雨夜の月、大海を知る

※恋愛以下、友情未満。児童虐待に関する表現があります。


 蒼月学と言う男は、蒼月流という名門の武道一族の跡取りであり、対する私は家という中国拳法の流派の正統後継者だった。
 同じように武道の流派に生まれ、後継ぎとして育てられた私たちは、幼い頃に親同士によって引き合わされて出会った、終生のライバルとなるべき間柄だ。次代の当主として、他の流派の戦術や広い視野を取り入れることで、更なる流派の発展を目指す──というのが大人たちから教えられていた、私とマナブが戦友として切磋琢磨し合うべき理由である。少なくとも、私にはそう言った説明が両親たちから与えられていたが、マナブもそれは同じだったはずだと私はそのように認識している。

「──マナブ! 久しぶりね!」
「っ、うわ、ちゃん……!?」
「人の顔を見るなりうわ、って何よ。失礼ね」
「ご、ごめんなさい……」
「何をオドオドしてるわけ……? まあいいや、久々に会ったし! 遊びましょ!」
「えっ、で、でも、今日は手合わせの為に、って……」
「そんなのあとでいーの! マナブに見せたいものがあるの! こっち来て!」
「ちょっと、ちゃんってば……! 怒られるよ……!?」
「いいよ! 私がマナブの分も怒られてあげるから!」
「そう言う問題じゃないってばー!」

 幼い頃、山頂に道場を設けていた家で育てられた私には、遊び相手などはなく学校にも通わせてもらっていなくて、たまに合同訓練で顔を合わせるマナブだけが、同年代の友達と呼べる存在だった。
 家中には大人しかいなかったし、幼くして才覚を現して競争相手を退け次期当主となった私は、周りの大人からもやっかまれていたのか、家の人間相手には、“遊ぼう”なんて言葉はとても切り出せないどころか、家の大人たちからは日頃から殴られたり、怒られたりばかりで、時には毒を盛られて生死を彷徨ったことまであって、……恐らくマナブもそれは似たようなものだったのか、私もマナブもいつ顔を合わせても何処も彼処も傷だらけの痣だらけで、まともに包帯や絆創膏で処置すらして貰えてはいなかったから、遠慮しなくても良いと言っているのに、手合わせの名目があっても私に手を挙げることを躊躇しているらしかった。
 ……そうだ、マナブは昔から、そんな風に優しい奴だったのだ。マナブはきっと、私とは少し違っていて、けれど幼い私には、それを理解することは叶わなかった。

 生傷の絶えないそんな日々でも、私は、“これは、家の後継者として仕方のないこと”なのだと大人たちに教えられたそれに従い、殴られることに対しても、特に恐怖だとか嫌悪を感じていた訳では無かった。しかし、……まあ、別に痛いのが好きな訳じゃないし、そんな生活を送ることを嬉しく思っていたわけでもない。
 対するマナブは、蒼月家での扱いにほとほと耐えかねていたらしく、幼い頃からいつもマナブは情けなく眉を下げて泣きだしてしまいそうな顔をしている子供だったし、「ちゃあん」と半泣きで情けなく私の名前を呼んでは「逃げようよ」と泣きじゃくって、──私はそれでも、そんなマナブのことを、自分の終生のライバルに相応しい男だとそう思っていた。

 確かにマナブは幾らか情けないところもあったけれど、実際、天賦の才とでも呼ぶべき身体能力の高さを誇り、家の訓練を受けている私との手合わせでも、恐れさえなければほぼ互角の腕前だったのだ。
 ──但し、マナブはいつも肝心なところで「殴られる」という恐怖からか、ぎゅっと目を瞑ってしまうから、いつも私が勝っていたけれど。
 ──それ故に、私は確信していたのだ。
 もしも、マナブが恐怖を乗り越えられたのならば、殴られることへの怯えを振り切れたのならば、──或いは、蒼月流の人間が、マナブへの虐待を辞めたのなら。
 ……マナブは泣いたりせずに笑いながら、私と凌ぎを削り合ってくれるようになるんじゃないかって、──私は昔、そんな夢を見ていて、……残念ながら、未だ夢は覚めずにいる。


