-26.7 Apparent Magnitude

「あのう、このわんちゃん迷子みたいなんですが、もしかして、飼い主さんじゃないですか?」

 恐ろしく温和なその声が自分に向けられていると気づいたとき、ああ、よくもこんな人間がこの街で生きていられたものだな、と。僕はそう、感心にも近い気持ちを覚えたような気がする。……そもそも、このヘルサレムズ・ロットで、只の“親切心”から人類とも異形とも知れぬ相手に話しかけるなど、正気の沙汰ではないと思うが、……運の悪いことに、この人間はこの瞬間、出会い、関わってしまったのだ。血界の眷属と呼ばれる種族である、この僕と。

「……ああ、確かに。きみが見つけてくれたのか」
「いえいえ、この子が私のところに走ってきたんです、そうしたら、この子に誘導された先に、あなたが居たので。よかったです、飼い主さんが見つかって」
「……きみ、名前は?」
「私ですか? 、と言います。お兄さんのお名前は?」
「……僕は、マクシミリアンです」
「マクシミリアンさん! すてきなお名前、ですね」
「……きみもですよ、

 あまりにも無警戒で、僕が気配を察する間もなく近寄ってきた、ものだから。……一瞬、それほどまでの手練なのかと身構えもしたし、牙狩りの一味が接触を図ってきたのか? とすら考えたものの。実際のところ、そんなことはまるでなくて、彼女にまるで悪意が無かったから、空気同然の気配など感覚にも引っかからなかった、というだけの話だったのだ。
 そうして、らしくもないような晴天の下、公園の木陰で、僕はと幾つか話をした。……もしかしたら、彼女自身は戦闘員ではなくとも、密偵、程度の役目を負っている可能性もある。仮に僕の正体が分からない有象無象の人間だとしても、そんな人間が僕に率先して話しかけてくる理由は、何処にも見当たらないのだ。何も分からずとも、正体は知れずとも、本能的な恐怖、直感、程度の五感は一般人であれ働くものである。自らの生存を脅かされるまでの驚異を前にしていたのならば、それは尚更のこと。平和そうな顔をして笑い、足元の犬を構いながら、にこにこと僕に話しかけてくるという人間は、きっと只の人間ではないのだろうと、このときの僕は、そう思っていた。……今にして、考えてみれば、それは僕の願望だったのかもしれないが。……そうして、成り行きで二人で過ごした後に、夕方、別れ際に僕は、彼女に呪いを掛けた。僕にとっては単純で、人間にとっては、千年掛かっても解けないような複雑な術式。もしもに、何らかの心得があるのならば、どうにかして術を解こうとするはず。……もしも、そうでなかったのならば、死ぬことになるかも知れないが。そのときはそれでもいいと、そう思っていた。

「……あ、マクシミリアンさん! こんにちは!」
「……こんにちは、
「わんちゃん、元気ですか?」
「ああ。元気だよ……きみも、元気そうで」
「はい、おかげさまで!」

 ……そう、思って、彼女を泳がせてみたものの、あっさりと翌週に、僕は五体満足の彼女と再会を果たして。にこにこと笑って話す彼女と公園のベンチに腰を落ち着けて、ちらり、と横顔を伺っていると、……ふと、の頬にかすり傷があることに気付いた。

「……、その傷はどうしたのですか?」
「あ、これ……ちょっと事故に、巻き込まれてしまって……」
「事故、ですか」
「事故というか、事件というか……この程度で済んだのですが、なんだか最近、事件に巻き込まれることが多い気がするんですよね……」
「……そうなんですか、気を付けてくださいね」
「は、はい! ありがとうございます、マクシミリアンさん……!」

 僕が彼女に施したのは、因果に干渉する類の術式だった。どの道を歩いても、どの選択を選び取っても、身体が自然と、災厄へと引き寄せられるまじない。何らかの術者であれば、抵抗するだろうし、そうでなければ呆気なく死ぬことになる。……呪いは確かに発動している、だが、信じがたいことにはその因果を、幸運や偶然といった事象のみで回避し続けているようなのだ。……だから僕はその日、もう一度彼女に、前回よりも強い呪詛を施してから、彼女の背を見送った。恐らく今度こそ、彼女は死ぬ。……しかし、その見込みも結局は外れて、再会と談笑と呪詛と別れを何度繰り返しても、が死ぬことは無かったのだ。何度呪いを重ねたところで、何故か彼女は、単なる偶然だけで災厄を回避する。……僕には、それがまるで理解出来なかった。

「……しかし、きみにはよく会うな」
「あはは、実はこの公園、休日の散歩コースにしたんです。マクシミリアンさんとわんちゃんに会えるかな? と思って……」

 邂逅を重ねて僕は確信した、彼女は只の一般人に過ぎない、取るに足らないか弱い生き物なのだと。それが何故だか、一種のバッド・ラックなのかもしれないが、まるで彼女には死ぬ気配もないのだ。彼女の言葉をもしも鵜呑みにするならば、彼女は、僕に会うために因果を退けている、ということになる。……そんなことが、あってたまるか。そう、思いながら、何故だか僕は、彼女が不死の生き物であるような錯覚を、覚え始めてしまっていた。まるで、僕の同胞であるかのようだ、と。……だが、重ね続けた呪詛はもうとっくに小さな背には余るほど膨れ上がっていて、……遂に彼女ひとりでは、どうにも出来ない日が訪れた。

