どの雨にも青が潜んでいる

※ver.4.3時点での執筆。魔神任務4章5幕までの内容を含みます。
※フリーナ短編と同一夢主。



 彼女は人で在り、されど凡人ではなく稀人であった。
 当初、私は人間の礼儀に則り彼女を「さん」或いは「殿」と呼称していたが、私がそのように彼女に呼びかける度、彼女は何処か困ったような顔で、「水龍であるあなたにそのように呼ばれると、水神の従者としては困ってしまいます」と彼女がそう言うものだから、私は五百年もの間、長らく彼女を「」と呼んでいる。
 私と彼女は直接的な上司部下でもなく、フリーナ殿の下に着く者同士であれば、私と彼女の立場も同僚と呼べる対等なものかと思い、私としてはを尊重したつもりだったのだが、──どうにも、人間の道理と言うものは複雑だ。
 私がパレ・メルモニアへと招かれた頃には既に、はフリーナ殿の傍仕えとして彼女に侍っていた。
 故に、当初私へと人の世界の規則を指南してくれたのは、フリーナ殿との両名であったのだ。
 水神であるフリーナ殿とは違い、は正真正銘の人間だ。──五百年の時を生き続ける中で、既に周囲が彼女を人間として扱うことも少なくはなっていたが、私は当時から今まで変わらずに、は守られるべき側の存在であると、他と違わず脆い人間なのだとそのように考えている。
 私は、彼女に恩がある。今日の私がフォンテーヌの民と共生出来ているのは、人間社会の規則を教えてくれたが居たからこそであるからだ。突然フォンテーヌに最高審判官として招き入れられた私を訝しむ者も当時は非常に多く、周囲へと馴染めずにいた私を異質なものとして敬遠する者も、当時は今以上に多かった。
 そのような状況下にありながらも、が私に親身に接してくれたのは、──彼女自身がフリーナ殿に拾われた他所人であった、という彼女の境遇こそが何よりも大きかったのだろう。
 
 は、フォンテーヌの民ではない。
 彼女は、亡国カーンルイアの血を引く貴族の出身であり、天理の呪いを受けた彼女は死ぬことも許されぬ不朽の身として、五百年の時を生きている。
 その出自をは決して周囲に隠しているわけでもなかったが、公にすれば不要なトラブルを生むという我々の考えから、彼女のルーツを知る者は今でも少なく、“従者は、水神フォカロルスの眷属である”という共通の認識の元に、人ならざる何らかの存在であるものとして彼女は扱われている。──何しろ、天理の呪いを受けた彼女は神にも似た気配を携えており、私とて彼女の出生を明かされるまでは、フリーナ殿に類する存在なのだと思い込んでいた程だ。
 神の居ない国で貴族として生まれ育ったは、七神の従者という立場へと身を堕としたことを想えば、哀れな存在だと言えるのかもしれない。──しかし、幸運にも彼女を拾った神は、他でもないフリーナ殿だった。
 フリーナ殿は、まるで人間のような情緒を持ち合わせた神だった。……当初はそれも、という人間の従者を傍に置いているからこそ、彼女に感化されているものかと思っていたものだが、──五百年の時を越えて明かされた事実によるところでは、──どうやら、感化されていたのはの方であったらしいのだ。

 五百年もの間、摩耗に晒され続けたが、それでも、人間性を失わずに生きていられたのは、──同じように五百年の時を生きる人間であるフリーナが、彼女の傍に居たからこそである。
 ──フリーナは、神ではなかった。
 彼女は、水神フォカロルスの分け身である人性の部分であり、フリーナ自身には神性は宿っておらず、──彼女は紛れもない凡人で、フォンテーヌの民であった。
 フリーナだけが原始胎海の水に溶け、は決して水泡に帰すことはない。
 彼女たちは五百年もの間、共に連れ添い互いを心の支えとしてきたのだろう。──しかし、その実でフリーナはにさえも明かしていない秘密を抱えており、──その事実が白日の下に晒されたあの日、フリーナはパレ・メルモニアを出て行ったのだった。
 は当然、従者としてフリーナを追おうとしたが、──フリーナは柔らかながらも確かに彼女を拒絶して、だけがパレ・メルモニアへと残された。
 今までフリーナが担っていたフォンテーヌの顔役としての職務は、今後は私がその一部を担うこととなる。──であれば、今までフリーナを支えてきたは、今後は私の従卒となるのが順当であると言って、──そうして、私はフリーナからを託されたのだった。

