林檎売りにはミルクとお砂糖を添えて

※幼少期捏造



 それは、ケニーが俺の傍から居なくなった後、俺が地下街にてひとりきりで生きるようになってからの出来事だった。まあ、それも子供時代に起きたほんの些細なこと、たった一瞬の思い出で、正直に言って、幼い記憶の中では俺はそいつの顔をしっかり覚えてなど居られなかったし、そもそも名前すら聞いていないのだから、思い出しようもない。……只、それでも俺はぼんやりと記憶し続けているのだ、あの日のこと、あいつのことを。

「……あなた、この街の子?」
「……は?」
「わたし、都にははじめてきたの! あなたはこの街の子?」

 ……オイオイ、何をどう見りゃ薄汚い地下街のガキが、王都の子供に見えるんだよ、と。そう、悪態を吐いてやりたくもなったが、路地裏に駆け込んできて俺にそう問いかけるそいつは、どうやら本気でそう言っていたらしい。……目の前のガキは身長からして俺より少し年下くらいだろうか、と。自分と同じ程度の背格好を見て、俺はそう思った。……太陽の届かない地下で貧しい暮らしを送った幼少期の俺は、同年代に比べて発育が遅れていたから。その俺と同じ程度の目線なら、多分、俺よりもいくらかは年下なのだろう。身なりの良い上等な洋服に、綺麗に磨かれた革靴。手入れの行き届いた髪に、手には露天の小さな包み紙を抱えているそいつは、何処からどう見ても、富裕層の子供だった。口ぶりからして、王都の人間ではなく、近くの街から親と一緒に観光や買い出しに来た、というところなのだろう。……こんなに裏路地に警戒心もなく迷い込んできたのが、その証拠だ。

「……お前、親は」
「おとうさんとおかあさんは、通りでおかいもの! わたしは、ねこちゃんを見つけて、追いかけていたのだけれど……」
「……それで、こんなところに迷い込んじまったのか? 不用心が過ぎるな」
「ぶようじん……? わたしは、あなたをとちゅうで見かけたから、ついてきただけなの!」
「……は?」
「ねえ、おともだちになりましょう? わたし、知らない街におともだちがいたら、とってもすてきだなっておもうの!」

 ……その言葉に、呆れを通り越して目眩を覚えた。……その日の俺は、盗品を捌く為に地下街から地上に出てきて、ガキだと思って足元を見てきやがった連中に対して"一仕事"を終えてきたばかりで。……そいつは、そんな俺が色濃く纏う血の匂いに気づかずに、のこのこと着いてきた挙げ句、……俺に向かって、友達になってほしい、などと馬鹿な文句を宣うのだ。

「……それは、俺になにか利があるのか」
「り?」
「……俺は、お前と友だちになって得するのか、って言ってんだ」
「……とく……」
「お前にはなにか、俺に差し出せるものでもあるのか」
「さしだす……あ!」
「……どうした」
「これ! いっしょにたべよう?」

 そう言って詰め寄る俺に怯えて逃げるかと思ったものの、……そいつは胸に抱えた紙袋を広げると、甘い香りの焼き菓子をひとつ、俺へと差し出してきた。「さっきね、おかあさんに買ってもらったの」そう言って、俺の鼻先に突き付けてきたのは、牛乳と、小麦粉と、バターに卵、……それに、知ってる、これは確か、りんご、っていう果物だ。……りんごなら、ケニーに一度だけ食わせて貰ったことがあるが……全部、地下ではとても手が届かない代物だし、こんな菓子は見たこともない。……誰がお前の施しなんて受けるか、と。そう、突っ返せるほどに俺の暮らしは豊かではなく、ひと仕事終えたばかりの育ち盛りな腹は、甘い香りに思わず、ぐう、と音を立てる。するとそいつは、にこ、と邪気のない笑みで小首をかしげてから、「わたしもこれ、だいすきなの」と言うのだ。……どうやら、俺が好物を前に腹を慣らしたものだと勘違いしているらしい、本当におめでたい頭を前に、……俺もどうにも、警戒するのも威嚇をするのも、どちらも馬鹿らしくなって。黙って焼き菓子を受け取ると、「……座れよ」と、路地裏にあった木箱を指差した。

「……ほら」
「! どうも、ありがとう!」

 埃に汚れた木箱の上に、洗ってはいるものの清潔とは言い難い、ボロ布と形容したほうが正しいようなハンカチを敷いて、そいつを座らせたのは、何故だったのだろうか。俺とは違って上等な服を汚すのは気が引けたのは、こいつに菓子の借りが出来たからなのか、それとも、他の理由があったのかは、今でも俺には分からないが、ボロ布切れに嫌な顔ひとつしないそいつが、俺とは違っていいやつ、……らしい、ということは、嫌でも即座に理解できたのだ。

