月がどうしても君にあれこれする

 このあいだ、さんに会えた。……このあいだ、というのが、どのくらい前になるのかは、よく分からない。地下に連れてこられてから、わたしには、今がなんじで、なんにちで、なんがつなのかが、よく分からないのだ。だから、私にとっては、まだ最近の、少し前の出来事。もしかしたら、それはもう最近のことではないのかもしれないけれど、私は、さんに会えたことがうれしかったから、あの後、いやなこと、いたいことがたくさんあったけれど、さんの手、やさしかったなあ、と。何度もそればかりを、思い出している。
 ……だけど、多分、もう。さんは、私に会いにこれないとおもう。

『……、さん……たす、け、』

 ……て、と。さんに、泣きついているところを、……あの人に、見られてしまった。今まででいちばん、こわい顔であの人は私を見下ろして、……多分、さんがあのまま、私から離れなかったなら、私がさんから離れようとしなかったなら、……わたし、あの人に殺されてた。いつもは、殺されてから元にもどされるけれど、あの時のあの人に殺されていたなら、……元に戻してもらえなかったような、気がして、すごく、こわくて、ひとりになってからずっと、からだがふるえて、なみだ、止まらなかった。

「……っ、う、うう……」

 さんがあの人に連れて行かれて、それからしばらくして、多分、朝になってから。いつも通り、じっけん、けんきゅうのために私は連れ出されて、それで、……いつもよりも痛いことを、たくさんされた。いっぱい、きられて、たたかれて、ちがでて、いたくて、すごくすごく、こわかった。

『……壊理、お前、俺の言いつけを破ったな?』
『……っひ、ごめん、なさ……』
『俺は、彼女に縋るな、……助けを求めるなと、そう言ったはずだ』

 私、さんのことがすき。……でも、あの人も、さんのことが、すきなんだ。それも、私がさんをすきになるのよりも、きっと、ずっと、前から、あの人はさんがすき。私が、さんの手に触れられるとうれしくって、安心して、ずっとおはなししてほしいな、って思うのとおなじように、たぶん、あの人も、さんの手がすきで、……あの人は、きたないのがとても嫌いだから、私がさんにさわるのを、きっと、ゆるせないんだ。……それに、私、知ってる。さんが、私に教えてくれたから、しってるの。

『……あのね、さん、すきなものある?』
『……好きなもの?』
『うん。……なかよしさんどうしは、すきなもの知ってるんだよ。ご本でよんだの』
『そっか、エリちゃんは、何が好き?』
『りんご! あと、さんもすき……』
『ふふ、私もエリちゃん好きよ』
『! ほかには? いちばんすきなのは、なに?』
『いちばん? ……うーん、一番かあ……お父さんでしょ、針くんと、入中さんと、八斎會のみんなでしょ、……でも、そうね、いちばん好きなのは、廻かなあ』
『……あの人が、すきなの?』
『ええ、好きよ、大好き。私のいちばん、たいせつなひとなの。……みんなには、内緒、ね? なかよしのエリちゃんにだけ、教えてあげる』

 ……さん、あの人のことが、すきなんだって、そう、言ってたの。なのに、私がさんにたすけて、って言ったら、またあの人を怒らせちゃう。私が怒られるだけなら、いいけれど、……もし、あの人が、怒って、さんをいじめたら、どうしよう。……私のせいで、さんが、あの人にたたかれたり、怒られたり、したら、どうしよう。すきなひとに叩かれて、いじめられたら、さん、かなしい、よね? 泣いちゃう、かもしれない。……どうしよう、どうしよう、どうしよう。だめだ、もうさんに頼っちゃ、いけない。さんが傷つくの、いやだよ。……でも、この前、さんに会ってから、このまいにちが、きゅうに怖くなちゃった。もう、慣れてきたようなきがしてたのに、……あの優しい手に、触れてもらったら、明日がくるのがいやになってしまって。……だから私は、はじめて、ここから逃げよう、と思った。このままじゃ、わたし、またさんにたすけて、って言っちゃうかもしれない。もういい、私がいたいおもいをするだけで、みんなきずつかないなら、それで、もういいよ、って思っているのに、あきらめようと思っているのに、思っちゃったの。さんの顔を見ると、……もう一度、あのやさしいひとと、おひさまのしたで、って。そう、おもっちゃう。……逃げなきゃ、逃げて、たすけて、っていわなきゃ。ずっとここにいたら、わたし、わたしのせいで、さんが、助からなくなっちゃう。どうしよう、どうしよう、私のせいだ、私のせいで、さんが、……あの人に殺されちゃったら、どうしよう。たすけて、だれか、おねがい、たすけて、たすけて! いやだ……!

