遠ざかるえいえんに命を与える

 その小さな女の子に、私はきっと、昔の自分を重ねていたのだと思う。
 エリちゃんは、お父さんのお孫さんで、エリちゃんのお母さん、つまり、お父さんの実の娘さん……、のことは、私も知っているけれど、組の外、つまりは堅気の人と結婚する、と言って家を出ていったきりになってしまっていた、あのひとの娘が、エリちゃん、ということ、だそうで。私は正直、エリちゃんのお母さん、……お父さんの娘さんのことが、あまり得意ではない。元々、極道の家に生まれたことを、彼女はよく思っていなかったようで、お父さんとは喧嘩ばかりしていたし、……何より、あの人がお父さんの、娘だったから。

『治崎、お前がもちっと成長したら、若頭の役目はお前に任せるからよ』
『本当か? 組長』
『俺は冗談なんざ言わねえよ、も、治崎が適任だと思うだろ?』
『……はい、お父さん』

 もしも、廻が若頭になったなら。それは、お父さんの跡を継ぐ立場になる、ということ。……そうなったら、廻は、当然。お父さんの娘の、あの人と、……夫婦になる、よね? って、そう、思ったから、あの人が苦手だった。あの人がいる限り、私はいつか廻と一緒に居られなくなるのかも、って。そう、思って。私はそれが、怖くて仕方がなかったのだ。あの人は、私達よりもいくつか歳が上だったけれど、それでも、そこまで離れているわけでもなくて、それは十分にありえる話だと思った。一度、針くんに、その不安を打ち明けたら、そんなことにはならない、と言って、針くんは、私を励ましてくれたけれど。きっと、お父さんが一言、娘を頼むとそう言ったなら、廻はその通りにする……、と、そう思う、から。本当に、理由はそれだけだったけれど、私はあの人を、あまり好きになれなかった、のだ。
 私なんかを拾って育ててくれた上に、廻とずっと一緒に居られるようにしてくれたお父さんには、本当に感謝しているし、お父さんのことは尊敬している。極道、という特殊な環境に身を置くことになったのだって、私は別に気にしていなくて、孤児院にいた頃よりずっと良いし、あのまま孤児院に居たなら、いつかは廻と違う里親に別々に貰われていたのだろうと思うと、尚更、私の人生は、これで良かったと思うのだ。勿論、最善手じゃないかもしれない。私がすべてを滅茶苦茶にしなければ、違う人生があったのだろうし、こんな力がなければ、こんな人生じゃなかったはずだ。……でも、この力があったからこそ、私は廻と出会って、一緒に生きることを許されている。たら、れば、のもしもには何の意味もないから。私は、こんな人生でも、自分は幸せになるべきじゃない人間なのだとしても、私は私なりに、生きていることを悔いたりはしていない。でも、そう思えるのは、全部廻のお陰でしかないから。……尊敬している、大切な、お父さん。そのお父さんの手で、私は廻から引き離される日がくるのかもしれない、と思うと、本当に怖かった。私が、お父さんの本当の娘だったなら。ずうっと、廻のとなりに居られたのかなあ、なんて思って、不安で、とっても不安で仕方がなかったから。あの人が結婚を理由に家を出たとき、私、少しだけ嬉しくなってしまったの。だから、やっぱり私、悪い子だ、って、そう思って、もっと小さかった頃に、毎日毎日、来る日も来る日も、ヴィラン、って呼ばれて石を投げられていた頃のことを、嫌でも思い出してしまった。私、やっぱり、悪い人、なのかもしれない。お父さんから娘さんがいなくなってしまったのに、……私、それが嬉しかったの。
 だから、エリちゃんと初めて会った日、私は、……自分は一体、なんてことを想ってしまったのだろう、と。そう、思った。あの人の娘さんのエリちゃんは、個性の暴発で父親を“消してしまった”から、家族を失って此処に引き取られてきたらしい。……同じだったのだ、私とエリちゃんは、何もかもが。家族を消してしまったエリちゃんと、殺してしまった私とでは、その罪の重さは比べ物にならないし、エリちゃんが引き取られた先は、血縁関係のあるお父さんの元だから、厳密には少し違うと言うか、私と一緒にしてしまっては、エリちゃんが可哀想だとも思うけれど。それにしたって、似すぎていたのだ、私とエリちゃんは。……不安げに、辺りをきょろきょろと見渡して、俯きがちに小声で話すエリちゃんの姿は、かつての私そのものだったから。だから私は、エリちゃんの力になりたい、と思ったのだと思う。あのとき廻がいてくれたから、今日の私があるように。エリちゃんの手を引いてあげられるひとに、今度は私が、なりたかった。

