毒と蜜のファブリック

「──きみ! 此方に手を伸ばせ!」

 ──その日は、何もかもが、本当に唐突だった。仕事のお昼休憩時間に外を歩いていたら、いきなりヴィラン犯罪に巻き込まれて人質に取られて、あれよあれよと何も訳が分からないままにビルの屋上に連れていかれて銃を突きつけられて。……なんで、どうして? わたし、なにかした? って、状況の何も飲み込めないまま、只それでも、……ああ、もしかしなくても私、此処で死ぬのかな、って。そんな風に思って、怖くて怖くて泣きだしそうだったけれど、泣いたりしたら犯人の逆鱗に触れる気がしてそれも出来なくて、恐怖のあまりに永遠のように長く感じたその時間を急に破ったのは、現場に駆け付けたヒーローの介入によるものだった。──あっという間にその場を制圧したヒーローにほっと息を吐く間もなく、──どん、と。最後の悪足掻きとばかりにヴィランが私の身体を突き飛ばして、──私はそのままビルから転落する。瞬間、頭が真っ白になって、今度こそもうだめだと諦めかけた私に向かって、ビルの屋上に立つヒーローがそう叫んで、──必死で伸ばした手に結ばれていたリボンは、しゅるり、と伸びて伸びて彼の手に手繰り寄せられて、安全ネットのように私の身体を守る形で広がるリボンにその身を受け止められて、──次いで、ビルの上から飛び降りてきたヒーローに、「すぐに降ろそう、危ないから暴れないように」なんて声をかけられてから抱き抱える形で地面に降ろされる頃には、……私、もう何が何だか分からなかったけれど、ふらり、と力の抜けた足で揺らめく体を再度、がしり、と目の前のヒーローが受け止めてくれていたことだけは、確かだった。

「……怪我はなかったか? 何処か痛む箇所は?」
「あ、あの……わ、わたし……」
「……怖かっただろう、すぐに救出できなくてすまなかった」
「そん、な……っ、た、たすけていただいたのに……!」
「一般市民を助けるのはヒーローの責務だ。……しかし、きみを泣かせてしまったな」
「あ……」
「気に病むことはない、落ち着くまで此処に居なさい」
「……は、い……」

 そっと私にハンカチを差し出して、目の前のヒーロー──テレビでも見たことがある、ベストジーニストそのひとは、部下や現場に駆け付けた警察に幾つか指示を出すと、私が泣き止むまで、何も言わずに隣に座っていてくれた。……そのときの私には、それだけのことが何よりも嬉しくて、ひとりではきっと先程のことを思い出して蹲ってしまっていたのだろうに、ジーニストさんが、私を助けてくれたひとが隣にいてくれると、それだけでひどく安心して、一向に泣き止めなくなってしまった私に「気にしなくていいから、好きなだけ泣きなさい」と言って、……結局ジーニストさんは、サイドキックの方々が引き上げた後も私に付き合って、仕事場まで私を送り届けてくれたのだった。
 ──あのときに、彼から借り受けた、ぱりっとアイロンの掛けられた綺麗な紺色のハンカチは、まるで彼の人柄を表しているかのようで。……すてきなひとだったなあ、テレビの向こうで見る人気プロヒーローとしてしか彼のことを認識していなかったけれど、実際に相対して助けていただいたことで、私は急激にジーニストさんに憧れめいた気持ちを抱くようになってしまっていた。涙に濡れたハンカチはそのまま返すわけにもいかずに、気にしなくていいと彼には言われたし、返す術もないので洗ってアイロンを掛けて大切に鞄の中に仕舞ってある。

 ──さて、あの日、ジーニストさんに助けていただいたからと言って、その後も私の日常が大きく変わることはなく、……寧ろ今までと同じように日々を過ごせるようにしてくれた彼に感謝するべきだと思いながらも、私は特に変わらない毎日を過ごしていた。今日も仕事場で店番をしながら、手元に広げた仕事道具に目を落としていると、……からん、と店先のドアに取り付けたベルが鳴って、「いらっしゃいませ」と声を掛けた其処には、長身の男性が佇んでいたのだった。

