海の見える町に越していったあなたへ

 例えば、朝、目が覚めたとき。隣にお前が居るだとか、そんなひとつひとつの、当然になったことに、未だ、不慣れな俺が居る。

「あ、銃兎さん。おはよう」
「……お、はよう、ございます」

 ───そんなことにすら、慣れないままだというのに、そりゃ、慣れる筈もないだろ。朝、寝室を出て、顔を洗って、リビングに向かうと、ふわん、と朝食の匂いが漂ってきて、柔らかく微笑む、誰かが、───おまえが、居ることになんて。慣れる筈も、ないのだ。

「今日の朝ごはんはね、和食にしたんですよ。この間銃兎さん、お味噌汁おいしいって言ってくれたから、好きなのかなーって思って。お味噌は赤味噌で、具はね、菜の花とね、」

 俺は別に、特段に味噌汁が好きなわけじゃなかった。只、の言う“この間”のことは、よく覚えている。───その日も、彼女が、朝食に和風の献立を作っていて、俺は、自宅のキッチンから漂う、そのにおいで目が覚めて。───その事実に、どうしようもなく、胸が詰まって、噛みしめるように、食事を口に運んでいたのを、どうやら、注意深く、は見ていたらしい。

「あれ、もしかして、お味噌汁、別に好きじゃなかったですか?」
「いえ、さんの作る料理なら、なんでも、好きですよ」
「うーんと、そういうこと聞いてるんじゃないんですけどね……」

 昔、付き合い始める以前は、軽口だと思われていたこともあったようだが、その後、彼女との交際を経て、現在、結婚後に至っても、相変わらず、何かにつけて、に愛を囁かんとする俺を、はといえば、特別、咎めるわけでもなく、ただ少し、照れた素振りで、彼女が俺の言葉で、顔色を変えてくれるように、なったことだって。俺にとっては、どれほど大きいことだったか、分かったものではないのに。───現在、互いに、以前、住んでいた部屋から、引っ越して、ヨコハマに新居を構え、ふたりで暮らしているが。それを機に転職したは、労働環境が改善されたことで、自分の時間が取れるようになったことが、余程嬉しかったらしく、こうして毎朝、朝食に時間をかけてくれるようになったのだった。

「銃兎さんは警察官だから、体が資本だものね。朝からしっかり食べてもらわないと」

 ───全く、それならそれで、自分のために、時間を使えば良いものを。ったく、いつからそんなに、尽くす女になったんだよ、お前。甲斐甲斐しいのは、元からそうだったが、その対象が、しっかりと、俺になったのだ、ということを、実感する度に、俺は、頬が緩んで、胸が苦しくなる、というのに。然程気にしない様子で、なんでもないことのように、お前は言うのだ。

「毎日すみません、せめて片付けは私がしますので」
「気にしなくていいのに、って言いたいところだけど、それはお願いしますね。無理しない程度が、長続きするコツ、って銃兎さん、言ったものね」
「ええ、あなたはすぐに、抱え込みすぎますので」
「う、銃兎さんにそう言われると、まあ、良い返せませんけど……」

 結婚前は、キッチンに並んで、彼女の手伝いをしたりもしていたが、最近ではめっきり、そんなこともしなくなった。面倒臭がっている、と言うわけではなく、ただ単純に、料理に関しては、俺が手伝っても邪魔なだけだ、と気付いた、のだ。は、料理が上手い、手際も良いし、味付けも文句の付けようがなく、何が食べたいか聞かれて答えれば、ちゃんとそれが出てくる。彼女も一人暮らしが長く、元々、家事が嫌いではない性分だったそうだ。一人が長い、という意味では、俺も同じだし、寧ろ、単純な時間の話なら、俺のほうが、長いだろう。料理も洗濯も、自分でやるしか無かったから、一通りのことは、まあ、当然ながら、自力で出来る。
 ――だが、と出会ってから、というか。具体的にいうと、彼女の手料理を、食べるようになってから、ようやく。───俺は、自分の料理が別段、美味くも不味くもない、ということに気付いたのだった。

 ……まあ、その事実自体には、とっくの昔に気付いてはいたの、だが。俺が知っていたのは、外で食う飯と比べたら、自分で作る飯は味気ないし、美味くない、ということだけだった。かと言って、他人の手料理を食ったことがないわけでもないし、それこそ理鶯だっているのだが、まあ、理鶯の料理は、少し特殊なので、例外とする。───俺は、早くに両親を亡くして、天涯孤独の身、だったから。所謂、家庭の味、というものの、記憶がなく、世間一般でいうところのそれ、皆が思い浮かべるその味が、どういったものであるのか、知らなかったのだ。料理も家事も、誰かに習ったわけではなくて、只、勉強と同じように、本に書いてある通りに、身に着けて行ったに、過ぎなかったから。
 ───と、共に過ごすようになって、初めて知った。自宅の食卓、見慣れた食器に盛られた、特別でも何でもない、いつもの食事、というものの、味を。それがどれほど美味くて、嬉しいものなのか、初めて知ったのだ。彼女の料理の腕が、優れていたから、俺が家庭の味に、飢えていたから、───この俺が、こんなにも、誰かに惚れ込むとは、思いもしなかった、と。───そう、言えるほどに愛した、彼女の手料理だから、だったのか。きっと、そのどれもが、あの時の感情の理由に、相応しいのだろう。

