傷つけられるための余白

※魔神任務三章の内容を含みます。



「──は……?」

 砂漠での仕事を終えてシティに戻ってきた僕はまず、アーカーシャ端末が使えなくなっていることに大層驚いた。
 それ自体はまあ、自分で調べたり考えたりをすればいいだけの話だけれど、便利だったのは確かだし、スメールでの生活を送る上で、それに依存していたひとたちだって決して少なくはないことを、教令院での学生時代を過ごしたからこそ、僕はよく知っている。
 つまり、アーカーシャに依存していたのは、教令院の人間だって同じだということだ。
 だと言うのに、アーカーシャの停止なんて、よくもまあ賢者の連中が承認したものだと思ったら、──なんと、僕が砂漠に出向いている間にアーカーシャどころか、賢者たちまでもが軒並み失脚していた。
 そうして、大賢者までもがシティを去った結果、よりにもよって現在、代理賢者にアルハイゼンが就任しているというのだから、心底耳を疑ったとも! ……まったく、一体何がどうなっているんだ、やっぱり、アルハイゼンが僕を騙そうとしているんじゃないのか、……と、本人にも問い詰めたしあちこちで聞いて回ったけれど、……どうやら、アーカーシャの停止も賢者の失脚も事実であるようで、……僕が不在の間に、シティでは大変な事件が起きていたようだ。

「……大賢者の失脚は、君にとっても朗報だと思うが」
「は? どうして僕が……アザールを支持をしているわけでもないが、個人的な私怨だって持ち合わせていないぞ、僕は」
「知っていたか? 賢者連中はスメールの衰退に焦った結果、他国から才あるものを集めていたらしい」
「……? 何の話だ?」
はフォンテーヌの出身だったな」
「……おい、アルハイゼン……それは……」
「元々、彼女はアザールに選ばれたサンプルだ。異例の飛び級も、シティの外には彼女が出歩かなかったのも、アザールの指示だったらしい。それらの事実は長らく隠蔽されて、俺の目にも入らなかったが」

 ──アルハイゼンの言わんとしていることを理解できなかったのなら、或いはその方が、僕は幸せだったのかもしれない。
 しかし、僕もそのように愚鈍ではなく、アルハイゼンが事実として突き付けてきた文書に目を通し終えた頃には、──に関する隠されていた事情を、はっきりと理解できてしまった。

 僕にとって妹分であり、元“お隣さん”でもある後輩のは、十歳にも満たない年齢の頃に教令院へと飛び級で入学してきた、アルハイゼンの同級生だ。
 フォンテーヌ出身の彼女は、地元でも有名な神童で、教令院でも数多くの功績を残したが、学生時代の彼女は幼かったというのに、僕の隣の家で一人暮らしをしていた。
 それは、神童には下宿生活は窮屈だろう、という教令院の計らいだったとそのように聞いていたが、──実は、それだけではなかったらしい。
 当時、賢者の連中は、……アザールは、只々を自分が管理出来る範疇に置いておきたかったという、それだけの話だったのだ。
 当初はをアザールの邸宅に下宿させる予定だったが、クラクサナリデビ様による妨害があり、そのようにはならなかったのだと、クラクサナリデビ様からの証言もあったらしい。
 
 そうして、アザールの手を逃れたは、教令院の所持していた物件で一人暮らしを始めたが、……それでも、アザールの管理から完全に逃れることは出来ずに、彼らは幼い女の子を庇護する名目で、長らくに干渉していたらしいのだ。
 言われてみると、アザールはと同じく明論派の出身だ。より管理下に置きやすい、都合のいい人間として、後輩にあたる彼女を選んだという可能性は大いに考えられるし、卒業後にシティの天文台をに預けたのも、アザールの采配だったと聞いている。
 要するにあれは、体の良い首輪の役割を果たしていたのだ。
 スメールの民にさえも恩情を掛けない連中にとって、他国の少女は、何をしてもいい存在だったとでも、……まさかアザールは、そう思っていたのだろうか。
 ──僕は、今までずっと、それらの過干渉は、教令院にとってがそれほどまでに大切な人材だからなのだと、そう考えていた。
 そう思っていたからこそ、……小さな女の子に無条件の良心を、彼らが抱いているものと信じていたからこそ。
 僕が、彼女のお隣さんを辞めたところで、きっとは平気だろうとそう信じていられたし、まさかシティの外には出られないものとは知らなかったから、水の都の出身だし、きっと彼女は熱いところやじめじめした場所が苦手で、好んで砂漠や雨林は出歩きたくはないのだと思っていたし、……そんな調子だったから、シティの外に出かけようと誘ってみたことだってなくて、砂漠での仕事に出向く際にも、僕は平気で彼女のことをシティに残してしまっていた。