 まだ薄暗い早朝、ジリリリリ、と鳴り響く目覚ましの音が鳴ると同時に飛び起きるように目を覚まし、冷たい井戸水で顔を洗い、家当主のみが袖を通すことを許された伝統的な装束──旗袍に袖を通し、私は今日、六葉町へと向かう。

 子供の頃、私が思い描いていた未来は、結局未だに叶うことはなく、あれから暫くした頃に、マナブは蒼月流を飛び出して行ってしまい、それから只の一度も彼からの便りは無かった。
 最後に会ったのは、マナブがうちの道場のある山奥に修行として送られてきたときのことで、約一年間ほど共に切磋琢磨して過ごしたその日々を私は大層に楽しく感じていたのだけれど、マナブの方は折檻として送られてきたに過ぎなかったようで、その一年の間マナブは、今までで一番元気が無く意気消沈していたのをよく覚えている。

 その一年間で、私はマナブを元気付けるためにと、色々な手段を考えて、マナブを笑わせようと頑張って、──けれど、何ひとつとして実を結んではくれなかった。その事実を遣る瀬無く思っていた私は、マナブが居なくなったことを知らされてから暫くの間ひとり沈んでいた。修練にも参加せずに大人の言うことを無視して部屋に籠って、──きっと、マナブが居なくなったことで自棄になっていたし、虫の居所が悪かったのだろう。
 それでも、私の傷心などはお構いなしで私の腕を掴み強引に断ち上がらせて、いつものように私を殴りつけてきた大人に対して、その頃の私は既に黙って殴られてやるような気分にはなれなくなっていた。それで、試しに一度殴り返してみたら、それきりぴったりと私は大人たちから叩かれることは無くなったのだ。
 ──結局、これは単純な話だった。
 私は殴られても大人しくしているから、マナブは殴られても泣くばかりだから、──私たちは決して、やり返すことが無かったから。殴り返されて初めて、自分達が虐げていた子供が自分達よりも遥かに強者であることを急激に自覚して、報復を恐れたことで。──その時期から、家では誰一人として私に逆らう人間はいなくなり、今となっては私がほぼすべての実権を握っている。

 だから私は、次に会えたのなら、それをマナブに教えてあげようと思っていたのだ。
 マナブが居なくなってから暫くした頃に、蒼月流には新たな後継者としてマグトと言う男がやってきた。マグトは魚っぽい、というか正真正銘の魚類らしいけれどいい奴で、実の兄のように私を構って可愛がってくれたし、マナブが居なくなったことで本当にひとりぼっちになってしまっていた私の心の隙間を埋めてくれたのは、何時だってマグトだったのだ。
 ──そのマグトが、蒼月流では六葉町にマナブが居ることを突き止めており、今度マナブの様子を見に六葉町に出向くのだと、両家の人間には内密に、こっそりと私に教えてくれて、私は今日、マグトに同行して、数年ぶりに幼馴染に会いに六葉町に行く。

 ──マナブに会ったなら、話したいことがたくさんあって、けれど、何よりも教えてあげたいのは、マナブも私みたいに大人を殴って黙らさればそれで良いのだというその事実だった。
 蒼月流の人間がマナブを虐げなくなりさえすれば、きっとマナブは家に帰って来られるし、昔みたいに私といっしょに過ごせるはずだ。──昔と違って、マナブは泣いたりせずに済むようになるはずだ。マナブは強いんだから、それさえ理解させてやれば誰もマナブを虐めなくなるはずだ。──でも、それでも、やっぱり誰かがマナブのことを悪く言うのなら、もう一度、私がマナブのことを護ってあげてもいい。
 ──マナブ、私はもう、マナブを守れるくらいに強くなったよ。でもきっと、マナブもそれは同じはずだよね? だからこれからはさ、二人で最強になって、それで、全員黙らせてやろうよ。──そうすればきっと、もう、ひとりぼっちで寂しい日々はこれで終わりになるのだと、マナブは帰ってきてくれるはずだと、──その日まで、私は本気で、そのように信じていたというのだから、……我ながら、幼さ故の万能感とは恐ろしいものだ、と。いつかはそんな話で笑い合える日が来てくれることを、切に祈る。 inserted by FC2 system


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