蝶になるから逃げたくないよ

 数多の命をこの手に掛けてきた、こんな私にも、初めて救えた命が、彼女だったのだ。

 ───軍医として、紛争地帯に赴くようになった、当初の事だ。運び込まれる怪我人の中に、きみが居た。出会った日の彼女は、酷い傷を負って、昏睡状態で、助かるか助からないかの瀬戸際にある患者を、私は必死で、此方側に呼び戻そうと躍起になって、───あんなに、人を殺して、それを生業として、歩いてきたのに。今更、何を言うのか、それは、贖罪のつもりなのか、と問われたなら。――あの日、私は、決して、罪の意識等という、安っぽい感情で動いた訳ではなかった、と。迷いなく、そう答える。只、あのとき。私は夢中で、何が何でも、彼女を死なせてはいけない、と。そう、思っただけなのだ。後悔をしたくなかった、だから、必死で助けた。それだけの、こと。

「…………う、」
「……おや、目が覚めた、かな?」
「……あ、」
「大丈夫かい? 気分が悪い?」
「あ、あなたが……」
「うん?」
「あなたが、たすけてくださった、の?」

 ───私が、助けた。ああ、そうだ、その通りなのだろう。私は彼女の命を救った、自らの意志でそうしたこと、なのに。───そうして、はじめて誰かの口からその事実を告げられて、私は、それはまるで夢のようだと思った。本当に、それが事実なのだろうか? 本当に、───私は、きみを救えた?

「……あり、がとう。せんせ……」

 ───あの時、私はきみの命を救って、きみは私を生涯の恩人だと、そう呼んでくれた。でもね、本当に救われていたのは、きっと、私のほうだったんだよ。きみを救ったことで、きみに感謝されたことで、私は、私の罪の幾許かを、許されたような気がした。誰かの命を奪った事実は、他の誰かの命を救ったところで、決して清算などされないし、されていいはずもない。私は、医師というこの道で、人々を救うことを、自らの贖罪としたかったのかもしれない。この十字架は、私が生涯背負うべきもので、この先も背負っていくつもりだ。けれど、そんな私でも、繋げるものがある、救えるものがある、───ならば、私はこの生涯を、人を救うことに捧げよう。それは、辛く険しい、困難の道かもしれない。その選択をしたところで、決して私は許されない。何も変わらない、それでも。
 これは、私が選んだ道で、───彼女が、背中を押してくれた道、だった。

 後悔は、ない。


「───せんせ! おかえりなさい!」

 ───後悔など、あるはずもないさ。

「ただいま、くん。これ、お土産だよ」
「わ、これ、駅前に新しく出来たパティスリーの……!」
「うん、きみが好きそうだと思ってね、私も気になっていたから。食後に一緒に食べようね」
「はい! あ、でも、今夜のお夕飯は、お鍋にしたんです。先生、食べたいって仰ってたから……ケーキには合わないですよね、ごめんなさい……」
「そんなことないよ? 私の為に用意してくれたんだろう? 嬉しいよ、具は何かな、寄せ鍋? 水炊き?」
「……今日は海鮮です、あと、ご飯も変わりご飯で、副菜は、」
「うん、美味しそうだ。では、冷めない内にいただこうかな」
「はい!」

 、私が出会った、あの日の彼女の名は、、だった。───そして、今の彼女は、神宮寺、と言う。
 戦争が終わり、当然、軍医は世界に必要がなくなり、私はその後、日本に帰国して、病院に属し医師を勤めている。そして、は、───紛争地帯に身を寄せていた、彼女は、帰る場所がないのだ、と言って、悲しそうに笑うものだから。私に手を引かれ、彼女もまた、私と共に、日本へと渡り、共に過ごしているうちに、現在は、夫婦という間柄に落ち着いていた。彼女を、海外から連れて帰ると決めたとき、些か、強引であるという自覚は、ままあった。だが、医師と患者、という立場を利用して、心的外傷の多く見られた彼女に、まだ私の側に居たほうが良い、などと、尤もらしいことを言って、更には、この関係にそれ以上の名前を付けたい、なんて言いくるめて、結局、今日に至るのだから、───私は、きっと、に、執着しているのだ。自分でも、恐ろしく感じるほどに。

「先生、このケーキおいしいです! いちごのコンフィが絶妙な甘さで、それに……先生?」
「ん? なにかな?」
「どうかしましたか? なにか考え込んでいるようなので……」
「……否、そうではないよ。きみが嬉しそうだと私も嬉しいな、とそう噛み締めていただけさ」

 愛らしい声で、先生、先生、と私を呼び慕われる度に、私という生を、肯定されている気がした。───彼女は小鳥だ、私の、小鳥なのだ。簡単に傷つき、羽根を手折られてしまう、か弱く小さな、私の小鳥。私は、私の鳥が一度、翼を千切られたのを見ている。───だから、この行為を、過保護だとか、異常だとか。外野にそんな風に揶揄されたところで、何とも思わない。何故なら、私達は、正しい。彼女の存在は、正しいからだ。

「……あ、先生、次のお休みは、来週ですか?」
「うん? そうだね、来週の水曜日は非番だよ。どこか行きたいところでもあるのかな?」
「はい、あの、シブヤに出来たお店で、」
「……シブヤ以外では、駄目なのかな」
「……あの、せんせ?」
「それは、なんのお店だい? 似たお店を探しておくよ、教えてもらえるかな」
「……はい。あの、せんせ、ごめんなさい、私本当は、先生と一緒に居られたら、それだけでいいの、どこにも行かなくてもいいの、でも……」
「気にしないで、も、偶には外に出たいんだろう?」
「……うん、寂雷さんと、おでかけしたかったの」
「ふふ、それは嬉しいな。では、来週だね、二人で街に出ようか」
「はい!」

 大切なものは、誰にも傷つけられたくないものは、丁重に、護らなくては。鍵を掛けて、大切にしまっておこう。そうすれば、二度ときみは傷付かない。そうして、私を救ってくれたきみを、私はきっと、生涯救い続けよう。 inserted by FC2 system


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