春の陽射しのような残り香

 私にとって、姉は絶対的な存在だった。なぜ、揺らぎがないものとして姉を認識していたのか、と言えば、それを説明するのは少し難しい。竜使いの血族に生まれた私と姉は、分家の人間で、生まれながらに一族の長になる運命を持たない子供だった。然しながら、直結の家に一番近いところにいる濃い血を持つのは事実でもあり、強くなりさえすれば、私達には相応の立場が与えられることを、私は子供の頃から知っていた気がする。族長になるのは、幾らか年上の従兄だとも知っていた。だからこそ私は、覆せない序列よりも、実力で覆せる立場を取ったのだ。ワタルよりも強くなって、私がフスベのジムリーダーになる。そして、そのときはあねさまも一緒なのだと、そう思っていたし、信じていた。……姉は、美しい戦い方をするひと、だった。姉は昔から周囲に比べて少し身体が弱く、そんな自身の特性を理解し受け止めた上で、必要最低限の動きと指示で、無駄が無く洗練されたバトルを好んだ。それは戦いというよりも、芸術と呼ぶに相応しいように思う。もしも、竜使いの家などに生まれていなければ、姉は今頃ポケモンコンテストの道を歩んでいたのかもしれない、なんて風に思ったのは、……そう、姉がこの家に縛られて不自由を強いられていたのだと、本当の意味で理解し、それを深く考えられるようになったのは、私がだいぶ大人になってからのこと。美しく聡明で、儚げに笑う姉を私は敬愛していた。私よりも強いからだとか、そんな理由じゃなくて。あねさまは、私よりもバトルが苦手で、背が小さくて、線が細くてか弱くて、それなのに、小さな背に手を引かれると、ひどくひどく安心して、おじいさまに叱られて泣き腫らした日も、従兄に完膚なきまでに叩きのめされて、悔しくて地団駄を踏んだ日も、あねさまの華奢で小さな手が私を迎えにきてくれることが、私はずっとずっと、本当に嬉しくて。……だから、姉は私の絶対だったのだ。おじいさまやワタルと違って、あねさまはいつでも私の味方でいてくれた。おねえちゃんなんだから、イブキちゃんの味方なのが当たり前でしょ、と。そう言って屈託なく笑うあのひとのまばゆい目が私はだいすきだった。わたしの、あねさま。世界でいちばんの、私の味方。あねさまが傍にいてくれないとイブキは何もできないの、不安なの、怖いの、って。子供みたいに泣いて暴れる事ができたなら、どれほど良かったことだろう。あのひとの、気高く美しい瞳が好きだったからこそ、結局私にはそんなことはできなくて、……もう、あねさまは、イブキだけのあねさま、ではなくなってしまったけれど。きっと永劫に、あのひとは私にとって揺るぎない美しさの結晶、なのだと思う。

「……イーブーキーちゃん!」
「……え、あ、あねさま!?」
「ふふ、難しい顔して考えごと? ジムのことかしら?」
「い、いえ、大したことでは……それより! 何故あねさまが此処に居るのよ!? 何も言ってなかったのに……っ」
「今日ねえ、ワタルくん出張で帰ってこないの。だから、イブキちゃんの顔を見に来ようと思って……」
「そ、それならそれで! 言ってくだされば私が迎えに行ったのに!」
「ワタルくんにも、危ないからそうしなさい、って言われたのだけれどね? イブキちゃんのこと驚かしたくて、私から来ちゃった。……ワタルくんには、内緒にしてね?」

