純白なんて迷信を信じているの

 僕の前に彼女が現れたあの頃、僕はフォンテーヌへと越してゆく母を見送ったばかりだった。
 その女の子は僕よりもずっと年下で、教令院には飛び級での入学で、彼女はスメールシティに一人で暮らしていて、偶然にも彼女の家は僕の自宅の隣で、不動産の売買が盛んだったその時期、丁度空き家になっていた隣へと彼女は越してきたのだった。
 彼女は名前をと言う。スメールでは馴染みの薄いその名前の響きは、どうやら彼女が生まれ育ったフォンテーヌのものらしい。
 ──そうだ、はフォンテーヌから砂漠を越えてスメールにやってきた女の子だった。
 ……故に、彼女こそは蜃気楼の向こうへと見送った僕の大切な人たちの代わりに、僕の元へと遣わされてきた存在だったのかもしれないなんて、……もしもそんな風に、自分にだけ都合のいいものの考え方が出来ていたのなら、僕は今よりもずっと気が楽だったのかもしれないな。

 飛び級で教令院に入ってきたはアルハイゼンと同学年で、十代の学生も多い教令院全体で見ても、彼女は特に年若い部類だった。
 僕がと出会った頃、彼女はまだ一桁の年齢で、だと言うのに彼女は親元を離れて教令院に進学し、スメールシティで一人暮らしをしていたのだ。
 彼女は神童と呼ばれる部類の人間で、フォンテーヌに暮らしていた頃からずっと、周囲はのことを特別扱いしていたのだと、後に彼女から教えてもらった。
 周囲にとってそれはへの信頼だったのかもしれないし、彼女の両親だって、何も娘が憎くて教令院に入れたわけでも、気に掛けていないからこそ娘を一人暮らしの環境に置いたというわけでもなかったのだろう。
 只、彼女は“特別”な存在なのだと周囲は考えて、そう信じていたからこそ、フォンテーヌで同い年の子供たちの中に埋もれさせておくのも、見ず知らずの他人の家に下宿させて窮屈な想いをさせるのも、の為にはならない筈だと、そう考えただけの話で。──それはきっと紛れもない優しさに由来した孤立だったからこそ、聡明な彼女にはそれさえも理解できていたから、周囲の望む彼女で在り続けようとしていたのだろう。

 ──そして、実際の彼女は、本当はそうも達観して大人びた子供などではなかったと、きっとそれだけの、ちょっとした掛け違いだったのだ。
 天才とは一般に理解されないものだと言う考えを僕は認めたくないが、幼い頃のが置かれていた環境は、確かにそれに近しい場所だった。……だからこそきっと僕は、彼女を其処から引き上げてあげたかったのかな。

「──君、フォンテーヌから留学してきたんだって?」
「!」
「ああ、ごめん。読書の邪魔だったかな、出直した方がいいか?」
「……邪魔、じゃないです……あの、ええと……」
「それなら良かった! 僕はカーヴェ、一応は君の先輩になるかな、派閥は違うと思うけどね。あと、それから……」
「おとなりのお兄さん、……ですよね……?」
「! 知っていたんだ?」
「いつもトンカン、って音が聞こえてくるから……」
「え!? そ、そうだったの……? ごめんね、うるさかったよな……?」
「ううん、賑やかなので、うるさくはないです。……あの、お兄さん、いつも、何を作っているの?」
「ああ、僕は妙論派でさ、今作っているのは、これが設計図で……」

 ──幼い女の子が親元を離れて他国で一人暮らしだなんて、困っていることはないかな、不安だったりしないかな。……けれど、僕がそうして気にかけることは才女としてのプライドを傷付けることになってしまうかもしれない。教令院に飛び級で入学してくるような少女が普通の子供な訳が無いと考えるべきなのかもしれないし、子供扱い扱いで馴れ馴れしくされるのは彼女にとって屈辱であるかもしれない、……なんて、そんなものは本当に、すべてが杞憂だったな。
 幾つかの葛藤ならば僕にもあって、只それでも、僕はきっと彼女を放っておけなかったのだろう。だからそれからの僕は、積極的に彼女に関わるようになった。
 教令院のどの場所で見かけても、いつもはひとりでぽつんと本を読み耽っていて、……そう言うところは少し、アルハイゼンに似ていて。けれど、あいつと彼女の決定的な違いは、“孤高の天才”と言う周囲に貼られたレッテルに対して、──は確かに居心地の悪さを覚えていたと言う、何よりもその一点だった。
 親元から離れてひとりで暮らしているのも、いつ見かけても他の学生といっしょにいるところなどは見たことがなかったのも、いつもひとりでいるのも……きっと、すべては彼女が自ら望んだこと等ではなくて、只そういった環境に身を置いても平気なものとして周囲がを扱ったから、彼女はそれに甘んじていたという、きっとそれだけの話だったのだろう。
 