、エリを宜しく頼む』
『はい。任せてください!』
『……お前は、エリの母親には、あまり良い思い出がねぇかもしれんがな……』
『え、あ……そ、そんなこと……』
『隠す必要はねぇよ、あのバカ娘、お前さんによく突っ掛かってたしな……』
『……それは、私が悪くて……』
『まぁ、今更仕方ねえがな、姉妹らしく、仲良くしてほしいとは思ってたよ、俺ァ』
『……姉妹?』
『ん? そりゃあ、お前さんは俺の娘だからなぁ。まあ、そういうわけだ。孫のエリを任せられるのは、娘のと、息子の治崎しかいねぇってことだ。……頼んだぞ、
『……は、はい!』

 そして、エリちゃんを助ける行為を通して、他でもない私自身が一番、救われていたのかもしれない。否、きっとそうだったのだろう。だって、お父さんがそんな風に思っていてくれたなんて、私、気付かなかった。強い個性を持っていて、誰よりもお父さんの役に立って、聡くて、真っ先に組の異変に気付いて、お父さんに的確な進言も出来る、廻。若頭に指名された廻とは違って、私は約立たずで、個性の関係上、家事だって慎重にならないといけないから、下手をすれば、私に任せるよりも、お手伝いさんを雇うとか、組の若衆のひとたちに任せたほうが早いくらいの有様で。男所帯だからって、色々と私のために気を使わせてしまってもいて、廻にくっついて回っているくせに、針くんみたいに手助けだってまともにできない。はっきり言って私、組にとってはお荷物、しかも疫病神だ、と。……そう、自覚が出来ていた。それが本当に嫌だったから、もしも私でも役に立てるなら、役に立ててもらえるなら、どんな形だって良いと、そう思ったからこそ、血液提供を自分から申し出たくらいなわけで。
 ……だから、お父さんがそう言って、私にエリちゃんを委ねてくれたことが、私は本当に嬉しかったのだ。お父さんだって、私が天涯孤独になったその経緯については、把握している。私の個性のことだって、多かれ少なかれ、お父さんの知るところでもあるのだ。……お父さんは、私が親殺し、家族殺しの大罪人だと知っているのに、私のことを、娘だと言ってくれた。実の娘と同じくらいに、我が子だと思っているし、お父さんにとって、それは廻もいっしょなのだと、そう、言ってくれた。そんな風に思ってくれていたお父さんの、娘さん。あのひとに、私、なんて酷いことを想ってしまっていたのだろう、って。そう、想って、悔やんで、けれど、私は救われてしまったから。せめて、私があのひとの代わりにエリちゃんを庇護しよう。死なせてしまった、殺してしまった家族の分も、私はエリちゃんに、たくさんのしあわせをあげたいって、……そう、思ってた。

「……あ、あの、廻……?」
「……か。何か話か? 悪いが、見ての通りだ。先に風呂に入らせてくれ、このまま立ち話をするのは、お前に毒だ」
「そ、そう? 私は、平気だけれど……」
「俺が嫌なんだ。……見ろ、汚らわしいだろう、これで、お前の病が悪化してしまっては事だからな……部屋で待っていてくれないか?」
「わ、かった……あの、お風呂、沸かしてあるから」
「気が利くな、助かるよ。……では、また、後でな」

 屋敷の下に、おそらくは廻の個性で、最近、地下空間が作られたらしい……ということは、私も知っていた。私は、まだ降りたことがないけれど、乱波くんや活瓶くんに聞いた話では、その空間はどうやら、地下室、なんて規模の話では、ないらしかった。地下迷宮、と呼べるほどのその場所に、廻は針くんや音本さんと、……それから、エリちゃんを連れ立って、度々足を向けている。そうして、やがて地下から戻ってくると、先ほどのように機嫌が悪そうに、手にこびり付いた誰かの血を、擦りながら廊下を歩いているから。最初の頃は驚いて、不安になって、けれど戻ってきたときに、怪我ひとつしていない廻と、針くん、音本さんの様子にホッとして、……でも、だからこそ、気付いてしまった。エリちゃんだけが、いつもすぐに戻ってこないのは。最近、エリちゃんの手足に、包帯が増えたのは。以前にも増して、おどおどと不安げに振る舞うようになったあの子と、私がほとんど、顔を合わせられていないのは。

