いつかあなたになれますように

「すいませんね……やっぱ、少し話聞かせてもらっていいですか?」

 治崎と、そして玄野達が脱出経路を歩き始めてから、暫く過ぎた頃。一行の背後には、遂にミリオが追い付いてしまっていた。
 一時、その場を音本と酒木に預け、先を急ぐ治崎だったが、それすらも振り切ったミリオは、やがて治崎と対峙する。治崎に追いつき、一発を入れようと迫るミリオの打撃をも、長年の勘で受け流し、避け切った治崎だったが、玄野はミリオの攻撃を顔面で直に受けてしまい、その結果、エリはミリオの手に渡ってしまった。

 計画の核であるエリが、ヒーローの手に渡る。
 ……それは、この場における、明確な開戦の合図だった。

「……、下がっていろ、なに、すぐに片を付けるさ……」
「か、廻……」
「……絶対に其処から動くな!」

 治崎はそう言って、を自分の背に庇い、後ろに下がらせると、個性を用いて地面を変形させることで、自分ととの間に、高い壁を作り出す。ひとまずこれで、に攻撃の余波は及ばないし、……彼女に、これから起こりうる惨劇を、彼女にとって余計なものを、見せることにも、ならない。全てが片付いてから、何事もなかったかのように壁を取り除き、に手を差し伸べてやれば、それでいい。
 治崎はそう考え、をその場に残して、玄野と共に、ミリオとの戦闘に身を投じるのだった。

 ……そうして、開戦から約20分の間、分厚い壁に隔てられた空間で、はひたすらに立ち尽くしていた。
 壁を破壊する術は彼女にはなく、例えあったとしても、そこから外に出て、状況を打破するだけの手立てもまた、彼女にはない。だが、壁の向こうから聞こえる轟音と苛烈な言い争いは、どんどんと激しさを増しており、決して状況は良くないのだということに、は否が応でも気が付いていた。玄野と音本が倒れ、現在、治崎は一人でミリオに応戦している。単純に状況だけ見れば、エリを庇って戦うことを強いられているミリオに対して、治崎の側はその不利を背負っていない。治崎とて、を背に庇ってはいるものの、彼女の周囲に壁を作り、絶対安全地帯を敷いている上に、ミリオは決してを狙ってはこないと分かりきっている。対して治崎の側は、エリを積極的に的として狙っているのだから、この局面は治崎が有利……の、はずだった。……だが、実際は、表情の揺れを覆い隠したマスクの下で、治崎はひたすらにの身を案じているのである。極道。その道に生きる彼等は元より、ヒーローなど信じてはいない。彼等にとってヒーローとは、大切なものを護ってくれる存在ではなく、大切なものを奪っていく存在、でしかなかったから、ハンデもまた、五分でしか無いのだ。

 そして、それはの側にも同じことが言えて、……は、壁の前で心の臓を握りつぶされる想いで、必死に壁の向こうの様子を、治崎の安否を確認しようと、壁に耳を当て、精神を聴覚を研ぎ澄ませて、蹲っていた。

「……っ、廻……」

 ……そんな、彼女にとっての膠着状態が、暫し続いた、そのときだった。

「起きろクロノォ!!」

 壁の向こうから、治崎の大声に、次いで爆音と騒音が聞こえる。はっ、と顔を上げようとするの周囲を覆っていた壁の一部が、その瞬間、瓦解した。咄嗟に頭を庇い、は崩落した瓦礫の間から身を乗りだそうと、縺れる足で駆け寄る。……すると、瓦礫の向こうに、射し込む光とともに、誰かの手が見えた。粉塵で曇る視界で、ぼんやりと双眸が捉えたそれを、……そのとき、は、治崎の手だと思った。……きっと、廻が勝ったんだ。終わったんだ、だって、廻は私に、すぐに終わらせると言ってくれたから。……そうやって、治崎の言うことを聞き入れていれば、信じていれば、いつも大丈夫だった。……もう、そんな状況ではないと、心の何処かでは理解できていても、その瞬間、は咄嗟に、願望に縋って、手を伸ばしてしまったのだ。