「何かお探しですか?」
「……ああ、丁度通り掛かったものだから。……少し拝見しても?」
「はい、ごゆっくりどうぞ」

 ──金色の綺麗な髪を覆い隠すように、帽子を目深に被って目元にはハーフリムの眼鏡を掛けて、口元はマスクで覆う長身の男性は、じっと私を見下ろした……のだと思う、目が合わないのでよく分からなかったけれど、店内に入ると男性は一度静かに私を見つめてから、やがて視線を滑らせるように商品へと目を落とし始めた。

「……此処の商品は、すべてきみが?」
「え? あ、はい。そうなんです、私の個性で……」
「……リボンを生成する個性、といったところか?」
「はい。……特に役に立たない個性ですが、すべて一点ものなので、それを利用してアクセサリーや小物を作っているんです」

 あれ、どうしてこのひとは私の個性に見当が付いたのだろうか、と。そう、不思議に思いながらもお客様に追及をしては不躾だし、問いかけられた言葉への答えを、私は彼へと返すのだった。私の個性──“ラッピング”は、自身の掌からリボンを出すというそれだけの単純なもので、とてもではないけれどアタリ個性の部類ではないし、ジーニストさんたちみたいにヒーローになれるような素晴らしい力などではない。けれど、私はそんな何でもない自分の個性を自分なりに生かして、アクセサリー作家を生業として生計を立てているのだった。職場──アトリエと販売スペースとを兼ねた小さなお店でリボンを編みながら送る日々は何気ないけれど、私は自分のこれっぽっちの個性でも、私の作った品を手に取ったひとが笑顔になってくれるのを間近で見られるのが嬉しいから、今の生活が好き。……だから尚のこと、私のこんなにも些細な日々を守ってくれたジーニストさんに、私は感謝しているのだ。

「……そうか、先日のリボンは、やはりきみが」
「……? ええと、以前お買い上げいただきましたか……?」
「いや……滑らかながらしっかりとした質感、手繰り寄せた瞬間に、一般で流通している品ではないと確信したのだ」
「? ……あの……?」

 目の前のお客さんは、なんだか不思議なことを言っていて、でも、ご本人は何かに納得された様子でうんうんと頷いている。……静かに伏せられた目元の睫毛が長くて、……あれ? と、私はそこで、ようやくこの男性の持つ謎の既視感に気が付いた。長い睫毛に縁取られた涼やかな目元と、さらさらのプラチナブロンド。──どうしてすぐに気付かなかったんだろう、いつものコスチュームじゃないからって、……でも、ラフな私服姿も決まっていて、格好良くて、……じゃなくって。……だって、もう二度と会う機会はないものだと思っていたから、……彼は私とは別世界に生きるひとなのだと、そう思っていたから。

「え、あの、……ジーニストさん、ですか……!?」
「……今日はヒーロー活動はオフなものでな。店内に他の客がいないとはいえ、ヒーロー名で呼ぶのは遠慮願えるだろうか」
「あ、……は、はい。ごめんなさい……!」
「気に病まないでくれ。……そうだな、私のことは袴……」
「……?」
「……いや、維、と呼んでもらえるか?」
「維さん、ですね! あ、あの私、これ、名刺です……」
「……、と言うのか……なるほど、綺麗な名だ。きみによく似合っている」
「あ、ありがとうございます……!」
「私も名刺を渡しておこうか。ヒーロー活動時のものだが」
「え、いいんですか? ぜひ、いただきたいです……!」
「ああ。どうぞ」

