ひなたに引きずり出してやろうか

 ちくり、と針が肌を刺す感覚に、ちいさく眉根を顰めて、それから間髪入れずに、痛くないよ、と呪文のように唱えてみせるの姿に、どうにも居心地が悪くなる。……細い針を刺されるだけだとしても、一瞬だろうがなんだろうが、痛いものは痛い。採血で慣れている、と言いたいのかもしれないが、それはそれで、俺にとって喜ばしいことでもなかった。その痛みに、慣れさせたのは誰かと言えば、俺だ、という答えしか有り得ないから、だ。
 細胞や血液から、壊理の個性因子を抽出し、個性を無力化する薬……その試作品は、時間制限付きの代物だった。十分、実用の範疇で、血清の作成にも成功している為、万が一に体質などの問題で合わなかった場合にも、すぐに沈静化が図れる。そのため、このプロトタイプは既に、市場に流せるまでになった、……ということは、つまり。の個性を無効化することもまた、可能になった、ということ。しかし、俺の側からその事実を、なかなかに話せずに居たのは、それでも、……もしも、万が一、何かがあったら? という不安が拭いきれず、再計算を繰り返していたから、……だったのだが、遂にプロトタイプの完成を知ったから、直接、乞われてしまった。……その薬を、自分に打ってみて欲しい、と。……注射など、同じ薬品を医療知識のある人間が打つ以上は、誰が打ったって大して変わりはない。……それでも、俺が注射器を取ったのは。少しでも、痛くないようにしてやりたくて、傷が残らないようにしてやりたくて、……俺が、その傷に責任を持ちたかったから、だ。

「……これで、本当に個性が、消えたの?」
「数分もすれば、効果が出てくるはずだ。まあ、少し待て」
「う、うん……」

 清潔な診察台、……壊理の実験を行っている部屋とは別の、の採血や個性弾の生成にのみ使用されている、真っ白な部屋。きっちりと着込んだ服の袖を捲り、注射痕をガーゼで抑えているは、そわそわと、何処か落ち着きがなかった。個性を消したい、無くしたい、という彼女の願望は、決して俺の思想の押し付けではなく、本人が強く望んでいること。一時的にとは言え、それが現実になる、……という事実に、いまいち実感が及ばないのだろう、ということは、俺にも想像が容易かった。……そして同時に、俺にとってもその数分間は、どうにも落ち着かないものでもある。万が一など有り得ない、と設計した俺自身が一番理解しているものの、何かあっては困る相手に使用している以上、心配は尽きなかった。

 そうして、十分ほど様子を見た後。から少々採血をさせて貰い、血液自体も検査した上で、念のためにと、予め用意しておいた餌に彼女の血液を混ぜて、水槽の中のラットに与えてみる。何ら躊躇うこともなく餌に口を付けるラットを見て、の表情が一瞬曇るが、……その後、餌を完食したラットは、依然、元気に走り回っていた。

「……成功だな。の血液を摂取しても、異常は見られない。現在、お前の血中からは毒物が検出されない状態にある、何も問題は……、?」
「……ほ、ほんとう? ほんとうに、私、……誰も傷付けない?」
「ああ、問題ない。相手が人間でも、同じ結果になる」
「…………」
「……、どうした」
「……じゃあ、廻に触れても、大丈夫?」
「……それは、元より何の心配もいらんと言っているはずだが」
「で、でも……」
「問題ない。懸念の必要も、ない。仮に俺がおまえの血液を摂取しても、今は何も起きない」
「……じゃあ、」
「ああ、どうした」
「……キ、ス……して、ほしい……」
「……それも、何時だって構わないと、言っているはずだが」

