対岸、橋は架からない

 音本真、とは私の夫の名である。その妻たる私の名前は音本、……否、今となっては、元妻、といったほうが正しいのかもしれないけれど。
 夫、真さんとは見合い結婚だった。夫との間に情熱的なまでの愛情があったのか、と問われれば、即座に頷くことは難しく、けれど、私は私なりに真さんを尊敬していたし好ましく感じていたように思う。それが、どれほど彼に伝わっていたのかはわからないし、彼にとって、私がどれほど意味のある存在だったのかどうかも、また、分からない。……否、本当は、知っているのだ、私はそれを、認め難いと言うだけで。きっと、真さんにとっての私は、左程に意味のある存在では、無かったのだろう。それも、今だからこそ、分かることだけれど。

『……さん、私の個性は“真実吐き”。私には、言葉の裏の本音が分かってしまう。……だからこそ、生涯において、心から信の置ける人物には出会えませんでした』
『……はい、真さん』
『どうかゆめゆめ、お忘れのないように。たとえあなたが繕ったところで、私にはあなたの本心が分かってしまうのですから』

 ……ああ、思えばこそ、始めから信用などされていなかったし、期待だってされていなかったのだろうな、私は。恋愛結婚なんかじゃない私たちには、お互いを愛していた、なんてうつくしい理由があって隣にいたわけじゃなくて、所詮は、この人なら他の誰かよりはまだ良いか、という妥協でしか無かったのだ。……けれど、だからこそ、真さんにとっての及第点を目指そうと、私なりに彼に歩み寄ったつもりだったけれど。そんな打算込みの譲歩など、彼は必要としていなかったのだろう。……真さんが本当に欲しかったものは、心から尽くしたいと思える相手か、心から彼を必要としている相手か、きっと、その二択でしか、なかったのだ。

『ーー指定ヴィラン団体、死穢八斎會の一連の事件により、警察では“敵”として、首謀者の死穢八斎會若頭、治崎廻、以下構成員を拘束しており、現在取り調べが行われています。拘束された構成員は、玄野針、音本真ーー……」

 ……そんなの、言ってくれなきゃ、わからないよ、真さん。真さんには私の気持ちが分かっていたのかもしれないけれど、私には真さんの気持ちは、分からなかった。相手の心がわからないのに自分の感情だけが筒抜けているというこの関係に、私はきっと、怖気づいていたのだろう。いつからかきっと、私は本気で真さんに歩み寄ろうとしなくなってしまった。……今になって、そんな過去を思い起こして、後悔したところで、何の意味もないことくらいは私にも分かっている、……けれど。
 夫、音本真は、至極普通のサラリーマンで、その個性の都合上、会社でも苦労しているようだったから、私も心配くらいはしていた。妻として、なんて言えるほどに、私と彼は親密な関係でも、信頼しあっていたわけでもなくて、会社での軋轢を彼は私に相談なんてしようと思わなかったのだろうし、私に相談したところで無駄だということくらい、敏い彼には分かっていたのだろう、と。そんなことは、私にだって分かっているけれど、……それでも、ひとことくらい、相談してほしかったなあ、と。そう思うのは、わがままなの? ……ある日突然、あなたが家に帰ってこなくて、それから数日後、会社の人や警察の人たちが家にやってきて、私は彼らの勧めで真さんの捜索願を出して、……それから、しばらくの時が過ぎ、心労で私の体重が5キロほど減った頃に、テレビ越しの報道で私はあなたの逮捕を知った。……ああ、もう、二度と、あなたはこの家に帰ってこないのだと、ニュースを呆然と聴きながらも理解して、私はあなたに選ばれなかったのだ、あなたには私では相応しくはなかった、満たせるだけの器じゃなかったと思い知らされたとき、私は明日からの将来への不安だとか打算なんかじゃなくて、あなたに歩み寄るチャンスはもう与えられないのだと理解して、子供みたいにわんわんと泣いたのだ。……ああ、わたし、あなたのことが好きだったのね、真さん。わたし、ほんとうは、あなたのことを、ちゃんと理解したかったのだ。……理解してあげなきゃ、いけなかったのに。



「……音本真、前職はサラリーマンで……妻がいるようだが」
「ああ……戸籍上だけの関係です。仮面夫婦、というものですよ」

 ……若の夢を失い、警察での取り調べを受ける中、失意に沈む私は、ふと、忘れていた彼女の顔を思い出した。さん。彼女を私の伴侶と呼んで良いのか、私にはわからない。……私は、彼女という存在に歩み寄ろうとしてこなかったから、だ。

「……もう、彼女とは何の関係もありません」

 彼女と私は、深く愛し合った仲などではなかった。……だが、彼女には私を理解できずとも、欲するものを与え合うことは出来ずとも、彼女が懸命に私に歩み寄ろうとしていることには私も気付いていて、それでいて、私はそれに応えることが出来なかったのだ。……結末に辿り着いた今、思い起こしてみれば。私はいずれ自らが破滅を歩むことを予期していて、その道連れに彼女は相応しくない、と。……そう、考えていたのかもしれません。

「……私とは似ても似つかない、清らかで美しい心の持ち主なのですよ、彼女は」 inserted by FC2 system


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