なおらない傷のような幸いがある

「……ねえ、廻の好きな食べ物ってなあに?」

 ──治崎廻という男は、ワーカーホリックの気があって、常に自分のことは二の次にするものだから、自然と日々の食事を忘れがちで。その上、神経質で潔癖症だから人の手に触れた食品を食べたがらない。ともなれば、食事は基本的に工場で生産された加工食品や携帯食料しか食べられずに、組の内部の人間どころか外食や出前で料理人が拵えた料理すら食べるのを嫌がるほどで、──そうなると、そんなことでは彼が身体を壊してしまうからと気を揉んで、結局は私が廻の食事を作ることになる。それも、常にしてあげられるとは言えないし、そもそもかつて私は自分の個性の都合上、自分の手が触れた食品を人に食べさせることに抵抗があった。けれど廻が、私の作ったものなら素直に食べるものだから、彼の顔色が悪かったり、あまりにも彼が働きづめだったりすると、針くんや入中さんに頼まれたりもして、私が廻に差し入れの食事を作る、ということが度々あったのだ。──そう、八斎會本部の屋敷で暮らしていた頃、即ち、私が自分の個性を全く御せていなかった頃に。いくらビニール手袋を何枚も付けて調理していたと言っても、彼だって私の料理を口に運ぶことには相応のリスクがあった筈で、廻の個性で相殺出来たとしても、其処には確実に痛みと苦痛が伴う。それでも、私の作ったものはまるで嫌そうな素振りも見せずに食べてくれる廻に、私がどれほど救われていたかなんて言うまでもなくて、私がどれほど自分を汚くて危険な存在だと思おうが、廻はずっと私をきれいなものとして扱ってくれていて、──だから、個性を制御できるようになって暴発の心配がなくなった今、私は自分から進んで廻のためにご飯を作るという、ただそれだけのことがどうしようもなく嬉しくて、楽しい。──けれど、ふと思ったのだ。廻って、私の作ったものはなんでも残さずに食べてくれるけれど、……そういえば私、廻の好きな食べ物を知らないなあ、って。

「好物か……特に意識したことはないな……」
「何か、少しでもない? 食材でもいいの、お肉が好きとか、野菜が好きとか、そういうのでも……あまいのとしょっぱいのだったら? どっちが好きとか、ない?」

 問いかけを一度は退けられたものの食い下がって、どうにかして廻の答えを引き出そうとするこんな質問も、多分私以外の誰かがしていたのなら、とっくに廻の逆鱗に触れているのだろうなあ、ということを私は既に知っている上で言葉を重ねて彼に追い打ちをかけているわけなので、私もすこし、狡くなったのかもしれない。休憩時間、診察室のデスクに座って私の質問攻めに遭っている廻は、少し悩む素振りを見せてからそう答えて、それでも、私がどうしても彼の答えを欲しがるものだから、廻はもう少し考えてくれているようだったけれど、結局は静かに目を伏せて眉根を寄せるので、……やっぱり、残念ながら彼の中に私の質問に対する答えは存在していないようだった。

「……何故、そんなことを知りたがる?」
「え、っと……あのね、本当は当日まで内緒にしたかったのだけれど、ね?」
「ああ」
「もうすぐ、廻の誕生日だから……あなたの好きなもの、作ってあげたくて」
「……そんなことか?」
「大事なことだよ!」
「いや、を否定するつもりはない。……だが、そうだな……」
「?」
「……強いて言うなら、お前の作った料理は好きだ、
「……それって、好きな食べ物って言うの?」
「……言わないのか?」
「うーん……どっちかっていうと、それは……なんだか……」