 ……物分りが悪いのではなく、頑ななのだ、この女は。かちゃり、ペストマスクの留め具を外し、するり、と手袋をも外す。未だ皮の手袋を嵌めたままのの手首から、指を滑り込ませて、俺はの手から手袋を抜き取る。素手に素手で触れる、というだけのことですら、彼女にとっては、緊張感が伴う行為だ。もしも、互いに指先を怪我していて、その傷口を重ね合ってしまったなら、相手は一瞬での毒に感染する。……まあ、それも本当は、要らぬ心配に過ぎないのだが。が手を、肌を重ねる相手など、俺以外に有り得ず、俺は仮に感染したところで、直ぐに無効化出来る。だから、何も怖いことはない、と。そう、何度言い聞かせても、はどうしても怖いと言って泣く。手袋、衣服を身に着けた上からであれば、安心して触れられるからと言って、俺に触れる為に、年中全身の肌を覆い隠す彼女は、……普段は決して、こんな風に、強請ったりはしない。からキスを強請られたことなど、初めてだった。指を絡め、頬から顎へと滑るように撫でて瞳を覗き込むと、頬を紅く染めて目を閉じ、薄く唇を開く姿にどうしようもなく劣情を覚える。いつもだったら、こんな真似は絶対にしないのだ、彼女は。そんなことをしては危ない、……それに、俺に潔癖の気があるから。たしかに俺は他人の体温が嫌いだ、だがお前は他人ではないから気にならない、といった言葉に偽りはなく、もそれ自体は信じているように思う。だが、時折何かが彼女にブレーキを掛けるのだ。……それなのに、今はこうして、自ら、俺に暴かれることを望んでいる。
 唇を合わせると、俺はのお望み通りに、舌を差し込みあつい口内を蹂躙してゆく。平熱よりも、体温が高いのは、必要以上に厚着ばかりしているからだ。歯列をなぞり、上顎を舌で撫でて、こうしてと、互いの体液を交換することに、俺は恐ろしいほど安堵を抱く。嫌悪など、感じた試しがなかった。こんなことを望むのは、後にも先にもお前だけだ、きっと他の奴とでは、吐き気が止まらなくて仕方がなくなるのだろう。お前とぴったり触れ合っているとき、俺は、……自分が人間なのだと、強く実感できる。お前と俺は同じ生きものなのだと、そう感じるのだ。

「……っ、は、廻……」
「……

 長いキスを終える頃には、診察台の上に半ば崩れ落ちるように、の半身を組み敷いた格好になっていて、……そこで、彼女の服装を見下ろして、思った。

「……、以前に俺、……それにクロノやミミックからも、服を贈られているだろう、今も手元に在るのか」
「え? もちろん、私の個性が治ったら、着られるようになるかと思ってたから……あ!」
「……そういうことだ。少し外に出るぞ、待っていてやるから、着替えてくるといい」
「ほ、ほんと? でも、いいの? お仕事は?」
「今日のところは、急ぎの仕事はない。……そもそも、今日はの経過観察で傍に居るつもりだったからな。事務所に居るか、外に出るかの誤差だ、問題ない」
「そっか……。じゃあ、廻とふたりでおでかけね? ふふ、うれしい、すぐに着替えてくるね」
「急がなくていい。女の身支度は、時間がかかるものだろう。本でも読んで待っている」
「はぁい」

 生憎だが、俺のためにめかしこんでこい、だとか、歯の浮くような台詞が言える性分じゃない。だが、俺の意図をは長年の付き合いからか、おおよそ汲み取ったらしく、一度二人で地下から上の屋敷内に戻り、隣の私室で身支度を整えていたが、小一時間ほどした頃に、こんこん、と控えめに俺の部屋の扉を叩き、声を掛けてきた。「……廻、おまたせ」勝手に入って良い、と言っているのに、妙に律儀な奴だといつも思う。まあ、俺も実際、にはとても見せられないようなことをしている時も、度々あるので、有り難い場合もあるのだが。「ああ、入れ」そう、簡素な返事をすると、がちゃり、と開いたドアの向こうに、着替え終わったが立っていた。

「ど、どうかな……変じゃない?」
「……ああ」
「こういう服、着たことないから……ほんとにおかしくない? 似合わないよね?」
「……否、よく似合っている。……綺麗、だ」

 ……そんな言葉が、自分の口から滑り落ちるとは思わなかった。俺自身、するり、と溢れた讃美に動揺していたが、は大層嬉しそうな風で、薔薇色の頬を抑えてちいさく微笑む。平時よりも、華やかな色の化粧と、機能性など無視した、手足の露出したワンピース。淡い藤の花色をしたそれが、日に焼けていない白い肌によく映える。……大分前に、俺が贈ったものだった。いつも機能性だけを重視した服装をしているは、黒っぽい服を着ていることが多く、まあ、それも似合わないわけではないが、……もっと似合うものがいくらでもあるだろうに、と。ずっと、そう思っていた。せめて上着くらい、年頃の女らしいものを、と気にかけているのに、俺と揃いのモッズジャケットを着て喜んでいる始末。それはそれで、悪くはない気分ではあったが。……いつもの彼女の真っ黒な服装は、俺にはまるで病院着のように思えて、仕方がなかったのだ。白い患者服とは正反対の色であるはずのそれを、が身に着けていることに、いつも、言い知れない不快感を覚えていた。靄が掛かったような、拭いきれない焦燥。……それが、どうだ。明るい服で着飾り、照れくさそうにはにかむは、……とても、病人とは思えなかった。