 そうして、俺があまりにもべた褒めしたりしたものだから。それに、実際俺の料理は、にとっても、あまりピンとこない味だったのかもしれない。ともかく、以来、料理の担当は殆どに任せるようになった。その代わりに、ゴミ出しだとか洗濯だとか、後片付けだとか。力仕事やら、手の荒れる仕事は、極力、俺が片付けるようにしている。

「ねえ、銃兎さん」
「はい? なんです?」
「銃兎さんは、えーと、例えばね、私の作ったもの、以外だと、何が好き?」
「そうですねえ……まあ、強いて言えば、私は、あなたが好きです」
「そうじゃなくて! 料理の話です! もー!」

 口ぶりでは、少し怒ったように。されど、詠う声色は、楽しげに、くすくすと、笑い声混じりで。───本当だよ、俺が好きなのは、何よりも、お前だよ。お前が、俺のそばにいてくれたらなあ、と。数え切れぬほどに願った、もしも、が、現実になったこと。今だって、俺はずっと、夢を見ているんじゃないかと、そう思ってしまう。けれど、ダイニングから眺める、キッチンに立つ、後ろ姿。ネイビーのエプロンを付けた彼女の、薄い肩が揺れて、ふわん、ふわん、と、あまいたまごやきの香りが、漂ってくる。干物の焼ける香りと、炊飯器からは、炊きたての米の香りと、───それから、目を覚まして真っ先に香った、味噌汁の、やさしいにおい。

 ───本当なんだよ、
 味噌汁の匂いで目が覚めた、なんて。俺は本当に、記憶のある限りでは、そんな経験、お前と暮らしはじめるまで、したことがなかったから。そんな、当たり前、平穏、日常の代名詞のような朝を、祝福じみた日々を、まさかこの俺が、迎えられるようになるなんて、思わなかったから。───その相手が、お前で良かったと、本気で想っている。

 ───格好悪くて、情けなくて、こんなダセェ話、お前には言えねえけど、さ。

さん、出来たようなら、私、運びますよ」
「あ、お願い……」
「? さん?」
「……ふふ、銃兎さん、ここ、寝癖付いてるよ」
「……え」
「いつもは整えてから、出てくるのに。お腹すいて、慌てちゃった?」
「……これは、失礼しました。私としたことが……」
「はい、ちょっとかがんで」
「はい?」
「直してあげる」

 俺より、だいぶ背の低い彼女が、そっと腕を伸ばして、あちこちへと跳ねた、俺の前髪に触れる。にこにこと、嬉しそうにしているに、首を傾げたくなるものの、正直、それどころではなかった。───付き合い始める前から、ずっと。俺はの前では、格好付けきって、頼れる男、でいようと、気を張っていたから。間抜けな姿なんか、見せたことねぇし、これからもそれは、変わらない筈、だったのに。───あまりにも、彼女の隣は、居心地が良くて。気が抜けた、なんて、そんなことが。

「……はい、いつもの格好良い銃兎さんのできあがりです」
「……ありがとうございます、明日からは気をつけますね……」
「……気をつけなくても、いいのに」
「……はい?」
「銃兎さんが嫌なら、今のままで良いんだけどね。私は、銃兎さんがね、私の前で無防備だと、嬉しいから」
「……嬉しい、ですか?」
「うん、気を許してくれてるんだなあ、って」
「な、……何を今更、気を許してる? 当然でしょう、私は、あなたを信じていますから」
「私もです。だから、銃兎さんの好きにしていいよ。……でもね、私は今みたいなの嬉しいな。あと、いつもの敬語じゃなくて、口調が崩れた時の銃兎さんも、私、好きよ」
「そ、れは、恐縮です……」
「銃兎さんね、口調崩れると、私のこと、、って呼び捨てになるの」
「は?」
「私、それが好きでね、嬉しいの」
「……ハァ、本当に、男の趣味悪すぎるだろ、お前……」
「そうかな?」
「……
「! はい、なに、銃兎さん」
「……銃兎」
「?」
「銃兎、だろ」
「……じゅう、と」
「ん。飯、美味そうだ。冷める前に食っちまうか」
「……うん」

 今が幸せすぎるから? この日々が、まるで夢のようだから? それも勿論、あるのだろう。だが、それ以前に、俺もお前も、きっと、そんな幸福に不慣れすぎるのだ。多分、この先も俺は、お前には、良い格好を、見せようとしてしまうことだろう。好かれたくて、必死なのだ、俺は。もうとっくに好きだと言われても尚、もっと、もっと、と。そう、求めてしまうほどに、彼女に溺れている。――まあ、だからこそ、ご要望にも、少しずつ、応えようか。───それが嬉しかったのは、俺も一緒、だったから、さ。 inserted by FC2 system


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