「……それで、そのときに助けてくれたひとがいたんです! なんだか、赤い鉾? を持っていて! すっごく! 格好良かったんですよ……!」
「……へえ、それはすごいね。まるで、王子様だ」
「えへへへ……やっぱりマクシミリアンさんもそう思いますよね?」

 ……そうして、彼女は命を落とすかと思いきや、なんと彼女の窮地に助けに入った人物が居たのだという。今度こそ、もう会うこともないかもしれないな、と。そう、思っていたは、今日も僕の隣に恐れ知らずに座っていて、昨日助けてくれた人物、とやらの話を、目をきらきら輝かせながら嬉しそうに語るのだ。……牙狩りだ、と。赤い飛び道具を持っていた、というその特徴を彼女から聞き及んで、すぐに分かった。……そうして、僕にとって暇潰しの玩具だった彼女は、その日を境に、僕にとっての情報源になった。その後も、何度か牙狩りに助けられたという彼女は、牙狩りとの交流も続いているらしく、僕に会いに来ることが少しだけ減って、なんとなく、それを不愉快に思う僕が居て。そんな日々を続けているうちに、はどうやら、牙狩りの一味……ライブラの元で、身柄を匿われることになったらしい。それからというもの、あまり一人で出歩けなくなった彼女は、ますます僕に会いに来なくなったけれど、律儀なは、時たま公園に僕を探しに来るものだから、その人の良さに漬け込んで、僕はとの接触を続けていた。だが、元々が一般人だからか、なかなかどうして僕や兄が欲しい情報は持ってこない上に、ライブラの存在が機密事項である、という自覚だけはあるらしく、肝心なことはなかなか口を滑らせない。ならばいっそのこと、此処で彼女を殺して、牙狩りどもへの撒き餌にでも使ってしまったほうが早いだろうか? それとも、口を割るまで拷問でもしてみるか? ……なんて、そんなことを思いながらも、何故か僕は今日も、を無事に牙狩りの元へと帰してしまう。

「みなさん、いい人たちなんです、こうして友達に会いに行く、といえば、少しだけ外出も許してもらえますし……」
「……友達?」
「え、マクシミリアンさんのことですよ……!?」
「……ああ、そうか。そうだね、僕とは確かに、友達だ」

 欲しい情報は持ってこない癖に、牙狩りたちと楽しく過ごしてることだけは報告してくるのだ、は。どうやら、彼女にとっては友人との些細な雑談のつもり、らしい。保護下に置かれるようになって不自由ではあるが、組織内には気になる相手もいて、毎日楽しい、と。そう語りながらも、……数少ない組織外の友人だから、こうして僕と話すのも楽しい、と。はそう言って笑う。……何が友人だ、能天気にも程がある。……ああ、そうだった、今、彼女には気になる相手がいるらしい。何故その相手に好意を伝えないのか、と。気まぐれに彼女に聞いてみると、その相手は人類側でも異界側でもない存在で、人類側の自分が深入りしすぎることで、拒絶されたらどうしようと考えてしまう、と。怖いのだ、と彼女は言う。……まさに今、きみはそのどちら側にも属さないオンリーワンと平気で話して、わんちゃん元気ですか? なんて愚かな深入りを重ねているのだと、そう言ったなら、きみはどうしていたのだろうか。そもそも、偶然僕と再会しているときみは思っているようだが、そんな偶然が続いたのは最初だけで、きみがひとりのときを見計らって僕が待ち伏せているから、ライブラの目を掻い潜って、きみは僕と密会を重ねているだけに過ぎないというのに、本当に、馬鹿な人間だよ、きみは。僕によって誘導されているだけに過ぎないのに、きみにとってすべての元凶は僕なのに、何も知らずにきみは、僕に笑いかけながら他の男の話をしている。いつか、僕がきみとのこの逢瀬に飽きたなら、或いは、きみが僕の正体を知ったなら、僕はきっと、そのときこそ、この手できみを殺すのだろう。はたまた、やはり役に立たないと判断すれば、そのときに殺すかもしれないし、それ以前に僕との接触が知れれば、スパイ疑惑をかけられてライブラ内で始末される可能性だってある。……僕にとってきみは、その程度の些末な存在でしか、無かったはずなのだ。


「……さん、誰か探してるんですか?」
「あ、あのね、ツェッドくん……この公園で、時々話すひとがいたのだけれどね、最近、会わないんだよねえ……何処かに、引っ越しちゃったのかな……?」
「そうだったんですか……ご友人ですか?」
「うん、わんちゃんを連れてるお兄さんでね、よく話をしたの。不思議なひとだったけれど、優しくてね」
「そうですか……また、会えるといいですね」
「……うん、そうだね。きっと、また会える気がする」

 ……外れ続けたきみの勘など、当たる筈がないというのにね。 inserted by FC2 system


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