「廻にこのワンピース貰って、嬉しくて、部屋の中で時々着てみたりしてたんだけどね……廻といっしょに出かけるのに着ていけるの、うそみたい……」
「……そう、か」
「うん! ほんとうに、うれしい……」
「まだ家から出てすら居ないだろうに、大袈裟だな……ほら、出かけるぞ」
「? なあに?」
「手。……はぐれたら、困るだろう。お前は、外を出歩き慣れていないからな……」
「……うん、ありがと、廻」

 と手を繋ぐために、俺は片手だけ手袋を外してポケットに仕舞い、は手袋を屋敷に置いたままで、二人で街に出た。行きたいところはあるか? と聞いても、突然のことで思い付かなかったのか、は適当に散歩してみるだけでいい、という。……とは言え、近場を歩いてみたところで、この辺りは一帯が八斎會のシマで、周辺の店は大抵、ウチにショバ代を払っている店ばかりで、若頭の俺が昼間からその辺りを歩いていれば、どうしたって目立つし、“普通の散歩”などが出来るはずもない。この辺りにも、ヒーロー事務所が増えてきたこともある。何も俺とて、今日は何も起こすつもりはないが、向こうもそうとは限らない。これなら、少し遠出したほうが良かったか、とも思ったが、それはそれで、俺が本部から離れすぎても、本部で有事が起きた際の対処が遅れるし、万が一にでも、の様態が急変する可能性がないとも言い切れない以上は、本部から離れすぎるのは避けたいところでもあった。
 ……結果、本部の近く、……とは言え、繁華街に近付きすぎない公園などを散歩して、途中で見かけたキッチンカーで、珈琲を買い、公園のベンチに座って。……特に、何の面白みもない、散策とも呼べぬ状況になっているように思うものの、はにこにこと、嬉しそうにクレープを頬張っていた。……屋外で作って売っているものなど不衛生だから、あまり食わせたくはなかったのだが、

「お兄さんたち、デート? 彼女さん、可愛いね」
「……は?」
「今ね、カップル限定のサービスしてて、ドリンクを買ってくれた方に、プラス百円でクレープつくけど、どう?」
「クレープ!」
「はは、お姉さん、好きそうだね。お兄さん、買ってあげなよ」
「……どれが良いんだ、
「! いいの?」
「ああ、好きなのを選べ」
「じゃあね、この、いちごとカスタードのやつ……」

 キッチンカーの店員は、どうやら、この辺りの人間ではないようで、俺を見ても誰だか分からなかったらしい。馴れ馴れしく話しかけてくる態度に苛つきはしたが、目をキラキラさせてメニューを覗き込むに、どうにも怒気が削がれてしまった。クレープだのりんご飴だの、最近だと、タピオカだの。そんなものは、夏祭りだとかでウチでも鉄板のシノギなので、特に物珍しくもなければ、原価だとか、パッケージだとか、そういった要素にばかり俺は目が行ってしまうのだが。……しかし、にとっては、あまり馴染みがあるものでもないのかもしれない。俺やクロノが組の下っ端だった餓鬼の頃は、組長に言われて、屋台の売り子をしたこともあったが、そんな時も、は其の場には居なかった。人が集まるところで、カタギ相手に食品を扱うのは怖い、と言って、いつも彼女だけ屋敷に残っていたのだ。それに、年中厚着のは、大層、夏に弱いから。夏祭りになんて行ったことがなくて、俺達が土産に持ち帰る断片的な情報でしか、何も知り得ないのだ。……こんなことですら、初めてか、と。当たり前すぎて見落としていた気付きに免じて、店員の不躾な態度も、今回は見逃してやる。……まあ、それはそれとして、此処で商売をするからには、後日ウチの若いのにでも、上納金の回収はさせて貰うが。