 ──そうして、いつも通りに僕がシティを離れていた期間に。
 教令院では大きな騒動があり、その際に、が教令院へと招かれた本当の理由が、露呈した。
 アザールが必要としていたのは、という少女ではなく、彼女の頭脳そのものだったのだ。
 連中はを教令院という檻の中に囲い育てることで、……収穫の時期を、待っていたのだと言う。
 クラクサナリデビ様の衰退で教令院と神との関係が悪くなっていた頃、「自国の神を蔑ろにして、他国の子供を蝶よ花よと扱う教令院」などとの待遇をやっかむ連中が零していたのを咎めたことが何度もあったけれど、……実際にはそんなことはなくて、必要とされていたのは、花の種だった。
 優れた頭脳を持つ者からは、より優れた夢境が収穫できると教令院は考えて、幼くて柔軟な発想にも富んだ聡明な脳からそれらを収穫し、──そうして、培養を終えて十分に彼女が実った際には、神の缶詰知識をインストールするための器にしようと、……そのような計画の元で、には当時、教令院からの声が掛かったのだそうだ。

 今回の騒動に置いて、成長した彼女は実際、教令院に身柄を押さえられていた。
 を神の缶詰知識に触れさせた上で、もしも彼女の精神が破壊されてしまったのならば、……その際には、“非検体”として彼女の身柄はスネージナヤの研究者へと譲渡される手筈だったのだそうだ。……ファデュイが教令院に手を貸した理由の一端には、この最低な“成功報酬”も絡んでいたらしい。

「──カーヴェお兄さん! おかえりなさい、砂漠でのお仕事はどうでしたか?」
「……僕のことよりも、その……アルハイゼンに聞いたよ、……大変だったんだね、
「……あ、……その、うん……」

 アルハイゼンから渡された文書すべてに目を通すと、僕は弾かれたように教令院を飛び出して、考えも無しにの家に駆け込んだ。
 大慌てで、メラックの他には何も持たずに走ってきてしまったから、にプレゼントしようと持ち帰ってきたお土産は置いてきてしまったし、傾斜の激しいシティの街並みを全速力で駆け抜けて息は絶え絶えだし、玄関を開けて僕を見つけたは、ぼさぼさの髪で息を切らして立っている僕を見上げて、大層に驚いた顔で、目を丸くしていた。
 ──けれど、僕の言葉で、事の経緯を既に僕が把握している旨を察したは眉を下げて、悲しそうな、困ったような顔をして、言葉を濁している。
 もしも、──僕が傍に居たのなら、こんなことにはならなかったかもしれないのに、ごめんね、と。……に向かってそう言いかけて、されど結局言葉は飲み込んでしまった。……紛れもなく、彼女を一人で残していったのは、僕の判断で、僕の責任だったからだ。
 
 久々に会った彼女は、以前よりも少し窶れているような気がして、なんだか、普段より背格好も小さく見える。
 おどおどと自信なさげに振舞う様子は、まるで幼い頃、智慧の殿堂で初めて彼女を見かけたときのようで、……彼女が数年間をかけて身に付けた、溢れんばかりの自信や輝きが一瞬で消え失せてしまうほどに、彼女にとって怖いことが起きたのだと、……これは、そういうことなのだろう。
 あいつの言う言葉を鵜呑みにするのは癪だが、アルハイゼン曰く、──どうやらは、シティから外に出るのを禁じられていたらしい。
 フォンテーヌを祖国に持つ彼女は、クラクサナリデビを信仰しておらず、されど、キングデシェレトを信仰しているわけでもない。
 神々への信仰に基づいた民族間の対立が激しいこの国において、どちらにも属さない彼女が不要なトラブルに巻き込まれないため、──或いは、収穫前に刈り取られてしまわないようにと、にはアザールより直々にシティの外には外出しないようにと外出禁止令が出ており、……故に彼女は、長期の休みにもフォンテーヌに帰らなかったし、休日に学友から誘われても、スメールシティの中でしか遊ばなかった。
 如何に興味のある研究対象があっても、遠くまで足を延ばしてフィールドワークに出向くと言う選択肢が、彼女には許されていなかったのだ。
 年若い彼女が特例として教令院に属するための条件として提示されていたそれを、他言することもまた、彼女は禁じられていたからこそ、誰もがシティから出ない理由を知らなかったし、それについて訝しむこともしなかった。
 幼い子が熱砂や雨林の危険を避けるというそれ自体は、理に適っていたからこそ、その制限には違和感さえも伴っていなかったのだと今になって気付き、……してやられたと思うものの、僕は気付くのが遅かった。
 僕は、何年も彼女の傍に居ながらもそのような事情にはまるで気付いていなかったし、フォンテーヌの盛装で過ごして、砂の上を歩くのには向かない踵の高い靴を履いているのも、彼女の意志で、祖国の服装が好きなだけなのだとばかり思い込んでしまっていたのだ。
 ──本当は、シティの先に出られない彼女は、スメールを広く知ることも出来ずに、ずっとこの町で暮らしながらも、この国の民になり切れていないからこそ、スメールの衣裳に袖を通すことも、砂の上を歩く為の靴を履くことも、出来なかったなんて、……僕は、彼女のそんな事情さえも知ろうとしていなかったのだ。
 
