 は、部活が終わるのは17時頃だから、それまでに夕飯のリクエストをメールしておいてほしいとそう言っていた。……スーパーに寄って帰ると言われたので、学生鞄に弓具と買い物袋まで抱えて歩くのは大変だろうと、オレは元から夕方にはを迎えに学校まで出向くつもりで居たのだが、……雨が降っているとなると、尚のこと、迎えが必要だな。

 が中学三年の頃、オレは度々放課後のを迎えに学校まで出向いていたが、……そういえば、高校に上がってからはこれが初めてか。
 高校生になり、以前よりも学業が忙しくなったは、日中に家を空ける時間も長い。だからこそ今までは、長期休暇以外では、わざわざ平日に彼女を訪ねることも無かった。とはいえ、進学先の高校は知っているので、道順も当然頭に入っている。
 ……そういえば、昔、やっぱり雨の日にが傘を忘れて、それで迎えに行ったことがあったな。あの日はの不注意が原因で、オレはオレで傘を忘れた清麿が心配だとガッシュに駄々を捏ねられて、無理矢理に清麿の傘を届けさせられた道中で、レインコートに身を包んで大きな傘を必死で引き摺るヤエを見つけて、結局二人を連れて、二本の傘を届けに学校まで出向いたのだった。
 ……懐かしい、と。そう思うほどに長い時間を、気付けばオレは、他でもないの傍で過ごしている。
 その事実は未だに夢のように甘く、──今頃、傘を忘れたは学校で困っているかもしれないというのに、オレはと言えば、を迎えに行くことが心底楽しみになっている。今はオレだけがお前を迎えに行けるのだという独占欲に満ちるこの気持ちは、……きっと、ヤエやゼオンの顰蹙を買うものなのだろうな。 inserted by FC2 system


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