 そう言って、いたずらっぽくはにかむと、ジム内の自室で書類仕事を片付けていた私のデスクの横に回って、人差し指を立てて唇に寄せ、ふわふわ笑うこのひとに、言ってやりたかった。それはワタルが正しいと、私が迎えに行くか他の人間を向かわせるか、方法はいくらでもあるが何れにせよ、……あなたは、私やワタルがあねさまに向ける執着を、てんで分かっていないからそんなことができるのだ、と。そう、言ってやりたかったわよ。ワタルがあねさまを一人で出歩かせたがらないのは、単なる独占欲でもあるのでしょうけれど、それ以上にあの男は自分が危ない橋を渡っている、という自覚があるからこそ、あねさまの行動を制限しているに過ぎないのだ。今日だって、出張、とあねさまに伝えたそれが、リーグからの正規の仕事なのかなんて、分かったものじゃない。何処でどれほどの恨みを買っているんだか、分かったものではないあの男の、最大の弱みは、私の姉だ。……そんな男に、姉を奪われた私の気持ちだって、あねさまは、てんで分かっていないじゃない。そうだ、あなたは何も分かっていない、だけど、私にだってあねさまの気持ちは全然わからない。わからないからこそ、ワタルには内緒、私と二人だけの秘密、なんて甘言にこんなにも揺さぶられて、何も言い返せなくなってしまうのだ。何かあってからじゃ遅いのに、何もなかったのなら、それで、なんて。また、私は姉のペースに流されている。

「……イブキちゃん? どうしたの? 気分、悪い?」
「……あねさま」
「なあに?」
「……今日は、屋敷に泊まっていくのよね?」
「ええ。この週末はワタルくんも帰ってこないから……イブキちゃんのお仕事がオフなら、明日にでも、一緒に出かけられたらと思ったのだけれど、忙しい?」
「……行くわ」
「もしも体調が悪いなら、無理しなくてもいいのよ?」
「そんなことないわ、平気よ。ワタル、今こっちにいないんでしょ。だったら行く、絶対に行くわ」
「……そう、なら何処に出かける? コガネでお買い物しましょうか?」
「するわ。あねさまと、お揃いのものを買うの」
「まあ、素敵ね。何が欲しいの?」
「それは決めていないけれど……前に、ワタルに自慢されたのよ」
「? ワタルくんに? なにを?」
「……あねさまと、お揃いだって……腹立たしくて、何だったかは忘れたけれど。だから私も、あねさまとお揃いのものを買うの。それで、ワタルに自慢してやるわ」
「……ふふ、なんだか今日のイブキちゃん、小さな女の子みたいね?」
「な、そ、そんなこと……!」
「おねえちゃん、嬉しい。イブキちゃんはもう、私よりずっと立派になっちゃったから……」

 あねさまは、ずるい。どんなに格好付けて、ワタルに張り合ってみたって、私じゃワタルには敵わなくて、あねさまの一番はもう私じゃないんだ、って。そればかりをどれほど、どれほど、悔しく思ったところで。虚勢なんかじゃ取り返せないこのひとは、私が“妹”の顔さえすれば、簡単に私に手を差し伸べてくれる。そんなんじゃ、もう優先度で一番にはなれないんだって思っているから、知っているからこそ、頑張っているのに、あなたに相応しく在ろうとしているのに。そんなものを全て手放し、投げ出したときばかり、あなたは私が欲しい言葉をこれでもかというほど、くれるのだ。冷たくて小さな手は、いつの間にか、私の手で包み込んでしまえるようになって。歳を重ねれば重ねるほど、姉妹になんて見えない、全然似ていない、なんて言われるようにもなってしまった。大人になれば嫌と言うほど、私と姉を世界が阻むようになって。……でも、結局このひとが私の一番近くに降りてきてくれるのは、私達が姉妹であるからでしかないのだろう。

「……あねさま」
「なあに? イブキちゃん」
「夕飯、久々にあねさまの作ったあれが食べたいわ」
「あれって、シチューのこと?」
「そうよ」
「モコシの実が入ってるやつ?」
「うん」
「分かった、作るね。イブキちゃん、あれ大好きだったものね」
「……あねさまが作ってくださるのが、好きなのよ」
「ふふ、ありがとう」

 もしも、私がワタルだったなら。きっとあねさまは愛したりしなかっただろう。けれど、もしもワタルが私だったとしても、それは同じなのだと思いたいの。せめてわたし、あなたの妹という特権だけは、誰にも渡したくないわ。 inserted by FC2 system


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