「……廻!」



「……、さんですね、あなたを保護しに来ました。……少し失礼、今すぐにこの場から離れましょう、此処は危険だ」
「……え、な、なに……あ、あなた、誰、ですか……?」
「私は、サー・ナイトアイ、一介のヒーローです。……失敬、頬を切っているようだ。……痛みませんか?」

 が伸ばした手を取ったのは、治崎ではなく、……長身痩躯のスーツ姿の男、……サー・ナイトアイ、その人であった。自分の思った相手ではなかったこと、知らない男に手を掴まれたことに動揺し、咄嗟には、男の手を振りほどかんとする。しかし、よく鍛え上げられたヒーローの、……その上、この場で救助すべき人命としてを見初めたサー・ナイトアイの手を振り解けるほど、彼女は屈強ではなく、更にサー・ナイトアイは、いつの間にか瓦礫で切っていたのか傷ついたの頬を目敏く見つけて、傷口に向かって、指を伸ばす。……それは、彼にとっては、親切心、心配からの行動だったが、……にとっては、背筋がぞっ、とする出来事だった。……この人だって怪我をしているのに、そんなことをして、もしも傷口から私の血液が混入したのなら、……私は、この人を死なせてしまう。その焦りで、は咄嗟に、その手を押し退けようとする。既に治崎と交戦している最中であったサー・ナイトアイは、全身のあちらこちらに傷を負っている。……本来、になど構っている余裕は、彼にも既に残っていなかったが、彼にとっては“救出すべき人命”だったから。

「……貴様、を傷付けたな」

 ……だが、治崎にとっても。彼女は、護るべき相手である。

「……ヒーローとやらは、都合のいいときばかり味方ヅラで、自分都合の正義を振りかざすばかり……己の正義を正当化するためならば、無抵抗で隠れている女相手でも、引きずり出し、手を上げるのか……」
「違う、彼女は、さんは瓦礫で……」
「気安く呼ぶな! ……に触れるな、サー・ナイトアイ!」

 ……そうして、振り解くまでもなく、サー・ナイトアイの手はから離れた。……音本と融合し、異形と化した治崎が、サー・ナイトアイがに接触した事実に激昂し、サー・ナイトアイの胴体を刺し貫いたから、だ。……はじめて、自分を助けようとしてくれていたのかもしれない、けれど同時に、自分が傷つけそうになったヒーロー、サー・ナイトアイが目の前に崩れ落ち、は、……思わずその場に、へたり込む。……は、ヒーローという存在を、決して信じてはいない。仮にサー・ナイトアイが自分を助けようとしていたとしても、それは彼女にとっての救いではないこともまた、分かりきっている。だから、彼の行為はありがた迷惑だ、おせっかいだ。……だが、初めて、だったのだ。日陰を歩く彼女に手を差し伸べた、本物のヒーロー。そんな相手を、自分は殺しかけて、挙げ句、……誰よりもその身を案じて、幸福を願っている相手、……治崎に、彼を殺させてしまった。……その治崎は、既に人としての原型を留めているとは言い難い有様で、おどろおどろしく、醜悪な姿で、……だが、それでも、心配げな表情を浮かべて、治崎はへと、手を差し伸べるのだった。

「……頬、痛むか? すぐにそれも治してやる、……しかし、悪いが、もう少しだけ、隠れて待っていてくれよ、……」

 傷だらけで、ボロボロの身体を無理に修復し、そんな姿になってまで自らを案じる治崎に、は、……抱き続けた疑問を、再び突きつけられていた。……敵陣のブレーン役と思われるサー・ナイトアイは、既に崩れ落ち、個性を打ち消すという、厄介な個性を持つイレイザー・ヘッドもまた、玄野の手により、この場からは隔離されている。……だがしかし、治崎は依然、ヒーローと対峙し、一人で無茶に渡り合っているのだ。音本と酒木は倒れ、最早これ以上の援軍は見込めない、それでも。どれだけ、負傷しようとも、何度、傷つこうとも、目的のために、誰かのために。……組長とと、八斎會の皆のためだけに、只ひたむきに、身体の痛みも、心の痛みも、全て見て見ぬふりをして、……治崎が其処で、ひとり、戦っているのに。