 それって、……私のことが好きなだけなんじゃないのかな? って、……そう思ったけれど、流石に口に出すには恥ずかしいし、自意識過剰かもしれないとも思ってしまうけれど。たぶん、おおよそ、……廻のその言葉は、そういうことだ。──毎回、味見はちゃんとしているし、以前は暇だったから、素人にしては料理のお勉強もしている方だし、不味いものを作っているわけではないと思う、けれど、……それでもやっぱり、廻のそれは贔屓目だと思うし、愛情が隠し味、というやつなのだろうと思う。でも、それは私の欲しかった言葉じゃなくて、もちろん彼の言葉はうれしいのだけれど、私は自分が嬉しくなりたかったんじゃなくて、廻に喜んでもらいたかったからこそこんな質問をしていたわけなので。
 ──例えば、食事以外に何か誕生日のプレゼントを用意したいと思ったところで、廻は無駄が嫌いでミニマリストの気があるから、装飾品とか雑貨なんかを贈っても、あまり嬉しくないだろうなと思ってしまうし。ネクタイだとか無難なプレゼントを用意するのは、少しつまらないとも思う。だからその分、お誕生日のごちそうで彼をお祝いしてあげたいと思ったのだけれど。
 ──多分、廻は。誕生日おめでとう、って。私が何を作っても、どんな言葉をかけても、喜んでくれるのだと思う、けれど。……私は彼に、いちばん喜んでもらえることをしてあげたいなあ、と思ってしまうのだ。好きで仕方ないだけなのは、廻だけではなくて私だっていっしょだから。

 そうして、どうしようかと考えて、ふと閃いたひとつの選択肢を私が唱えると、廻は少し驚いた様子で、ぱちぱちと目を瞬かせていた。

「……だったら! わたし、廻の誕生日に色々作ってみるから!」
「……? ああ」
「その中でなにがすきか、色々食べてみて、それで、廻のすきなもの、探してみよう? 誕生日までの間も、わたし、色々試してみるから!」
「いや……流石にそれは、手間だろう。お前も、俺の助手として仕事をしている以上、決して暇じゃない。気持ちは有り難いが無理はするな、
「無理じゃない範囲でするから! ……ね? いいでしょ? 廻……」
「……分かった、お前の好きにしろ」
「やった!」

 お願いだから、と言って私が念押しすれば、今の廻なら許可してくれると分かっていて頼んでいるのだから、やっぱり私も狡くなってしまったのだろうと思う。小さくため息を吐きながらも渋々といった様子で承諾してくれた廻は、私の個性が落ち着いた今でもそんなことは関係なく相も変わらない心配性で、寧ろ私に出来ることが増えたり行動範囲も広がったからこそ、廻は私が心配で仕方ないのだろうなあ、ということだってちゃんと分かっているつもりだけれど。……それでも、今の生活を送るうえで私は、今まで廻にしてあげられなかったことを、彼に返せなかった恩を返したいと思ってしまうし、誕生日にご飯を作るという毎年続けてきた何気ないそれだけのことでも、今年は妙に気合いが入ってしまうのだ。──だから、それからというもの、毎日のご飯も妙に豪勢な日が続いたし、隠れてバースデーケーキの練習も頑張っていたから、音本さんに毎日試食をお願いしていて、……それを知らない廻が、「……音本、お前少し太ったか……?」なんて苦言を呈しているのを見たときには、さすがに音本さんに悪いことしちゃったかもなあ、なんて思ったりもしたけれど。

「──廻! お誕生日おめでとう!」
「……ああ、……これは、全部が作ったのか?」
「うん。……ふたりで食べるには、少し多すぎるけれど……」
「問題ない。俺は、の料理を残すつもりはないからな」
「む、無理しなくていいよ? 針くんたちも、帰ったら食べると思うし……」
「……分かっている」