 ──まさか、ジーニストさんともう一度会えるなんて思わなくて、それどころか、名刺交換までしていただいてしまった、なんて。……わたし、一般人なのに、プロヒーローの名刺なんていただいてしまって良いのだろうか!? と、慌てはするものの、受け取ってしまったそれはどうしようもなくきらきらと輝いて見えて、ああ、きっと宝物にしようと、そう思って。……そう、思ったところで、思い出す。そうだ、ジーニストさんにお借りしたハンカチが、私のバッグの中に入っているのだった。もうお会いする機会なんてないだろうから、返すことも出来ないだろうと思っていたけれど、目の前にご本人が現れたとなっては、事情が変わってくるというものだ。

「あの、ジ、……つ、つなぐさん!」
「何かな、
「あの、先日お借りしたハンカチ、洗ってアイロン掛けてあるので、お返しします……!」
「ああ、あれはきみに譲ると言っただろう? 気にしなくとも構わない」
「で、でも……あの、もしも人の手に渡ったものは使えないのでしたら、新品を買ってお返しします」
「そんな必要はない。私は潔癖ゆえに断っている訳では無い、一度自分で言ったことは通す、と言う意味だ。きみが気にすることでは無いよ、
「……そんな……」
「きみこそ嫌ではなければ、取っておいてくれ。迷惑なら処分してくれても構わない」
「迷惑なんてこと……それなら、あの、いただいてもよろしいんでしょうか……?」
「ああ、是非ともそうしてくれ」

 正直に言うと、あの日に助けていただいてからずっとジーニストさん──維さんのことを忘れられずにいる私にとっては、思い出の一頁としてこのハンカチを持っていることを許されたというのは、非常にありがたいことだったのだけれど。……けれど、ハイブランド製のハンカチにはオーダーメイドなのか、彼のヒーロー名が刺繍してあって、とてもではないが、それは気軽に貰ってしまっていいようなものには思えなかった。たかがハンカチなのかもしれないけれど、私と彼はそもそも親しい間柄ではなく、プロヒーローと救助された一般人、でしかないというのに。だったら、せめて何かお礼をさせてほしいとそう思うけれど、私がそう申し出たところで多分維さんは受け取ってくださらないような気がする。そんな葛藤を前にどうしよう、と私が悩んでいると、維さんはガラスケースの中に並べられた私の作った作品を眺めて、ほう、と興味深そうに感嘆を漏らすのだった。

「……なかなか細やかな細工がしてあるな。リボンに合わせて糸の種類や色も変えているのか」
「……ファッショニスタの維さんにお見せするには、恥ずかしいものばかりですが……」
「そんなことはない。一芸は極めれば何者にも替え難い個性となる……の作品からは、それを感じる。素晴らしい才能だ」
「ほ、褒めすぎですよ……!」
「……特にこのタイピンは良いな。華美すぎず、かと言って地味でもない……」
「スーツ、お召しになる機会多いんですか?」
「あまり想像は付かないだろうな。ヒーローというものも、フォーマルを要求される席は度々あるのだよ」
「そうなんですね……やっぱり、お忙しいんですね」
「まあ、我々が暇を持て余すような世の中になれば……と同僚が言っていてな。私も、いずれはそのようになればいいと思っている。その日まで、ヒーローとして励むのみだ」
「そっか……お忙しいのですし、偶然でしょうけれど、お会いできて本当に良かったです。ちゃんとお礼、言えずじまいだったので……」
「……何も、礼を言われるほどのことはしていないとも。安全に救助できたのも、のリボンの品質あってのもの……きみのそれは、素晴らしい個性だ」

 なんだか、びっくりするほど褒められてしまって、些か動揺する。維さんの個性は、繊維を操るものだったはずだから、あの日に私が腕に巻いていたリボンに真っ先に気が付いた彼は、「此方に手を伸ばせ!」と瞬時に下した的確な判断で、私のリボンを手繰り寄せた上で救助ネットを編み上げて、私を助けてくれた。その際に触れたリボンの質感が素晴らしかったからと言って、私の作ったアクセサリーにまで目を向けてくださっているこのひとは、世界を股に掛けるスーパーモデルな訳で、装飾品など飽きるほどに見慣れている筈で。私を元気づけるためでもあるのかもしれないけれど、そんなひとから自分が手に掛けた品を賞賛されては、まずはどうしたって嬉しくなってしまうもの。思わず緩みそうになる頬を抑えていると、ガラスケースに目を落としたままで維さんが「丁度良かった、タイピンをどれか購入させてもらうとするか……」と零したのが聞こえて、……これだ! と、そう思った私は、慌てて維さんに声を掛けたのだった。