「……おいしい!」
「……甘そうだな」
「おいしいよ? 廻もたべる?」
「否、俺は……」

 車内とは言え、屋外で作ったそれは、放置した卵液を使いまわした器具で焼き、衛生度が不安な具材を乗せ……という、到底、遠慮したい代物だった。そもそも、俺は甘ったるいものは好まないし、意味のない間食には意義を見い出せない。……だが、そうも嬉しそうにされると、否定する気にもなれなかった。それに、平時ならばは、俺に食べ差しの物を差し出すなんてことは、絶対にしない奴だ。それに関しても、お前ならば平気だと何度言い聞かせても、衛生面と感染の危険性と両方を加味した上で、手を付ける前に俺に差し出すか、手を付けていないものを差し出してくるのだ、普段は。
 今は、気分が高揚して、をそのような行動に駆り立てている、とも思えるが、それより何よりも、……別に、は元から俺の潔癖が彼女にも及ぶ可能性など、危惧していなかった、ということなのだろう。ならば、俺の言葉を信じていなかったわけでは、断じて無く。只々、俺の身の安全を、案じていただけ。……それほど、にとって俺が特別なのだと言うだけの話。

「……あ」
「! はい、どーぞ。……おいしい?」
「……まあまあだな。……
「ん? なあに?」
「……楽しいか?」
「ええ、とっても!」

 嬉しい、楽しい、と繰り返して、その合間にゆっくりと大事そうにクレープを食べる横顔は明るくて、この時間ごと、噛み締めているかのようだった。ゆっくり、ゆっくり、彼女にとっては些細なことのひとつひとつもすべて、きっと、夢のような時間だから。すべてを咀嚼し、嚥下するには時間を要するのだろう。

「……廻、さっきの店員さんに怒らなかったね。何か注意するのかと思った、あの人、許可取ってないんでしょ?」
「……まあ、今日のところはな。あの男の馴れ馴れしい態度は、勘に障ったが」
「ふふ、そっか。……私はね、ちょっと嬉しかった」
「嬉しい?」
「ええ。……私、八斎會が好きだし、自分がカタギじゃないことは、別に何とも思ってないの。……でも、さっき、私も廻も、まるで普通の人みたいに声を掛けられて、デート? って言われて、……なんだか、嬉しくて、楽しかったの!」
「……そう、か」
「ふふ、……わたし、廻の彼女さんに、見えるのかなあ?」
「……見えるも何も、その通りだろう」
「え、」
「……違うのか? 俺とお前は、そういう間柄……、だと、思っていたが」

 ……何も、この関係に、名前を付けるのが嫌だったわけではない。世間が決めた形式に、則りたくはなかった、というわけでもない。……ならば、何故。結論付けることを、怠ったのかと言えば、単純に、俺には分からなかったのだ。こうも、得難く思う相手を、俺はの他に、誰一人として知らない。この感情は、生まれてこの方、彼女にしか抱いたことがなくて、葛藤するまでもなく彼女は俺の傍に在り、互いに近しい感情を抱えている自覚もあったから、尚更、分からなかった。
 ……皆が、俺を欠けた人間だと、そう呼ぶ。俺は、他者というものが基本的に好きではないから、その言葉を否定しきれない自覚がある。他人と自分とが、同じ人間という種族である実感が、俺にはなくて、だからこそ他人の体温は気味が悪かった。肉塊に温度が宿る理屈を科学的には理解できても、どうしても、心が拒んで振り解かんとする。……だが、にだけは、一度もそう思ったことが、なかったのだ。俺にとって他人ではない生きものは、彼女だけで、だからこそ、の気持ちを理解できなくなる日が来ることに、俺は恐怖している。
 俺は、あまり多くの感情を知らない。だからこそ、お前のそれは愛情ではない、と。そう、糾弾される度に、分からなくなっていったのだ。俺がに向けるこの感情を、人は暴力と呼び、恐怖支配だと言う。……違う、そんなモノじゃない。俺は、を傷付けない。暴力など、振るわない。愛し方そのものが暴行の域なのだと言われたところで、……俺は、他のやり方など知らない。だから、何度、誰に否定されようと。……お前だけが、俺を否定しないでいてくれたなら、

「俺は、お前を愛している」
「……か、い……」
「……こうして、が元気に過ごす姿を見られて、本当に良かったと思う。……ようやく報われたよ、俺は」
「……そんなの、これからだよ、廻!」
「……これから?」
「廻、ずっと頑張ってきたもの! もっともっと、報われなきゃ、おかしいよ、そんなの……私、廻にはちゃんと幸せになって欲しいよ……」
「……俺に?」
「そう。……だって、廻は、私のすきなひとだもん。……一番、幸せになってほしいし、私が、幸せにしたいよ……」