「……あ、」

 ……違う。違う違う違う、違う! こんなのは絶対におかしい、こんなのは、私が望んだ結果じゃない! 私が欲しかったのは、こんな結末じゃない!
 がそのときに、心で叫んだのは、只、それだけだった。……だとするならば、それは、きっと、恐怖が個性を伸ばした、ということに他ならない。その瞬間に、は生まれてはじめて、“死”という実感を前に恐怖し、魂が震える感覚を覚えた。自分自身はどれほど傷付けられ、痛めつけられても平気だった彼女が、……治崎が死ぬかもしれない、……彼が目の前でヒーローに、殺されるかもしれない、という、たったひとつのその恐怖を前にして、……彼女は、はじめの一歩を、踏み出したのである。

「……っ!? なんだ、これ……!?」
「緑谷! ミリオも……! 吸うな、これは、恐らくは彼女、……さんの個性……!」

 息も絶え絶えの状態で、サー・ナイトアイが真っ先にその異変に気付き、緑谷達に向かって“元凶”を指摘できたのは、誰よりもその近くに居たからに、他ならなかった。
 ……閉鎖空間である地下内に、突如、妙な空気が蔓延しだしていた。それは、ひとつ呼吸をすればすぐさまに、ぐらり、と視界が揺れるほどに強力で。明らかな毒性が、空気中に満ちている。突如、空気全体に散布された毒性に、出久が慌てて口を覆い、サー・ナイトアイの言葉通りに、の方を向いたとき、……彼は、自らの目を疑った。

 先程までは、治崎が必死でを背に庇っていたから。……彼女自身には、戦闘能力はないものだとばかり、思われていた。……だが、今のはと言うと、……全身に、その場の全員が息を飲むほどに禍々しい靄のような何かを、纏っていたのである。頬にあった傷と、それから、どうやら故意に、自分で傷付けたらしい腕から、霧状になった血液が、空気中に散布され続けており、その毒性が、治崎、……引いては、八斎會の面々以外を、無差別に攻撃していたのだ。元よりマスクを付けた彼らは、毒の散布など無効化出来る。だが、ヒーローたちはその限りではない。……だからこそ、彼女のその攻撃手段は、下手をすれば、……この場において、ヒーローだけを一網打尽にしてしまいかねない、……非常に危険なものであった。

「……いで、」

 ……そして、……の、その行動に。一番驚いていたのは、治崎だった。

「……廻を、これ以上傷付けないで! 廻の邪魔をしないで! 私の居場所を、八斎會を、……廻を殺さないで!!」

 ……長年、表向きには無個性で通っていたは、個性カウンセリングを受けておらず、個性使用の訓練もまた、一切受けていない。彼女の個性を、“実践利用”することなど、彼女を含めて誰も考えていなかったから、教えよう、教わろうとも、誰も考えなかったのだ。そうして、……使い方が分からなかった能力を今、は、治崎を失いたくない一心で、無茶に発動させて、……その上、更に向こうへと、彼女は到達したのである。

 血液に毒性を持つ。ただそれだけの特性、それっぽっちの個性だった。

 ……だが、怪我の功名と言うべきか、は咄嗟に頬から滴る血と、治崎のペストマスクを見て、空気中に自身の血液を散布することで、擬似的なバイオテロ状態を起こすことを思いつき、彼女の個性は、それに応えた。……こんなところで、何もしないままで、終わりたくない。その一心だけが、彼女を突き動かしていたのだった。

「――廻!!」

 只、傷付けられて、壊されるだけで、どんなに痛くても、我慢すればいいだけのこと。……自分のことなら、それでも我慢できたけれど。たったひとり、大切な相手、……治崎が傷付けられているのに。黙って見ているだけなど、彼女には、許せなかった。

「廻! ……行って! 此処は私が引き受けるから!」

 やがて、天井をぶち破り、リューキュウ事務所の面子が戦場へと乱入するも、何れも皆、の個性“アウトブレイク”の霧によって、弱体化を余儀なくされてしまっていた。……その中で、エリを連れて地上へと飛び出した緑谷を指し、は叫ぶ。……治崎はずっと、彼女を護って生きていた。だけど、今は自分のことを護ろうだなんて、そんなことは考えなくていい。今度は、自分の番だ。……わたしが、あなたのせなかを、まもるから。

