安楽椅子には水が座る

 治崎廻は難儀な男だ。あいつは自分の心の機微に疎く、心が何かを訴えていたとしても、決壊寸前の限界まで気付けないのだ。そして同時に、他人の感情の機微にも、廻は酷く疎い。何が駄目だったのか、何が良かったのか、相手の反応を見ても、廻には理解が及ばなかったから、いつからかあいつは、人心を掌握する術を、身に付けるようになっていった。敏いあの男は、論理立てた前提さえ理解できれば、自身の理解が及ばない感情さえも掌に収めるには容易かったらしい。相手の意志など、意図などを、汲んでいるわけではない。只、理屈として、“その言葉が効果的であると知っているから”紡いでいるだけに過ぎない。……だが、あの男の難儀な部分は、それだけではなく。

「……仲間になってくれ、お前の個性は必ず、俺の力になってくれる。お前がいてくれると、心強い」

 ……真実、その言葉には、嘘偽りがない、という事実に他ならなかった。
 何も、憐憫や同情から、あの男が手を差し伸べているわけではないのだと、あの目を見れば、人となりを見ていれば、嫌でも理解する。……だが、それと同時に。理解できて、しまうのだ。あの恐ろしくも朴訥な男は、確かに自分を必要としたからこそ声を掛けたのだ、と。近くで見ていれば、八斎會の現状を知ったのなら、嫌でも分かってしまう。……世を捨て、世に捨てられた人間にとって、それがどれほどのよすがであったのかなどと、想像に容易いもので。表社会で生きることを許されなかった人間が、生きることを諦めた人間が、……裏社会で必死に生きながらえて、復権のため、すべての光あるものを病と呼び断罪するあの男に、必要とされること。その事実の重みを、きっと廻は知らないのだ。廻はそんなものに、興味などがないから。だから、廻は自身を信奉する八斎衆の連中が、自分の前で素顔を晒すことを許さない。掃除屋風情と同じ空気などは、吸えないから。……それが、彼女の身体に障ると信じているから。だが、そんな扱いを受けたところで、彼らの廻への信頼は最早揺るがない。それ以上の恩を受けたと信じて、治崎廻という人間に惚れ込んでしまっているからだ。……何故、それが分かるのかと言われれば、まあ、そんなものは、……私も、連中と大差がないから、なんでしょうがね。

「本日より八斎衆に加わりました、、です。若のお役に立てるように努めます、よろしくおねがいします……!」

 ……だから、が八斎會の敷居を跨いだ日にも、ああ、またか、と。そう、思ったのと同時に、……厄介なことになったかもしれない、と。そんな風に、私は思ったのだった気がする。……どうするんだ、廻、と。少しばかりの非難を込めて、廻に視線を向けてみても、廻はそんなもの気にも留めない様子で、それどころか、私の心配の種であった彼女と、を引き合わせたりするものだから、気が気ではなかった。と八斎衆、それから、……彼女との顔合わせの席から部下を退席させた後も、廻はといえば、「お前の話し相手にも丁度いいと思ってな」なんて、得意げに彼女に話しているし、彼女は彼女で、「ありがとう廻……! さんと、仲良くなれるかな……?」と、心底嬉しそうに笑っているものだから、私は、が気の毒で仕方がなかった。彼らにとっては、が廻に向ける熱など、取るに足らないものなのだ。……と、いうよりも、そんなものは眼中にないのである、文字通りに。只々、単純に、気付かないのだ、彼らは。お互い以外の誰かが、二人の間に割って入ってくる可能性など、考えていないから。あったとしても、それは外部犯がを連れて行こうとするときでしかないと、廻は考えていて、……身内にはそんな人間は絶対に存在しないと、そう信じている。……その信頼が、を殺すのだ、きっと。が付いてくれてよかった、という真実の言葉だけが、これから彼女を蝕んでいくのだろう。……あーあ、どうするんです、廻。、お前に惚れてるってのに。あいつは、彼女とは違う世界の人間なんですよ? どうするんですか、彼女を妬んで、危害を加えるようなことがあったら、……誰も望まない結末に、なっちまうんじゃないんですか。……本当に難儀な男だ、あんた、と。そう、思ったからこそ、最悪の事態にならないように、見張っていたつもりだった。……それだけの、ことだったのだ、本当に。

「ねえねえ玄野さん! さっきの若と姐御のやりとり! 見ました!?」
「見ましたも何も、私も同席してやしたでしょう?」
「見たんですよね!?」
「そりゃあね」
「やー……もう、若のあの顔ったら……姐御もほんとに嬉しそうで……はあ……」

