湖底では奪われてしまう雨音

「──ねえ! 弓道場の前に、すごい格好良い人がいるんだって! 聞いた!?」
「私、海外モデルじゃないかって聞いたよ!? 見に行こうよ!」

 放課後、部活を終えて帰り支度を整えながらも携帯端末にデュフォーから連絡が来ていないか確認していたところ、──弓道場から外へと駆け出して行った後輩たちからそんな会話が聞こえてきて、思わず私はぎょっと肩を強張らせる。
 ──まさか、まさかね? とは思いつつも、今ほど彼女たちに上げられていた特徴に該当する人物に心当たりがありすぎる私は、慌ててメールを確認しようと端末を操作してみると、メールボックスの一番上に「雨が降っているので迎えに行く、弓道場の前で待っているから焦らずに来い」──と言う文章が見えて、しっかりと“答え”合わせの済んだ私は、弾かれたように荷物を持って、顧問や後輩への挨拶もそこそこに弓道場を飛び出したのだった。

「──デュフォー!」
「……、部活は終わったのか?」
「終わった、けれど……! い、いつから居たの!?」
「少し前からだ、お前の部活にも興味があったからな……」
「見てたの!?」
「ああ。外から少し、だが」

 弓道場の外に出ると案の定、軒下で雨を避けるようにしてデュフォーが其処に立っていて、生徒たちは色めきだっているものの、雰囲気のある彼には誰も話しかけられずに居たようで、……私はその光景を見て少しだけ、安心してしまった。
 いつから居たの、という私の問いに対してもデュフォーは平然としており、「守衛の許可証は受け取って入ったが、弓道場まで入っては流石に部活の邪魔だろ」「強豪校と聞いていたが、やはりお前の弓術が一番上手いな。頭一つ抜きんでている」「を校門まで歩かせては濡れるから、弓道場の外で待っていれば確実だっただろ」と、──事も無げにそう話しているけれど、そうしてデュフォーと話をしている間にも、生徒たちが遠巻きに此方を見つめているのがよく分かる。「あれ、三年のさんだよね?」「エ!? もしかしてさんの彼氏なの!?」「あんなハイスペック彼氏がいたんじゃ、そりゃ誰も勝ち目ないだろ……」ざわざわと聞こえてくるギャラリーの輪唱はやはり雨の音に遮られてはっきりとは聞き取れなかったけれど、──どう見ても、一刻も早くこの場を立ち去った方が良いということだけは明らかだった。……間違いなく、デュフォーとのやり取りは周囲の注目を、集めてしまっているから。
 とはいえ、それでデュフォーを責めたり、無理に引っ張ってこの場を立ち去ろうと言うのはお門違いだと、そう思う。
 だって彼は間違いなく、私を心配して迎えに来てくれたわけだし、……私だってその事実そのものは、ちゃんと嬉しいと感じていた。

「あの、来てくれてありがとね、デュフォー……帰ろうか?」
「ああ。……ほら、入れ」
「エ、あれ……傘、一本だけ?」
「スーパーに寄っていくんだろ? お互いに手が塞がると不便だからな、一本で十分だ」
「そ、それは確かに……?」
「そうだろ。……ほら、帰るぞ
「う、うん……」

 我が家に置いてある中でも一番大きなライトグレーの傘、──これも、数年前にデュフォーがこの町で暮らしていた頃、彼が使っていて、そのまま私の家に置いていったものだ。
 見慣れたその傘を開くと、私に入るように促しながらも、流れるような所作でデュフォーは私の手から弓具を奪い取って自分の肩に掛けて、私は慌てて傘の中に入り、──ひとつの傘の下で、彼と私との話し声以外はすべて、雨の音に遮られて聞こえないのをいいことに、周囲の視線を視界からどうにか振り切り、私はデュフォーと共に帰路に付いたのだった。
 効率主義でそう言っているのだと、デュフォーはまるでそんな口ぶりで話すけれど、私から弓具を取り上げた彼はきっと、スーパーで買い物を終えたらその袋だって私には持たせずに、自分で持とうとするのだろうなと、なんとなく、そんな気がする。

 放課後、窓の外に雨が降り始めたのに気付いて、今日に限って折り畳み傘も忘れてきてしまったから、私も流石に慌てたし、部活が終わる頃には上がっているかもしれないという僅かな希望に賭けながらも、……もしも、帰り際になっても雨が降っていたら、デュフォーに連絡してみようかと、ほんの少しだけそんなことを考えてしまっていた。
 ……きっと、デュフォーは、私が呼べば迎えに来てくれるのだろうなという確信を、既に私は持っているからこそ、……もしも、デュフォーが本当に来てくれたら嬉しいだろうなとそう思ったし、けれど、間違いなく彼は人目を惹くから、軽い騒ぎになるかもしれないし、そもそも、デュフォーは疲れて眠っているかもしれないし、──それなら、起こさずに休ませてあげたいし……そんなことをぐるぐると考えて、“答え”が出ないままで迎えた帰り際、デュフォーはとっくに迎えに来てくれていたというのだから、驚きだ。
 メール自体は少し前に届いていたけれど、聞いた感じでは、それよりも前から弓道場を見学していたような口ぶりだったし。
 そうして、ふたりきりの帰り道、……やっぱり、私はこのひとに、生涯敵わないのだろうなあと改めてそう思い、……その日々が文字通りに生涯であればいいと思っている自分にも、再度気付かされたのだった。