 僕がはじめて彼女に話しかけたその日以来、僕はの姿を見かける度に彼女へと話しかけて、それを繰り返しているうちにも僕の前で積極的に話をしてくれるようになってきて。そうして、僕がひとりのときには彼女の方からも話しかけてくれるようになってきた頃合いで、僕はを人の輪の中に引き入れようと試みたのだった。
 何も彼女は一人が好きなわけでも他人が嫌いなわけでもなくて、話の中に、人の輪の中に入る方法が分からないだけだ。彼女が「天才だから」「子供だから」と周囲に遠ざけられていることを聡明なには理解できていたからこそ、彼女は無理に他人に近寄ろうとしなかった。
 けれど、「子供だから」「天才だから」こそ、実際に話をしてみるとは非常に優れた人物だとよく分かるし、実際に彼女と話していると僕もとても楽しかったのだ。
 僕は普段から熱が入ってひとりでヒートアップしてしまう節があり、学友たちを度々置いてけぼりしてしまうのが良くないなとは思っているが、に関してはそんなことも一切なくて、むしろ僕の提唱する議題に対して真新しい着眼点から返してくれることもあったから、彼女は周囲が思うような人物ではなく、こんなにも愉快で素晴らしいひとなんだと皆に伝えたかった。……だから、次第にが年齢や能力の差で周りから遠巻きにされることもなく、院内のあちこちで友人たちと話しているところを見かけるようになったときには、まるで自分のことのように、嬉しかったなあ。

「──カーヴェお兄さん、今夜おうちに行ってもいい?」
「今夜かい? 構わないけど、何かあった?」
「ううん。……ただ、いっしょにご飯、食べてほしくて……」
「……そうか、それは助かるよ。僕もひとりで食べるのは寂しいなと思っていたところだったんだ、ありがとう、
「! ほんと?」
「ああ、本当さ!」

 ──それにさ、確かにあれは、僕の本当の気持ちだったんだよ。
 彼女と親しくなってからと言うもの、ホームシックなのか、度々僕の家にが訪ねてきてくれる度に、……既に僕以外の誰も帰って来なくなっていた、冷え切ってがらんどうの家の中に彼女が熱を運んでくれるその事実に、あの頃の僕がどれほど救われていたか、なんて。
 ……とてもじゃないけれど、今でも君には、やっぱり言えないな。
 は僕を頼ってくれていたのに、彼女の前では良いお兄さんで居たいのに、……本当は僕の方がずっとずっと、小さな彼女に救われていたなんて、余りにも格好悪くて彼女には、言えない。
 
 は、からからに乾いていた僕の心に水を運んで、ヒビが入って砕けてしまわないようにと、なめらかなやさしさで満ちた日々を僕にくれた。
 僕の大切なひとたちは皆砂漠の向こうに行ってしまって、自業自得にもひとり取り残された僕の前に現れた彼女は、なんとあの砂漠の向こうからやってきたのだ。
 やがて彼女は教令院を卒業した後もスメールに残ることとなり、今でもお隣さんだったあの家に彼女は住んでいる。
 ──そうだ、僕にとって蜃気楼の向こう側に消えてしまわなかったのは、だけだった。
 だからこそ僕は、──いつかは彼女も、砂漠の向こうに消えてしまうのかな、だなんて。……或いは、そんな風に、思ってしまっているのかな。
 今ではもうも子供じゃなくて、君は既にとても魅力的な女性に成長したことも、いつか君には僕よりも大切な相手が出来ることも、兄として一歩離れた場所から見守るのが正しいことで彼女の為なのだと言うことも、ちゃんと分かっているさ。
 それなのに僕は、……どうか、君だけは僕の前から居なくならないでほしい、だなんてそんな風に心の何処かで願ってしまっている。
 僕にとって君は既に家族にも近しい存在で、大切な妹で、大切な女の子だからこそ、……僕が君から自由を奪うだなんて、何よりもあってはいけないと、確かにそう思っているのにな。


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