『……ごめんね、痛かったよね』
『……あ』
『あれ、立てない? 大丈夫?』

 ……おねがい、さんをたすけて、ヒーロー。



「……エリちゃんが、脱走……?」
「ああ。……困った奴だ、まだ、我儘が通ると思っていたとはな」

 その日の午後、部屋で本を読んでいたら、入中さん、……が入ったぬいぐるみが私の部屋を訪ねてきて、なかなかその姿は見慣れないなあとか、でもやっぱり可愛いなあとか思っていたら、その愛くるしい姿とは反対に、鬼気迫る様子で、入中さんは私にこう告げたのだった。

「お嬢! すぐに来てくれ! オーバーホールを宥められんのはお嬢だけだ!」
「い、入中さん? 急にどうしたの……?」
「壊理が逃げた! 既に連れ戻された後だが、オーバーホールの奴、かなり気が立ってやがる……」

 ……と、それだけを聞かされて、応接室に連れて行かれ、扉を開けてみると、其処には険しい表情の廻が座っていた。応接室に配置された黒革張りのソファの、廻の隣へと腰掛けてみると、ふわり立ち上るくらいに強く、シャボンの香りがする。今朝とは違うシャツを着ているし、どうやらお風呂を済ませた後らしい。……と、いうことはつまり廻は先程、“何か汚いものに触らなきゃいけなかった”もしくは、“触られた”。……或いは、“誰かを壊したのか”、そのいずれかがあった、ということだ。
 入中さんが私を呼びに来ているあいだに、針くんがお茶を淹れてくれていたらしく、廻の隣に座ってすぐに、針くんがコーヒーカップを二組持って、部屋へと入ってくる。

「……すいません、。廻を頼みやすね」

 それだけをそっと私に耳打ちすると、針くんはすぐに部屋を出ていってしまって、入中さんもよちよちと小さな足で針くんに続く。そうして、一瞬で廻とふたりきりになった部屋で、珈琲を飲みながら、私は廻とお話をすることになった。要するに、私の今日のお仕事は、廻のメンタルケア、ということになってしまったらしい。針くんと、入中さんの一存で、だ。
 まあ、特に私も不満があるわけじゃないし、こういう時の対処にも慣れているし、……私が、緩衝材になることで、廻が誰かを壊さずに済むのなら、それに越したことはないと思う。……大変だったね、と。一言、私から声を掛けると、ぽつりぽつりと状況を話し出す廻は、思ったよりは落ち着いていた。……入中さんは、私と廻がお父さんに拾われるよりもずっと前から若衆として組にいる人で、今は本部長まで上り詰めた人でもある。私にとってはおじさんのような人で、入中さんは私をお嬢、と呼んで昔からよく可愛がってくれた。そんな入中さんは当然、廻のことも幼い頃から知っているわけで、今は廻の方がポストも上で、入中さんも廻の計画に賛同したからこそ、部下として従ってはいるものの、やはり本質的には、入中さんは私達にとっての年長者として立ち回ってくれているから、入中さんが廻に手を焼かされるどころか、私に匙を投げ渡してくるなんて、余程のことだと思ったのに。思ったよりは、全然、平気そう、……と、最初は思ったものの。

「……壊理の奴、」
「? うん」
「……を助けてほしくて、逃げ出した。……そう、クロノに言ったらしい」
「……? わたし、を……? エリちゃんが、自分を助けてほしかったんじゃなくて……? 私をって、何、から?」
「……俺から、だそうだ」
「……え、」
「自分のせいで、が俺に虐められると思ったんだそうだ、だからヒーローを呼びに行った。……全く、笑わせてくれる……」