 ──本当に分かってるのかなあ、と思ってしまう程度には、このひとが私のために無理をすることなどよくあるもので。前々から気合いを入れて準備に勤しんでいたくらいだから、今日の廻の誕生日当日には、作りすぎというほど拵えてしまったごちそうを前にふたりでテーブルに着いて、私の向かいに座った彼は静かにフォークとナイフを手に取る。……私はてっきり、針くんたちも同席するものだとばかり思っていたのに、当の彼らは、「こんな日くらいはとふたりきりになれるように気を利かせないと、廻に睨まれちまいやすからね」なんて言って朝から出かけて行ってしまって。廻と私のふたりだけの食卓に、フォークとナイフの小さな音が鳴る。義手にもとっくに慣れた手付きで食事を進める廻をそうっと見つめながら、食器の音だけが響く静かなパーティーの席は、無音に近い静寂の中でも不快にならないのだから不思議だ。……昔からずっと、廻のとなりはとても静かで、それでいて、私にとって他のどんな場所よりも安心出来て気の休まる場所だった。──だからこそ、私の大切な廻が喜ぶようなお祝いをしてあげたくて用意した、今日の食卓。いつものビーフシチューにラザニアとパエリア、手毬寿司にベーコンとほうれん草のキッシュと鯛のカルパッチョ、ローストビーフにエビとアボカドの生春巻きと、ブーケサラダに鶏もも肉のワインビネガー煮込み。……脈絡もないし、作りすぎで溢れた食卓だけれど、廻の好物を見付けたいという理由であれこれ並べられた料理たちを、廻のお皿に少しずつ取り分けて、それらを静かに口元に運ぶ彼の所作はきれいで不思議とそれを美しい絵画のようだと思う。……いつまででも見つめていられるし、いつまででも見つめていたい。けれど今は、廻の反応を見極める方が大切だ。それは、あまり表情の動かない彼だから、嗜好への自覚も薄いし、ほんのわずかな表情のゆらぎでも見つけられれば、廻の好物を知れるかもしれないと思っての行動だったけれど。

「……? どうした」
「……あの、廻……」
「なんだ」
「……もしかして、作ったごはん、全部好き……?」
「最初からそう言っている。……どれもよく出来ているな、何より、お前が作った品だろう。俺が嫌う理由がない」

 ──それは、たぶん、ほんとうに。他のひとには分からないんじゃないかなあ、って。そう自惚れてしまいたくなるほどの、ほんの些細なひとみの揺らぎや口元のゆるみに過ぎないのだけれど。蜂蜜色の瞳が、少しだけ蕩けるのを、私は見てしまったし気付いてしまった。ごくん、とごはんを飲み込んで、ワイングラスに口を付けながら不思議そうに私を見つめる廻は、……なあんだ、ほんとうに、私の作ったものならなんだって好きだったんだなあ、って。そう思えるくらいに、満ち足りた顔をしているのだもの、あなた。そんなのって、胸がぎゅうっと締め付けられるほどに嬉しくなってしまうし、……あなたのこと、ますますだいすきになって、しまうよ。

「──デザートにケーキもあるから、おなか、残しておいてね?」
「ああ。……ケーキもが?」
「うん。いちごのショートケーキとね、チョコレートムースのケーキと、ベイクドチーズのケーキをね、作ったの」
「……手間だっただろう、三種類も」
「ううん。廻、甘いのならどういうのが好きなんだろう、って気になったから、色々作っちゃっただけだから……」
「……そうか」
「うん。……でもね、もう分かっちゃった」
「俺の好みをか?」
「うん。……廻、わたしのこと、だいすきなんだね?」
「何度もそう言っている。……お前は? 違うのか? 
「ううん。……だいすきだよ、廻のこと」
「……そうか、それは何よりだ」

 食べられないほどのごちそうを作ることも、そもそも、偏食で潔癖なあなたの地雷を避けながら日々のごはんを拵えることも、きっとほんとうは、とってもめんどうなことなのでしょう。けれど、私はそれを面倒に感じたことなんてなくて、あなたに求められている、許されているのだと思うと、それをどうしようもなく嬉しく思うの。それは、あなたと同じで。私も、あなたのことがすきですきで堪らないからだ。

「……廻」
「ああ」
「生まれてきてくれて……私と出会ってくれて、助けてくれて、いつも守ってくれて、ありがとうね」
「……その程度、いつでもしてやる。……お前くらいだよ、俺にそんなことを言うのは」
「ううん。……きっと、みんなそう思ってるよ。……あなたは、優しくて強い、私のすてきなヒーローだもん」

 次第に雪が雨に変わる冬の終わりに、春のにおいを連れて。あなたはこの世に生まれてきてくれた。そんな今日のこの日にあなたのいちばんそばで新たな一年への一歩を祝福できる私は、きっと誰よりも幸せな人間なのでしょう。 inserted by FC2 system


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