 あの日からずっと、は意気消沈した様子でありながらも、実直な彼女は職務を放棄することもなく、私の仕事を手伝ってくれている。私の副官としての業務は、フリーナの傍仕えであった頃と比べれば遥かに多い筈だが、それさえも彼女は「やることの多い方が気も紛れますから」と、そのように語るのだった。
 ──五百年の時を生きながらも、には“気を紛らわしていなければ、現状のままでは身が持たない”と感じるほどの人間性があり、情緒が残っている。──それは、彼女が摩耗で幾つもの財産を取り零すたびにフリーナがしっかりとその両手に荷物を握らせてきたからこそ、大切に護られ続けた輝きであった。
 はきっと、百年後にはフリーナをも忘れてしまうのだろう。
 ──そして、百年後にはフリーナはフォンテーヌに居ないのだと、──目の前にある事実は、どうやらそのような未来を指し示しているらしい。
 
 今まで私は、とフリーナは変わらずにパレ・メルモニアへと居続けるものだとばかり思っていた。──だが、現にフリーナは既にこの場所を離れて、彼女が暮らしていた搭の上は現在、空き部屋となってしまった。
 はかつてのフリーナの私室を、「いつでもフリーナ様が帰って来られるように」と管理し続けているものの、──フリーナがこの場所へと戻ることはもうないのだと、彼女とてきっと理解は出来ているのだ、……本当は気付いていて、それでもまだその事実をは直視できない。
 ──だが、天理の呪いを解かない限りは、はその事実さえもやがては忘れてしまう。
 私がフリーナに託されたのはの身の安全と彼女の安寧、そして、これから先の五百年を共に生きられない彼女の代わりに、の取り零した記憶のひとつひとつを彼女の掌の中に握らせてやるという、──フリーナが大切にし続けてきた、その役目でしかないのだろう。
 
 ──恐らくだが、それはフォカロルスではないフリーナという人間にとって唯一、彼女が持ち得ていた大切な財産で、──されど大海に旅立つにあたって、既に適任者は彼女ではなくなったものとフリーナは考えており、──実際に、彼女の選択と人選は正しいのだろう。フリーナ以外にその役目を務めることが叶い、同時にの生に異質を覚えることもなく彼女を隣人として得難く感じている者など、私しか居ないのだ。

 ──しかし私は、未だに実感が追い付いていない。
 五百年もの間を最も近くで共に過ごしてきた隣人が、この先の五百年どころか百年後には既に居なくなっているのだというその事実を、──私とが受け止められるようになるまで、一体、何百年の時を要すると言うのだろうか。──只でさえこの五百年の間に見送った人々のことを、私は忘れられずにいると言うのに。
 ──であれば、フリーナと生きた日々についての記憶に留まらせておくのは、──彼女を苦しめることになるではなかろうか。私は、に何を握らせてやるべきなのだろう、フリーナは私に何を望んでいるのだろうか。
 結局のところ、五百年の歳月を彼らの輪の中で過ごして尚、私には人間という生き物を完全に理解し切れてはいない。そんな私が、フリーナという心優しい人の代わりにを正しく導いてやることが出来るものか、──未だ答えは見つからず、されど確かに私は、彼女たちを大切な存在であるとそう感じているのだろう。
 三人の寄り合いではなく、ふたりで五百年を生きるのであれば、──これからの私と彼女に必要なものは、一体、何なのであろうか。


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