 暫く、公園を散歩してから、外で食事をしていくかと提案したものの、屋敷に戻って俺に料理を振る舞いたい、というの要望に従い、スーパーで買い出しを済ませることにした。まあ、どうしたって注目は集めるが、すぐに買って出れば問題もないだろう。「……夕飯、何を作るんだ」「うーんとね、ビーフシチューにしようかな」「……仕込みが面倒じゃないのか」「分かってないなあ、手間だからこそ、すきなひとに食べてもらうとっておきのご飯なんだよ」そんな言い分を聞きながら、必要な食材を買って、調理用と飲むのとで、適当なワインも二本調達して、帰り道にケーキショップに寄って、いつもならば他の連中のも見繕うところを、今日は記念の日だからふたつだけね、と言って、悪戯っ子のように笑う。「なんか、ちょっと新婚さんみたいだね」「……似たようなものだろう?」「針くんは、熟年夫婦みたい、って言ってたよ」「何だそれは?」……本当に、今日のは一日中ずっと、楽しそうだった。普通の女みたいに笑って、嬉しそうに俺の手を引く。
 屋敷に戻り、屋敷の台所では皆に見つかるからと言って、地下空間のの部屋近くにあるキッチンで、調理をするを横で見ていた。俺も別段、料理が得意というわけではないが、刃物の扱いで言えば得手であると言えるので、切り分けたり刻んだりを、少し引き受けて。

「……、これはここに置いておいて、いい、か……」

 ふと、顔を上げて隣を見ると、……包丁で指を切ったのか、が指先を抑えて、俯いていた。

「……あは、手袋がない分、距離感掴めなくて、切っちゃった……」

 ……その際の俺の対処が、適切だったとは、決して言えない。個性を使って治してやれば、それでよかっただけのこと。指先程度なら、俺の個性を発動しても、分解の痛みは其処まで強くはない。衛生面から考えても、傷が残る可能性を踏まえても、最適解は、瞬時に治してやること、だったはずだ。……だったはず、なのだが。俺はそのとき、躊躇うこと無くの手を取って、彼女の指先を、口に含んでいた。じわり、と舌の上に広がる鉄の味。俺の行動を、は、呆然と見つめて。

「……止まったか、唾液が入るといけないからな、水で流しておけ。今、絆創膏を……」
「…………」
「……? 何故、泣く。そうも痛むのか」
「……う、ううん、違うの。……あの、廻」
「……何だ」
「ありがと、……あの、私のごはん、食べてくれる?」
「……当然だろう、他に何を食えと?」
「ふ、ふふ。そう、……そうね、美味しくなるように、頑張るね」
「……ああ、楽しみだ」

 普段はそんな機会があっても、クロノが同席することが多い上に、そもそも、が料理をする行為自体が、稀なことだったから、彼女の手料理で、それも二人きりで、食事をしたのは、久々のことだった。俺がシチューを口に運ぶ度に、はにこにこ笑って、心底嬉しそうにする。上機嫌で、酒も少し多めに飲んでいたように思う。風呂に入れなくなるから適度にしておけ、と言って途中でやめさせたが、すると今度は、「じゃあ、お風呂上がったら、もう一回飲み直そうね」と来た。厨房を片付けてから、ぱたぱたと浴室に向かっていったを横目に、俺も風呂の支度をしに一度上に戻る。……本当に今日のは、嘘みたいに甘えたで素直で、……ああ、こちらが本当の顔なのか、俺も彼女も知らなかった、の素なのか、と。心臓が浮ついて仕方がなかったのは、俺も酒が回っていたから、だろうか。
 風呂を済ませてから、地下の厨房横のダイニングスペース、……先程、二人で食事をしていた部屋に戻ってみると、其処にはいなかった為、ワインボトルとグラスを二つ、それから適当なつまみを持って、地下内の彼女の部屋に向かってみる。が風呂に行った後で、俺は少し、実験室で今日の経過観察の結果を纏めてから、その後に別室の風呂に入ったので、は既に風呂から上がっていると思ったのだが、此処に居ないのなら、部屋に戻ったのかどうなのか。既に眠ってしまったなら、まあ、それはそれで構わないのだが、一方的とは言え飲み直す約束をした以上、一度部屋を尋ねることにした。