「おいしいね!」
「……ああ、」

 ……こんなもん、初めて食ったと言いかけて、言葉を噤んだのも、何故だったのだろうか。俺が都の人間ではない、地下街から来たのだということが知れたのなら、逃げられてしまうかもしれないと、まさか俺はそう思ったのだろうか。先程までは、追い払おうとしていたというのに。されど、口の中でほろほろと崩れる甘酸っぱくて優しい味に、絆されてしまうほどには、俺は無垢ではなかった。……上等な洋服、育ちの良さそうな子供、俺が気づかないうちに後を付けてきた、というのは大したもんだが、それでもこいつをねじ伏せるのに然程の力はいらないだろう。……此処で殺して、金目の物を剥ぐか。誘拐して、さぞ娘が大切なのだろう、裕福な親を脅すか。……そうだ、そんなことだって、出来たはずなのに、俺は。……その焼き菓子だけで、そいつを見逃してしまったのだ。

「ねえ、あなたのおなまえ、おしえて?」
「……リ、……いや、教えねえ」
「えー! なんで!」
「……世の中には、知らないほうがいいこともあるんだよ、覚えとけ」
「ふうん、あなた、エル兄みたいなこというのね」
「エル……? なんだ、そりゃあ?」
「じゃあ、リーくんってよぶね」
「……オイ、俺の話を聞いていたのか? 俺は……いや、まあ、いい……お前、名前は」
「え? おしえないよ! だってエル兄、言ってはいけないこともあるっていってたもん。リーくんが教えてくれないなら、わたしも教えてあげない!」
「……は?」
「……でもね、またこんど会ったときにね、リーくんがおなまえ教えてくれたら、わたしのなまえ、おしえてあげる!」
「……は、二度と会わねえよ、どうせ」

 ……実際に、俺の言った通りだった。俺は王都とは言え普段は地下街で暮らしているわけで、王都の住人ではないあいつがたまに王都を訪ねてきたとて、そのタイミングに都合よく俺が地上に居るとは限らないのだから、きっと、もう、二度と会うことはないのだろうと、俺にはそれが分かりきっていた。だから俺は、大人になってからも地下街を出てからも調査兵団に入ってからもずっと、あいつとはその後、一度だって再会していない。そもそも、何処の誰とも知らねえ奴が、……このご時世、生き残っているかさえも、今となっては、怪しいものだが。

「……リヴァイ! アプフェルシュトゥルーデル、焼けたよ!」
「今行く。……相変わらず、舌噛みそうな名前だな。……アプフェ、シュ……?」
「アプフェルシュトゥルーデル! ……もう、リヴァイがこれ好きだっていうから、わざわざ作ってるのに……パラディ島の外ではあんまり売ってないんだよ、これ! パラディ島では何処でも売ってたけれど……今は、自分で作らないと食べられないんだから!」
「は? も好きだって言ってただろうが……」
「それはそうだけど……一番は、リヴァイの為だよ」
「……いや、そうだな……悪かった、茶淹れるか」
「……あーあ、確か、このお菓子がリヴァイの初恋の思い出なんだっけ?」
「は? ……お前、どうしてそれを……」
「……エル兄から聞いたもん。……ふうん、本当だったんだ……」
「…………」
「……別にいいよ、私にだって初恋くらいあるし」
「……は……? オイオイオイ待て、何の話だそりゃあ、俺は聞いてねえぞ」
「言ってないもん」
「オイ……、」
「……リヴァイの、ばか」
「……馬鹿野郎、初恋なんて上等なもんじゃねえよ」
「……ほんとに?」
「ああ……機嫌治せ、今日はお前の好きなミルクティーにしてやるから……」

 その後、甘ったるいミルクティーで甘酸っぱい焼き菓子を食いながら、「リヴァイ、ほんとに機嫌の取り方下手だなあ」と、笑いながらもすっかり機嫌を治している単純なに聞いた話では、……の初恋の相手は、王都の男だったらしい。子供の頃に出会って仲良くなったのだという、顔も覚えていない、いつかのガキの話をがするものだから、……嗚呼、多分こいつは順当に行けば、"そういう男"と添い遂げていたのだろうな、と。今更だが、漠然と思った。まあ、世界はそうは回らなくて、は俺の隣で余生を過ごしている。……だが、そうだな。が一時焦がれていたというその男のことは本当に憎らしいが、……の代わりに、幼い日に出会ったあいつには、そんな男と幸せになっていてほしいと思った。もう二度と、俺とあいつの人生が交わることはなく、俺が選んだのはこの先も揺るぎなくだ。……だが、俺にも。昔、親切にしてくれたたったひとりが、今日の俺達のように甘酸っぱい焼き菓子を、今でも誰かと笑って頬張っていることを願う程度の人間性は、残っていたらしい。 inserted by FC2 system


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