 笑わせる。そう、言いながらも、……廻の表情はちっとも、笑ってなんて居なかった。……ああ、そういうことか、と思う。恐らく、廻は先程までもっと荒れていたのだ、けれど、針くん経由でエリちゃんの言い分を聞いたことで、……怒りの矛先を失ってしまった、と。そういうこと、なのだと思う。
 基本的に廻は、他人の評価というものを気にしない。例外はお父さんくらいだけれど、それはそもそも、お父さんだけが廻を正当に評価してくれたから、というところが大きい。家が極道で、天涯孤独の身で、……という背景を持つ廻は、学校でも、何処でも、昔から能力に見合った評価を受ける機会が、少なかった。……廻本人は、元々そんな気はなかったようだけれど、中学時代、廻の成績と個性の実戦レベルなら、十分ヒーロー科がある高校にも、入れたと思う。それこそ、雄英のヒーロー科だって、合格ラインは満たしていたはずなのだ。……まあ、問題は、極道の家の子供では、書類審査で弾かれてしまう、というところだろうけれど。
 そうして、自身への正当な評価とは程遠い人生を歩んできたから、廻は人の目を気にしないし、基本的には他人に何を言われたところで、何とも思っていない。だから、世間の目など節穴だと、彼はそう思っているし、……実際に、私と廻の関係性にしても、組の内部でも多大な誤解を受けていることは、私だって廻だって、知っていたけれど、それだって、何も思わなかったから。だからこそ、二人の関係に明確な名前を付ける必要性も、お互いにあまり感じていなかったように思う。別に、誰に何を思われ、言われ、勘ぐられようと。私は廻が、廻は私が、お互いを得難く感じていることを、ちゃんと理解しているから、特に必要性を感じていなかったのだ。……でも、それは閉ざされた箱庭で、私と廻が寄り添って生きていたからこそ、まかり通ってきたことでもある。

「……、俺は、お前を殴ったりしない」
「……うん」

 外側から、たった一言“それは可笑しい”、“それは歪だ”、“それは愛情じゃない”と正論で殴りつけられて、「もう大丈夫だよ、助けてあげるからね」と何処かのヒーローが言ったなら、……きっと、私達にとっての普通は、一瞬で瓦解するのだろう。

「切り付け、刻んだりしない、……怪我の治療の必要がなくなってから、俺が一度でも、お前を傷付けたことがあったか?」
「……ううん、ないよ。廻はずっと、私を護ってくれてるよ」
「そうだろう、それなのに、……ヒーローどもは、あの頃のお前を助けなかったくせに。今更、湧いて出て。……ウチを嗅ぎ回って、組長を追いやっただけじゃ飽き足らずに……! 俺の計画を邪魔して、挙げ句お前まで、連れ出されるところだった! 壊理が余計な真似をしたからだ! あのまま、壊理がヒーローに保護されていたら!」
「……廻、」
「……お前を、奪われていたかもしれない。……何故だ、何故、壊理は、お前を助けてほしいなどと……俺がお前に何をした? 其処まで愚鈍だったか、あの餓鬼は……」
「……廻、廻。落ち着いて、」
「……俺は、を愛している。只、それだけだろうに……」

 見れば分かるはずだ、何故、誰もそれを理解しようとしない。何故、ヒーローなんかに正当性を求める。あいつらに、何の権利があって、俺から、全てを奪っていくんだ。……その後も、廻は暫くそんな風に、ぐるぐると言葉を漏らしていて、私は何処にも行かないよ、とか、ヒーローは私を助けてくれないよ、とか、たくさん、たくさん、言葉を唱えたけれど、廻に届く言葉は、上手く見つからなくて。……それで、私は気付いた。……廻がくるしいのは、私達の関係に、正当性がないからだ。正論を振りかざされたときに、異常だ、と一蹴されたときに言い返す言葉がないからだって、そう思ったのだ。

「……廻、」
「……なんだ、」
「廻、私のこと、好き?」
「……何度言わせる気だ、好きに決まっている」
「あのね、実はそんなに言ってもらったこと、ないと思う」
「……そうだったか?」
「うん。でもね、私も廻が好きだよ」
「……それも、知っている」

 でも、ほかに必要なものが何なのか、私には分からなくて。……私はきっと、世の中が決めた肩書きを、廻に背負わせるのが、嫌だったのだと思う。この世界が嫌いだったから。……廻のことが大切で、大好きだから、この社会における型に嵌めたくは、なかったのだ。

「……ねえ、廻。嫌なことばっかりじゃ、ないよね? 例の薬、流通段階に入ったって……」
「……ああ、未だ時限の効果しか得られないが、既に実験も済んでいてな、運用の段階に入っている。人体へのデメリットも、見当たらない」
「! あ、あの、……それって、」
「ん、……どうした、
「……私の個性も、消せるってこと?」

 ……私は、いままでずっと、停滞したまま、波風一つ立たない代わりに、決して先にも進めない、そんな航海を続けていた気がする。夜の海を、何も見えないままに、廻に手を引かれて、溺れないギリギリを泳いでいた。……そんな日々が、ひとつの終止符を迎えたのは。きっと、……あの夜の出来事、だったのだろう。 inserted by FC2 system


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