奪われた春がすぐそばにいる

 ──確かに、深く追求しないことに決めたのは私だし、この件に関してデュフォーを問い詰めることも彼を責めることもしない、と結論付けたのも私だ。……ただし、その代わりに今はデュフォーが何を想っているのかを考えることも、私から彼に何らかの返答を渡すこともしない。身勝手かもしれないけれど、今の私にとっては、ヤエの戦いのこと、魔界の存亡のこと、クリア・ノートとの戦いのこと、卒業後のこと──他に考えるべき課題が山ほどあるから。……デュフォーにだってそれは分かっているはずだし、きっと彼の方も私を問い詰めるような真似はしないと思う。以前よりも接し方は少し変化していたけれど、それでも、“あんなこと”は多分、もう二度としてこない、デュフォーだって、そのくらいは考えるはず、……って。

「……そう、思ったんだけどなあ……!?」
「ふぁひふぉいっふぇいふ」
「そ、そのまま喋らないでくれない……!?」

 もごもごと、辛うじて「何を言っている?」と聞き取れる彼の問いかけに、私だって同じ言葉を投げ返してやりたい。──あれ以来、少し油断するとすぐにこれだ。放課後、高嶺くんのお家でデュフォーからのトレーニング指導を受けている最中、「清麿、デュフォーくんとちゃんにお茶出してあげなさい」と、華さんに呼ばれた高嶺くんが少し席を外したタイミングで、「デュフォー、私の本の此処の部分、少し変じゃない? これ、もしかして術が出る予兆なのかな?」と問いかけたら「何処だ?」と言って私の側に身体を傾けて、本を覗き込むように顔を近づけて、……其処までは良かったのだけれど、何を想ったのか彼は突然、そのまま私の頬にするり、と指先を滑らせると顔を寄せて、──流石に私だって、何をされるか分かったもの! 自意識過剰だと思って呆けていたら、それどころじゃなくなるって、もう学んだもの! ──咄嗟にばっと両手を突き出して口元をガードすると、当然のように掌にデュフォーの唇が触れて、思わず心臓が跳ねる。……うう、気のせいって思いたかったのに、なんでえ……。

「デュ、デュフォー、あの、なんで……」
「お……おおお!? デュフォー、お前何考えてんだ!? から離れろ!」
「た、高嶺くん!? な、なんで……」
「そりゃオレんちだからな!? 大丈夫か!?」
「うるさいぞ、清麿」
「やかましい! てめえのせいだろうがよ!?」

 そんなことをしてわあわあ騒いでいたら、突然部屋の入り口でガシャン、と大きな物音が聞こえて。──そうだった、此処、高嶺くんのおうちで、……こんなことをしていたら当然、高嶺くんに見られてしまうのだと、ようやくそう気付いた私が、大慌てでデュフォーから手を退けてそちらを振り向いたら、呆然とした表情で高嶺くんが和室の引き戸を片手で開いたまま立ち尽くしていた。足元には高嶺くんが取り落としたらしいお盆と派手に割れたグラスに床に飛び散った麦茶と氷、大きな音と、それからほぼ一方的に言い争い始める高嶺くんとデュフォーの口論が聞こえたらしい台所の華さんからの「清麿ー!? アナタ何やってるの!?」というお叱りの声が家中に響いて、……うう、華さんになんてお詫びしよう……? と頭を抱えそうになる。まさか、馬鹿正直に「私がデュフォーにキスされそうになっているところを、高嶺くんが助けてくれました」なんて、言えるわけもないし。そんなことを華さんに知られたら最後、私はもう高嶺家に出入りできない……デュフォーは平気なのだろうけれど、私には人並みに羞恥心があるのだ。

「──で、確認するけど……その、はデュフォーと付き合ってる、とか、……そういうのじゃ、ないんだよな……?」
「ち、違うよ! ねえデュフォー!? 違うよね!?」
「ああ……特に交際はしていないな、……今はな」
「お、おお……分かった、其処に食い違いがある訳でもないのか……逆にすごいな、お前……」
「? そうか」
「言っておくが褒めてねえぞ!? ……まあ、言い訳くらいは聞いてやる……デュフォー、申し開きはあるか?」
「ないな」
「あるだろ!? な、なんであんなことしたんだよ!?」
「……が、可愛いと思ったから?」
「はぁあ!?」

 ──超理論、きっと彼にとっては非常に合理的な理屈なのだろうけれど、私と高嶺くんには全く理解できない独自の理論を展開してくるデュフォーを、高嶺くんはガミガミと鬼の形相で怒鳴りつけて、その余りの剣幕にだんだん私はデュフォーが気の毒になり「た、高嶺くん、私は大丈夫だからもういいよ……?」と言ってみたら、「は!? そうやってが甘やかすから、デュフォーが付け上がるんじゃないのか!?」って、……わ、私まで怒られて、流石にびっくりしてしまって、私が呆然と固まっていたら今度は、デュフォーが私を庇ってくれた。「……清麿、お前の方がを怯えさせているようだが」「ああ!? お、おお……ス、スマン、つい熱くなって……」なんて経緯で、次第に高嶺くんの怒りも収まってきたから、ともかくその日は、それ以上は不問、ということに、なったのだけれど……。