 ……最悪、廻の手に掛けられるよりは、彼女にとってもまだマシだろう、と、そう思って。間違いが起きるくらいなら、私が始末しようとさえ、思っていたというのに。私が想像していた最悪の事態、……が、彼女に危害を加えるような事態には、全くならなくて、それどころかは、いつの間にか彼女に酷く懐いてしまったのだ。……廻は、難儀な男だが、やはりその難儀な男にああも執拗に執着される彼女も、難儀な女だった、とでも言うべきなのか。ろくでもない連中にとって、廻がある種のよすがである、というのは事実であり、そして、そんな廻の心の拠り所である彼女は、こんな場所で生きている人間にとって、死んでも出会えない部類の善良な人間だった。善良でありながら、表社会では生きられずにこの場所に居り、だからこそ、悪辣の苦しみを彼女は正しく理解出来る。悪人である自分たちにとっては、一種の救済ですら、あったのかもしれない。現に、八斎衆の連中も、皆ベクトルは違えど彼女を気に入っているし、他の組員たちからも、決して疎まれたりはしていないのだ、彼女は。力になってやりたい、と思わせる、一種の魔性が彼女にはあるのかもしれない。だが、魔境に置いては、その魅力も至極真っ当な性質になるからこそ、……やはり私も、そうだった。幼馴染であり、廻の片割れでもある彼女を、傷付けられること。それだけは、どうしたって許せない。私は彼女が好きなのだ、……それは、家族だとか友人だとか、そういった、いくつもの意味合いで。

「……幸せになってほしいですねえ、姐御には……」
「……そうですね」
「私みたいなのはね、いいんですよ。でも、彼女は違うじゃないですか……何も悪くないのに、姐御は、あんな……」

 ……だから、そう言って、が泣きそうな顔で彼女の背を見つめていた日、……私は、本当に嬉しかったのだ。この女は、私の命よりも大切な二人を、私と同じくらいに、大切に思ってくれている、と。そう、思えたから。確かに、廻に惚れていたのだろうに、それでも。彼女のこともそれと同じくらいに好きになってしまったから、二人の幸せを願うのだ、と。……そう、言われたから。私はその日から、のことが、大切になってしまった。目で追っていたのは、義務感から、であったはずなのに。次第に、自然とを目で追うようになり、彼女と話し込んでいるときなど、毎度はらはらと見守って、いつでも個性を発動出来るように用意をしていたというのに。いつしか、そんなことは考えることすらもなくなり、二人の会話を微笑ましく感じるように、なってしまったのだ、私は。私の大切な人と、が仲睦まじく過ごしていることを、……嬉しいと、そう、思ってしまった。

「針くん、さんに伝えないの?」
「……は?」
「え? さんのこと、好きなんでしょ?」
「……ええと、何処からそういう話になったんですかね……?」
「え、だって、いつも彼女のこと見てるから……」

 ……だから、彼女から言い当てられたときには、どきり、と心臓が跳ねた。まあ、私も、手をこまねいて見守り続けていこう、というほど謙虚じゃないですよ、そりゃあね。これでも極道者だもんで、モノにしたい気持ちはありましたよ。でもねえ。とてもじゃないが、廻や彼女のようには、出来そうになかった。あんなに綺麗な恋愛が出来る気はしなくて、多分、もそんな柄じゃないと思っていたから、少しずつ、距離を詰めて、なんてことは、きっと出来ないだろう。だが、いきなり迫ったところで、……もしも、に拒絶されたなら、私にとって、にとって、廻と彼女にとっての均衡が保たれた、現状が壊れてしまう。……だから、タイミングをね、伺ってたんですよ。もしも、にその気がなかった場合でも、情愛、ってそれらしい理由を取って付けられれば、身体だけ、一晩だけ、ということにしてしまえれば、……が、ウチを出ていくことにもならないだろうと、……そう思ったのは、本当だったんですが、ねえ。
 朝方、狭い布団の中で、の寝顔を見つめていたら、……そんな体裁は、どうでもよくなってしまったんですよ。この女を、どうしても私のものにしたい。私の心の内をこうも理解できる人間は、きっと、この先現れない、って。そう、思ったからこそ、……今更、純愛を気取るなんて烏滸がましいとも、思ったんですが、ねえ。うっかり口を滑って、本音が出ちまったんですよ。

「……やっと捕まえやした、

 己の唇から滑り落ちた声は、どろどろに甘く執着を讃えて。怖気が走るほどに、熱を帯びていた。私の言葉に、の表情が凍ったことには気付いていたし、やはり私だけが好きだったのだと、そう思い知らされたというのに、それでも、私は、最早腕を引っ込めることなんて、出来なかったのだ。……傷付いたふりをして、傷口に漬け込んで、なんて。狡いやり方だったと思う。だが、だからこそ、……このまま、貫いてやろうと思ってしまった。

「だから言ったでしょう? 私は、彼女に恋はしていやせんよ。私が欲しかったのは、あんたです、
「……く、ろ、の、さ……」
「逃げないで、。……ねえ、私の傍にいてくださいよ、私には、しかいないんですから……」

 泣き落としじみたその言葉に、が慌てた声色で、確かに、……逃げませんから、とそう言った。それは、反射だったのかもしれないし、同情だったのかもしれないし、……少しくらいは、本心だったのかもしれないが、……言質は、取った。……私が泣きたかったのも、本当だったのかも、しれやせんが……まあ、あんたの運の尽きが何だったのかと言うと。廻と彼女を目で追いすぎて、自分らが極道だって、忘れかけていたこと、なんでしょうねえ。仁義は守りやすが、……悪いことをしないわけじゃないんですよ、そりゃあ。私も、極道者、なんですから。欲しいものは力づくで奪い取るもんなんです、私らはね。 inserted by FC2 system


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