「……、寝たのか」

 軽くドアを叩いてみるが、返事がなかったので、試しにドアノブに手をかけてみると、あっさりと扉が開く。不用心な、とは思いつつ、部屋に入ると、はベッドの上で、布団も掛けずに横になっていた。寝落ちたのかと思ったが、俺の声に反応して、ちいさく身じろぎ、熱っぽい声で返事をしてくるので、テーブルにボトル類を置いてから、側に近寄ってみると、手を伸ばして、じっ、とこちらを見つめてくる。どうした、とその手を取ろうとすると、……ぐい、と突然、腕を引っ張られて、急なことに俺はバランスを崩し、そのままに覆い被さる格好になってしまい、の顔の横に腕を付き、体制を改めようとしているうちに、……の手が俺の頬に伸び、オフ用の黒マスクを下げられて、……彼女の柔い唇が、俺のそれを塞ぐ。押し付けてはみたものの、それ以上はどうすれば良いのかが分からなかったのか、すぐに離れていったその赤い唇に、廻、と小さく名を呼ばれ、……俺は、食い入るように彼女の目を見つめる。その目は、酔いなど微塵も感じさせずに、まっすぐに、俺だけを、見ていた。

「……廻、今日はありがとう。本当に嬉しかった。明日になったら、元通りだとしても、私、本当に嬉しかったの……」
「……明日も、また薬を打つことは出来るが」
「ううん。あれだって、結構コスト掛かってるって聞いたし、……無闇には使わない。材料のことも、考えると、……やっぱり私には、使えない。次があるなら、完成品が出来たとき、だよ」
「……そう、か」
「うん。……だからね、そのときは、またいっしょに、おでかけしてくれる?」
「いくらでも、してやろう。……次は、少し遠出でもしてみるか?」
「ふふ、たのしみ。……でね、廻、……今のうちしか出来ないことを、もうひとつだけ、したいな、って私、思うのだけれど……その、廻は、どうかな……?」
「……お前、まさか、」

 この間柄に、明確な名前がなかったとは言えども、男女仲であることだけは、お互いに承知の上だったから。……当然、そんな雰囲気になったことも、俺から迫ったことも、何度かある。だが、その度にには「危ないから嫌だ」と拒まれてしまい、事に至ったことは一度もない。何処で誰に入れ知恵をされたのか、初めては血が出ると聞いたから絶対に嫌だ、と。そう言って聞かないに、俺は俺で、傷付けないようにするとか、万が一には俺の個性で対処するだとか、言ってはみたものの、この件に関しては、本当に頑なだった彼女に、あまり無理強いするのも、それはそれで、まるで俺がそれだけを目当てにに迫っているようで、俺も嫌だったから。……結局、それらしい進展は何もなかったわけだが。

「……良いのか、
「……うん。廻なら、いいよ。廻に何かあったら嫌だから、だめって言ってただけだもん。……廻が、嫌じゃないなら、……私は、良いよ」
「……嫌な筈があると思うか?」
「ふふ、ないと思う」

 ……初めて、彼女を抱いた夜。同じ生きものだと信じることで、自分を繋ぎ止めていた、と、本当の意味でひとつになれた日、恐ろしく心が穏やかで、……俺は、俺がやってきたことは、間違いではなかったのだと思えた。決して俺が世界に祝福されずとも、俺を肯定する人間は、此処に居る。
 翌朝、薬の効果時間が切れる前に、さっさと起き出して、いつも通りの完全防備に身支度を整えたの後ろ姿には、もう既に、昨夜の余韻も、昨日の平穏も、何も残っていなかったが。夢のような時間だったからこそ、余計に、……早く現実にしなければと、互いに強く、想えたのだろう。

「……ねえ、廻?」
「何だ」
「あのね、ちゃんと治ったらね、……あの、昨日の……、また、してくれる……?」
「……だから、それは今のままでも、いくらでもしてやると言っているだろう」
「もー! それは駄目だって言ってるでしょ! 廻が危ないのはいやなの!」

 お前は本当に頑なで、仕方がないな。お前くらいだよ、。俺のことが、そんなにも心配で大切で仕方がないのは、……俺を幸せにしたい、等と言ってくる物好きは、本当に、お前くらいだ。 inserted by FC2 system


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