「だーかーらー! 高嶺くんにも言われたでしょ!?」
「……そうかもしれんが、清麿に文句を言われる理由が分からない」
「だ、だから……! よく分からない理由でこういうことするのは、だめなの……!」
「よく分からない理由……?」
「あの、その、このあいだ、言ってた……ええと」
「……ああ。今回は別の理由だが、それなら良いのか?」
「え」
「好きだと思ったから、に触れたい。構わないか?」
「かま……か、構わなくないよ! 構うよ……!」

 ──このひとは! また! そんなことを! 言って! ……その日は前みたいに高嶺くんが同席していなくて、だったらもっと警戒しろという話なのかもしれないけれど、友達に対してそんなに身構えるのも何か嫌で、でも案の定で、また前と同じようにデュフォーの顔が近付くのをどうにか抑えて抵抗して、……私、ちゃんと人間の言葉で説明してるよねえ!? なんて、ちょっと泣きそうになる。なんで? どうして? もしかして、私の表現が稚拙だとか不適切だとかでデュフォーに意向が伝わってないの? という可能性も考えたけれど、デュフォーに限ってそんなことはないはず。相手がどれほど拙くとも、このひとはちゃんと言葉の意味を適切に拾えるひとだ。

「……
「……だめ、だってば……」
「……なぜ?」
「だ、だって……」

 ──だったら、どうして。こんなにも、彼に言葉が伝わらないのだろうかと言えば、多分デュフォーにとって彼が私に向ける何らかの感情は、未知の存在だから、なのだと思う。「可愛いと思ったから」「好きだと思ったから」「触れたいと思った」というその言葉には本当に悪気が無くて、きっと、それ以上でも以下でもないのだと私もちゃんとわかっているけれど。……どうやって伝えれば、デュフォーがそれを理解してくれるのかが、私にはどうしても分からない。先日、高嶺くんに怒られたことだって、どうしてあんなに怒鳴られたのかを多分デュフォーは真に理解していないし、……多分、彼には物事の良し悪しがいまいち分かっていない、のだと、おもう。悪く言えば配慮に欠けて、良く言えばきっと彼は純粋なのだ。からからに乾いたスポンジのように、世界の様々を彼は実際に見て触れて吸収している最中だから、──多分、デュフォー自身が納得できない限りは、彼に真意は理解できない。……そうして、彼に何と伝えるのが適切なのか悩みあぐねている間に、再びデュフォーに視線を絡め取られて、唇が近付く。「……っ、う」……それで、なんだか、私は急に。堪らなく、悲しくなってしまった。……なんで、どうして、こんなにも言いたいことを伝えるのが私は下手なのだろう、だとか。デュフォーと仲良くしたい、力になりたいと思っているはずなのに、……私、こんなにも中途半端で何もしてあげられないし、何をしているんだろう、だとか。もしかすると、その中には決戦への焦りもあったのかもしれないし、……とにかく、なんだかもう、堪らなく悲しくなってしまって、ぶわ、と堰を切ったように涙が溢れて止まらない。そんな私をデュフォーは少しだけ目を見開いて見つめて、それから、ためらいがちに、彼の白く筋張った指先が私の目元に触れる。

「……?」
「……っう、でゅ、ふぉ、ごめ……」
「……そんなに嫌だったのか」
「……っ、う、う……」
「……もしかして、勝手にされるのは嫌なのか……?」
「……っ、うん、……や、やだ。だって、話、聞いてくれないんだもん……デュフォー、怖いよ……」
「……そうか、お前はそういう奴だったな……分かった、今後は気を付ける」

 そう言って、少しだけ惜しむような表情で私の頭に手を伸ばすと、宥めるように髪を撫でてくれる手を、……私、ちゃんと好きだけれど。そういうの、今はよく分からないし、まだ考えられない。だから、ちゃんと考えられるようになるまで少し待って欲しくて、けれど、私には以前にデュフォーの力になれなかったという負い目があるから、どうにも彼を拒みづらくて、そうやって曖昧な表現をするからうまく伝わらなくて。──今だって、デュフォーが少しでも分かってくれたことを只々安心していればいいのに、……なぜか私、幾らか眉を下げて納得の姿勢を見せる彼のことを、もういいよ、なんて許してしまいそうになった。

 それ以来、デュフォーは何かをする前には必ず「嫌ならやめるが」と、律儀にも私に確認を取ってくるようになったので、友達同士には不適切だと判断したスキンシップの申し出に関しては、「嫌に決まってるでしょ!?」なんて、しばらくは返していたのだけれど、……近頃、正直よく分からなくなっている。──あれ? 私、本当に嫌なのかな……? なんて、度し難くも混乱してきてしまっているのだ、私。

「……、どうした?」
「……なんでもない、よ……」
「? そうか」

 デュフォーが私に何らかの好意を向けてくれているらしいことを、……私、正直に言って心の何処かで、絆されているだけだとか、数少ない旧知だから情を抱いているだけだとか、少なからずそんな風に思っていた。彼のことを嫌いだったわけでは決してなかったけれど、幼い私にとっての初恋であった彼が、少し前までは命がけの敵対関係にあった彼が、その双方が私に恋をしているだなんて、余りにも非現実的な話に過ぎたのだ。……でも、本当に絆されているのは、一体どっちだったのだろう。どうして、彼が私に触れたくなるのかも、どうして、私が彼に触れられるのが嫌じゃなくなってきてしまったのかも、紐解けば簡単なことなのかもしれないけれど、今の私にはリボンを解いて封を開くほどの勇気も余裕も、備わってはいなかったのだ。 inserted by FC2 system


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