「廻! 私が、あなたを護るから……だから、おねがい!」

 ……この場のヒーロー全員を足止めしようと、必死になって血液を散布し続けているは、とっくに酷い失血で、もう意識だって、飛びかけているはずなのに。……それでも、治崎のことは自分が護ると、そう言うのだ。……ずっと、護られる側でしかなかったくせに、彼女は。ぼろぼろの彼に向かって、ぼろぼろの姿で、笑いかける。……今までの彼女なら、今までの治崎なら。きっと、そんな言葉を真に受けたりは、しなかったことだろう。安静にしていろ、隠れて待っていろ、……そう言って、治崎はを止めたはずだった。

「……、背中は任せた!」
「はい! 任されました!」

 ……最早、誰も、この戦局には着いてくることさえも出来ていなかった。敵も味方も問わずに、其処には治崎と緑谷、彼らふたりしかおらず、緑谷の背にエリが居ようとも、治崎の隣に立つものはもう無く、全てを破壊し、彼は只一人になったのだと、そう思ったときに、……最後に、彼の背を押したのは、彼女だったから。……突き動かされて、しまった。
 そうして、生まれてはじめて“対等”になった彼と彼女は、ハイタッチを交わし、彼は、上空に向かって、飛び出したのだ。……彼女に、背を委ねたままで。



「……廻、負けるの?」

 ……やがて、空しくも落鳥した男に、必死に体を引きずりながら駆け寄る頃、彼女は、彼に負けないくらいにボロボロで。……治崎は、小さな後悔を覚え、……それでも、もう。ふたりは、後には引けなかったから。

「…………」
「……死なないで、廻……おねがい、生きて、廻とお父さんがいれば、まだ、巻き返せるんでしょ……? どうか、夢を叶えて……」
「……お、れ、は……」
「音本さんも、活瓶くんも使って、それでも勝てなかったのね。……でも、ほら。まだ、私がいるよ?」
「!」
「……融合すれば、相手は個じゃなくて、廻の一部。私の個性は、廻の個性になるよね。……そうすれば廻は、死なないし、……きっと、勝てるよね?」 

 のその言葉は、……治崎にとって、耐え難い提案だった。……たのむ、それだけはどうか、許してくれ、と。そう、乞いたかった。その提案を受け入れてしまった瞬間、“彼は彼でなくなってしまう”。……だが、最早、そんな贅沢を言っている余裕は、彼にも、彼女にも、一切残っていなかった。ふたりの悲願は、互いを幸福にすること。……だが、それは大前提として、敬愛する組長に、恩を返した上で、組長自身に、ふたりの門出を祝福してもらわぬ限りは、成り立たぬ悲願であった。

「私を、壊して。……廻とひとつになりたいの、おねがい。……これは、いつでも叶えてくれるって、そう言ったよね?」



 ……おまえとひとつになれた夜、俺は本当に嬉しかった。心底、心が満たされたと思った、俺の中の渇いた場所、人として欠けた部分も、お前がいれば満たされると思ったんだ、
 だから、もう一度そんな瞬間が訪れるとしたら、こんな形であっていいはずがなかった。こんな悪夢、許されるはずがない、許していいはずがない、……こんな結末、俺は許さない! 認めない!

「……ああ、最悪の気分だ……!」

 この手で触れて、確かに破壊した感覚が、残っている。じわり、じわりと全身を蝕む耐え難いその感触に、脳が煮えていた。触れて、慈しんで、大切に大切にしてきた唯一が崩れ、俺ごと視界を真赤に染める。狂い咲く血飛沫をその身に纏い、不自然に生えた腕は、俺の肌に継ぐには些か白すぎて、自身から香り立つ、酷く覚えの在る彼女の香水の匂いが、鼻を掠めたような錯覚に、気が狂いそうだった。……俺が、殺した。俺は、壊してしまったのだ。……ふたりの宿願を果たすために、俺は。絶対に壊してはいけなかったものを、……を、壊してしまった。

「……殺してやる、ヒーローども……!」

 たかがヒーローの一人を、殺したところで、この代償は到底賄えない。……嗚呼、嗚呼、……あああああああ! 何故だ、何故殺した! 俺は! ……を、殺してしまった! inserted by FC2 system


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