 これは、紛れもなく、僕がに干渉しすぎてしまうことを、……彼女の運命を変えてしまうことを恐れて、彼女との間に見えない線を引いてしまったからこそ、招いた結果だ。
 もしも強引にでも、彼女の事情に踏み込んでいたのならば、僕に心を許してくれているは真相を打ち明けて、自分の置かれている状況を、僕に相談してくれたかもしれない、助けを求めてくれたかもしれない。
 けれど、僕がそれを許さなかったからこそ、……今現在、目の前の彼女はしょんぼりと萎れて、普段の瞬きを失っている。
 ……正直に言って、考えたことも無かったな。父さんのことがあってから、其処にどのような真相があったとしても、……確かに父さんの運命を変えてしまったのは僕だと、悔やみ続けてきたから。……もしかすると、誰かが他者に干渉することで、良い方向に転ぶ運命だってあるかもしれないのに、僕はいつからか、自分にそのような可能性や権利は無いないものとばかり、思っていたらしい。
 ──そうして、僕は確かに、が悲運へと沈むのを、見過ごしてしまったのだ。

「……あの、カーヴェお兄さん、長旅で疲れてるでしょう? ご飯、食べていきませんか?」
「……いや、でも、僕は……」
「もう、アルハイゼンくんと先に約束しちゃった?」
「は? ……まさか! シティに帰って早々、あいつと食事なんて絶対に御免だ、僕はそれよりももっと……」
「もっと? ……何処か、食べに行きたかったお店でもあるとか……?」

 つらいことがあったばかりなのだろうに、長旅から戻ってきた僕を気遣って声をかけてくれるは、本当に優しい女の子だ。
 思えば、彼女がこんなにも素直で純粋だからこそ、僕は彼女と話していると人間の善意と言うものを信じられたし、何があろうとも隣人には優しくするべきだと、自分の信念をそのように信じられていた。……それは何より、僕にとっての隣人である彼女が、僕に優しくしてくれたからこそ、僕自身も大切に出来ていた気持ち、だったのだろう。
 
「いや……その、帰ってきたなら、を食事に誘うつもりだったから……」
「わたし?」
「うん。……砂漠での仕事で、結構儲かったんだ。偶には、君を外食にでも連れて行こうかと……それで、砂漠での話を聞かせてあげようと、そう思ってたんだけど……」
「だったら、尚更上がって行って? お店みたいには出来ないけれど……私もスメール料理、結構上手になったんですよ! 今日はカレーなの!」
「……それは、僕の分もあるのか?」
「ありますよ、カーヴェお兄さん、そろそろ帰ってくると思ったから……疲れてると思って、甘いものも用意してあります。パティサラプリンとバクラヴァですよ!」
「……そうか、それなら……お邪魔しても良いかい?」
「ええ! おかえりなさい、カーヴェお兄さん!」

 ──おかえり、というその言葉に、ただいま、と咄嗟に返してしまいそうになったことに慌てて、転がり出かけた言葉を僕は飲み込む。
 此処は僕の家じゃなくて、僕とは家族じゃなくて、……その言葉を言う権利は僕には無い筈なのに、……でも彼女は、僕におかえりと、そう言ってくれるんだよな。……僕は彼女のそう言うところに、きっと、ずっと救われていたんだ。
 ゆらゆらと白い湯気の登るカレーはバターと鶏肉がたっぷりで、濃厚で美味しく、スパイスがいくつも使われているようで、とても芳醇な味わいがして、思わず僕が「腕を上げたんだな」とそう零すと、は得意げに「いつまでも、子供じゃありませんから」と、すっかりいつもの調子を取り戻して微笑むのだった。
 ──シティに帰ってきたなら、本当は、を連れて良い店で豪勢な夕食を楽しもうと、そう思っていた。
 兄貴分らしいことを、先輩らしいことを、してやろうと、……そう、思っていたんだけど。実際の彼女はご馳走の準備を整えて、僕を出迎えてくれたと言うのだから、……今回のことで、よく分かったけれどさ。残念ながら僕は、自分で思い望んだり、彼女が信じてくれているほどには、……の保護者役、なんて役目は全う出来ていないらしい。
 ──だったら、こんな塀は取り壊してしまった方が、君は僕を頼ってくれるのだろうか、縋ってくれるのだろうかと、──小さなこの夜に、何度もそんなことばかり考えてしまったのは、きっと。……本当の僕は、君に、ただいまを伝えたかったからなのだろう。


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