「あの! ……よろしければ、私からひとつ、プレゼントさせてください!」
「……いや、お代は払おう。商品である以上、正規の形で購入させてほしい。一顧客を贔屓させるというのは、私の主義に反する」
「私が、受け取っていただきたいんです。……それとも、御迷惑でしょうか? それなら、処分してくださっても構いませんから」
「……そう言われてしまうと、返す言葉が無いな……」
「受け取っていただけますか?」
「……仕方ない、受け取ろう」
「よかった! どちらにいたしましょう?」

 半ば強引な提案だったけれど、どうにか維さんに頷いてもらえたお陰で、目的が達成できそうでほっと胸を撫で下ろす。……まさか、自分か手掛けたアクセサリーをプロヒーローの手に取ってもらえる日がくるとは思っていなかったし、ましてやあのベストジーニストに、……今となっては憧れのひととなってしまったこのひとに持っていて貰えるというのは、どうしたって嬉しい。私の作ったタイピンを維さんが身に付けている姿は、私には拝むことも叶わないのかもしれないけれど、それでも。……もしかすると付けてくれているかもしれないと、そう思えるだけでもそれは幸せなことだから。維さんはどれを選んでくれるのかなとわくわくしながら問いかけると、維さんは何やら閃いたように目を瞬かせて、くるり、と私へと向き直るのだった。

「そうだな……、このリボンはすべて一点ものだと、そう言っていたな?」
「? はい、そうですよ」
「それは、どのような原理で?」
「ええとですね……私のコンディションや気分が反映されて、生成されるリボンの生地感や柄、装飾なんかが変わるんです」
「ほう? それは興味深いな」
「だから、同じリボンは二度と作れなくて……そういう意味で、基本的にはすべて一点ものになります」
「……なるほど、そういうことなら……」
「? はい」
「……もしもきみが、私のことを考えながらリボンを織ったのなら、どのような品になる?」
「え、……そ、それは、どうなんでしょう……?」
「非常に興味深いと思わないか?」
「そ、そうですね……?」
「ああ。……、この中から選ばずに、新たにオーダーすることは可能か? 納期などは、きみの都合に合わせよう」
「え、あ、はい。新たにお作りすることは可能ですが……」
「そうか。……では、頼めるな? 私は、きみが私を想って作った品が欲しいんだ、

 ──そんな風に、言いたいことを一方的に言って、「完成したら取りに来るので、此処に連絡をくれ」と、私に渡した名刺の裏に手書きの筆跡であらかじめ書かれた携帯番号を指差して、「私用の番号だから、時間帯だとかを気にする必要はない。……では、連絡を待っている、」──そう言い残して、嵐のように維さんはお店から去っていった。──いまの、なんだった、の? 維さんのことを考えながら編んだリボンでタイピンを誂えて欲しいとそう言われて、その語気の強さに思わず頷いてしまったけれど、……そんなのって、どう考えたって。……維さんへの好意の溢れた、とっても恥ずかしい色とディテールになってしまうのでは、ないの?

「ど、どうしよう……?」

 ──維さんは、一体どうしてそんなことを? そもそも、どうして携帯番号なんて、書いてあったの? ……と、そう問いかけたくても、どうやらもう退路は断たれてしまったらしい。とっても優しいヒーローなのだと夢を抱いていたあなたの、思いがけない残酷さを知って、……それでも逸る心臓を、私はどうすればあなたから隠し通せるのだろうか。 inserted by FC2 system


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