いくつかの別れがあって朝にはすべて忘れてしまった

 鳩原未来には姉が居た。鳩原はボーダー外部の人間で、私生活面で妹・未来を支える存在だった。──少なくとも、周囲はそのように鳩原姉妹を認識していたことだろう。生まれつき体の弱いはトリオン量も低く、一度はボーダー隊員を志したものの、正隊員になることは出来なかった。それならばと、技術方面から支えようとも試みたが、──弟を近界に攫われ、妹が隊員として苦悩の中で戦う日々に、自身が戦場に立つこともままならないと言う負い目は、をあっさりと追い詰めた。心労から遂に倒れた彼女はそれきり、二度とボーダー本部には戻れずに、一般人に戻り、病院での療養生活を送っている。──未来が近界へと渡航した現在も、守秘義務の範囲外の一般人として、病院で。──何も知らされないまま、鳩原は今日も息をすることだけを、許されている。

「──失礼する。調子はどうだ、
「! 二宮さん! 特に変わりないですよ」
「……そうか。どら焼きを買ってきた、部下が此処の店を好きで……」
「いつもありがとう、二宮さんはA級の隊長さんで忙しいのに、お見舞いまで……」
「……まあ、偶に顔を出しているだけだ。お前が気に病むようなことじゃない」

 鳩原は、妹・未来の失踪を知らない。かつて彼女の同級生であった雨取麟児が未来と共に姿を消したことなど、彼女には知る由もないのだ。そんなへの憐憫からか、責任感なのか、或いは同情か、そのどれもが当てはまるのか。未来が姿を消して以来、二宮はずっとの見舞いを続けている。週に一度、大学の授業の合間に病院まで顔を出しに来る二宮の訪問は、今ではの数少ない楽しみになっていた。病院のベッドの上からまともに動けないと、自分の足で近界へと旅立ってしまえた未来と、──一体、どちらがより不幸であったのだろう。二宮が漠然とそう考えながらと話している合間も、二宮が見舞いにと持参したどら焼きをちまちまと食べるは、相変わらず食が細いようで、二宮は彼女のその姿に思わず顔を顰める。
 麟児と同級生であったは、二宮とも同学年ということになる。その縁もあり、がボーダーに所属していた頃、二宮とは個人的な付き合いも多少は持っていた。──だが、未来が失踪した折に、組織は彼女を“危険分子”と判断し、ボーダー関係者としての過去の評価を撤回した上で、彼女は記憶封印措置を受けることとなった。──だから、今のは、ボーダーで過ごした日々のことを何ひとつ覚えておらずに、妹はおろか、弟だって今も無事で過ごしているものだと思い込まされている。……妹はボーダーでの職務が、弟は学校での生活が忙しくて、なかなか姉の見舞いに来られないのだと。そう信じ込んでいるが「ふたりが元気なら、私はそれで平気なんです」と無理矢理に笑って眉を下げるのを、二宮は何度も見てきた。何度も、何度も、──何度も、彼女の笑い方は妹に似ているようで、あまり似ていない。無理矢理に取り繕った笑い方は未来のそれよりも上手で、同時に、「妹と弟が息災なら」という言葉には偽りがないものだから、二宮とて反応にも困る。……は嘘を吐いていないから、其処には嘘っぽさの欠片もない。只々、彼女の笑い方は痛々しく、……儚かった。

「……二宮さん、未来はどうしていますか? ボーダーで、上手くやっているの……?」
「……ああ。……鳩原は、俺の元でよく働いてくれている」
「! よかった……! あの、写真とか……」
「……悪いが、俺は写真を撮らない。……今度、犬飼にでも撮らせておく」
「うれしい、ありがとう、二宮さん……! 本当は、未来と電話ができたら、いいんだけどな……」
「…………」
「でも、私はお姉ちゃんだから。贅沢言わないの、未来、ときどきメールをくれるし……」

 そのメールの送り主が、──未来ではないと知ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。二宮と部下とで“鳩原らしい”返事の文面をすり合わせて考え、二宮が未来の端末から返信をしていると知ったなら、彼女はどう思うのだろう。「……二宮さん、もう限界なんじゃないんですか?」氷見が、辻が、犬飼が、……部下たちが口々にそう言っていた。その通りだと、二宮はそう思う。……ああ、そうだ。もう、こんなのはとっくに限界なのだ。未来がの前に姿を見せないことも、電話のひとつも寄越さないことも、何度言っても写真を送ってはくれない二宮のことも、──その癖に、欠かさず訪れる二宮のことも。……それらの不自然にまるで気付かないほど愚鈍な女ではないと、二宮はの人物像を知っている。にとっては既に二宮匡貴は“妹の上司”以外の何者でもなくなってしまっていたが、二宮にとってはそうではない。彼にとっては今も変わらず、鳩原は彼が気に掛けるだけの理由を持つ相手だった。

「二宮さん、……どうか、未来のことをよろしくね」

 目を細めて微笑む彼女に二宮は、じくり、と心臓が痛んだような心地を覚える。──この痛みを、かつて、彼は、──が麟児へと微笑みかけているのを見た際に、感じた記憶がある。あの頃は、理由など知れなかったこの痛みの意味を、今更知れたところで何になる、と。──そう思いながら、二宮は来週も病院を訪れるのだろう。限界だと、互いに心を削るだけの逢瀬なのだとは分かっていても、それ以外にに何をしてやれるのか、彼は未だ手立てを持たない。 inserted by FC2 system


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