 学校の敷地内で周囲のどよめきに晒されていたときには、一体どうしようかと慌てたものだったけれど、学校を出てデュフォーと雨の中を歩いているうちに、次第に私も落ち着いてきた。
 これは、以前から思っていたことだけれど、デュフォーは何処か雨の日に似ていると、そう思う。
 冷たいだとか寂しいだとかそういう意味じゃなくて、……只、彼の隣は静かで、安心するから。
 まるで、世界中でこの傘の下だけが空間から切り取られたかのような錯覚にさえ陥る心地の良い静寂の中、「、今日の学校はどうだった?」「弁当、やはり美味かった。特にハンバーグの味付けが良いな」「弓術というのも、お前が練習しているのを見ると、結構面白いな」と、──何気ない日常の話をデュフォーが振ってくれたり、「デュフォーも今日は、何してたの?」「十分休めた? 時差ボケは直った?」「迎えに来てくれて本当にありがとう、嬉しかった」って、同じように、私もデュフォーに幾つものなんでもない話を投げ掛けたのだった。

 そんなことをしているうちに、次第にいつものスーパーが見えてきて、スーパーの軒下に私を入らせてからデュフォーは傘を閉じると、いつの間にか手馴れた風にカートを引っ張ってきて、傘や荷物と共に買い物かごを乗せて、二人で売り場を見て回る。

「夕飯、何食べたいか決まった?」
「イヤ……考えたが、色々と迷っている」
「迷ってる? 複数リクエストがあるっていうこと?」
「ああ」
「……ふふ、それでもいいよ。いっぱい作るから、何でも言って?」
「食べ切れないほど作っても無駄にするだろ、せっかくが作るのに」
「……そんなに色々リクエストがあるの……?」
「ああ。……そうだな、日に分けてリクエストしていいか?」
「え、……あ、そっか。まだ四日あるもんね」
「イヤ……しばらくはこのまま滞在していこうと思っている」
「……エ!?」
「もちろん、の都合が悪くなければだが……どうだ? その間の生活費は出すし、家事も協力するが。今日のように、迎えにも行く」

 スーパーの店内をカートを押しながらぐるぐると見て回り、食材を吟味している間に、デュフォーから思いもよらない提案があり、私は思わず傍らの彼を見上げたままでぽかん、と口を開けその場に立ち止まり、呆けてしまっていた。
 ……まだ、四日もいっしょに過ごせるのだと思って、今日は心底、家に帰るのが楽しみだった。本当は部活ももう引退していて、今は後輩の指導のために弓道場に顔を出しているだけだったし、顧問や後輩に断って偶には早く帰ってしまおうかとも思っていた。
 でも、狡いことをするのは得意じゃなかったから、簡単には切り出せなくて。……そんな風にほんの二時間程度の間でも、慣れないズルをしてでも、どうにかデュフォーといっしょに居られないものかと、私は頭を悩ませていたのに、……それなのに、あと四日じゃ、ないの? いつまでかははっきり言われなかったけれどこの口ぶりだと、……しばらくの間は、家に帰ればデュフォーが居てくれるの?

「……それとも、都合が悪いか?」
「わ、悪くないよ! 全然! ……好きなだけ居て欲しい、デュフォーが平気なら、私は……」
「……そうか。なら、厚意に甘えることにする」
「うん……いつまででも良いよ、いっしょに、居てほしい……」
「……承知した。……なら、ひとまず今夜のリクエストは……」

 その日のデュフォーからの夕飯のリクエストは、お鍋だった。それもシンプルな寄せ鍋が良いというので、「そんな簡単なので良いの?」と私は思わず訊ねてしまったけれど、デュフォーはそれが良いのだと言う。
 お鍋の具材は海鮮ときのことお豆腐とネギに、白菜、にんじんに水菜とこれまたオーソドックスなもので、カツオブシで出汁を取ってスープのベースにした。
 家に帰ってからキッチンで二人並んで、具材を切り分けたり出汁の用意をしてから、リビングのテーブルにガスコンロを出して、土鍋を乗せて、二人で寄せ鍋を食べる。
 あつあつのお鍋は雨で冷えた体をすっかり温めてくれたし、調理時間が短い分、デュフォーとゆっくり話が出来るのが嬉しくて、もしかするとデュフォーはそれを見越して、夕飯のリクエストをしてくれたのかもしれない。
 はふはふと息をしながらくたくたに煮えた白菜やネギと、ぷりぷりと口の中で主張する海老を噛み締めて飲み込み、「美味しいね」とデュフォーと笑い合いながら、ゆらゆらと薄く揺れる白い湯気の向こうにあなたが居る光景は、……不思議なくらいに、しあわせだった。

 突然、幸運にも降ってきた、この日々がしばらく続くと言う彼からの確約もきっと、旨味を増す調味料になっていたのだろう。
 自分でリクエストしたのに、「調理器具の名称を料理の名前にするとは、日本の文化は変わっているな……」と大真面目に零すデュフォーにちょっと笑ってしまったけれど、よくよく聞けば、数年前にモチノキ町で過ごしていた頃、みんなでお鍋を囲んだ記憶がデュフォーにとっては、とても大切で、今でもあれが楽しかったと思っているみたい。
 私はそんな風に、彼の心の柔らかい部分に自分達が居ることを再確認できたのが嬉しくて、思わず、「私もだよ」と、そう言ってまた笑ってしまって、デュフォーがこちらに居てくれる間に清麿くんも誘って、絶対にもう一度はお鍋をしようね、って。デュフォーと指切りをして、子供みたいな約束をしたのだった。 inserted by FC2 system


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