、待たせたか。すまないな」
「あ……、ううん、へいき、お疲れさま、廻」
「ああ」

 手早くお風呂を済ませて、首にかけたタオルでがしがしと髪を拭きながら私の部屋を訪ねてきた廻に、座るように促して、それから、少し言葉に迷って、「……お茶、淹れてくるね?」「否、来る途中に俺が取ってきた。の分もある、ほら」「あ、りがとう……」台所から持ってきたらしいペットボトルのお茶を渡されて、私は、僅かな口実も失ってしまった。屋敷内の私の部屋は、廻の私室の隣にある。男所帯の環境だから、一人にするのが心配だと言う廻の意向で、組の人達が入れ替わる度、廻が上へと上がっていく度に、部屋替えなどは何度があったけれど、それでもずっと、私は廻の隣の部屋。だからこそ、こうして廻が私の部屋に来ているのは、何ら珍しいことでもなくて、今も廻は、勝手知ったる風に私のベッドに腰掛けて、ペットボトルのお茶に口を付けている。私はと言えば、その隣に座りながら、何を言えば良いのか分からなくなって、言葉に詰まってしまっていて。
 思えば、最近は以前にも増して、廻が私の元に来る頻度が増したような気がする。……ああ、そうか、少し前までは、エリちゃんにかかりきりだったから、廻と話す時間も、減っていたんだ、私。それが、エリちゃんと過ごす時間が減って、……その代わりに、廻と過ごす時間が更に増えたのは、気のせいではない。
 そっ、と隣に座る廻の横顔を見上げてみる。少し窶れたような気がするのは、顔色が悪いように見えるのは、きっと、私の思い過ごしではない、よね。私、何も出来ない、役立たずのお荷物だけれど。それでも、廻のことだけは他の誰よりもよく見てきたから、知っているのだ。お父さんが倒れてから、……或いは、それよりもっと前の、エリちゃんを預けられた頃、組の今後について、苦悩し始めた頃からかも、しれないけれど。……廻、絶対に無理をしている。部下の前では平静を装う表情だって、ひとたびマスクを外せば、繕い切れていない疲労がこんなにも滲んでいて。他の人には、わからないかもしれない。少なくとも、マスク越しには、分からないだろうと思う。でも、私には分かっているのだ。……分かって、いるのに、私は。

「……そうだ、何か話があったんだろう。何かあったのか」
「あ、……えっと、そう、ね……」
「……? どうした、言い出し難い話か。……まさか、誰かに何かをされたのか」
「え!? ち、違うよ、そんなんじゃ……」
「本当に? ……俺に嘘は言ってくれるな、。誰に何をされた、言え。……俺が、片付けてやる」

 違うよ、廻。そうじゃないの、私が聞きたいのは、……私が誰かに何かをされたら、きっと激昂して、完膚無きまでに“やり返す”のだろうな、って、そう経験則で分かっている廻が、……どうして、エリちゃんに、そんなこと、してるの、って、私はそう聞きたいんだよ、廻。一体、あの子に何をしているの、どうしてなの? エリちゃんを傷付けたら、お父さんだって悲しむよ、私だって嫌だよ、やめてよ、廻、……って、もしも、もしもね。私がそう、言ったなら、

「……あのね、廻、エリちゃんのこと、だけれど……」

 ……もしも、私がそう、言ってしまったなら。一体、廻は、どうなってしまうのだろう。自惚れなんかじゃなく、多分、今の廻をギリギリのところで繋ぎ止めているよすがは、私だ。それなのに、その私が、廻を突き放してしまったなら? 廻は、どうなってしまうの。ずっと私を護ってきてくれた廻に、どうしたらそんな仕打ちが出来るのだろう。そう、私が、……廻に引導など、渡せるはずがなかった。

「……壊理が、どうかしたのか?」
「……最近ね、あんまり見かけなかったから、元気なのかなって、……廻は、知ってる?」
「……ああ、世話はクロノが焼いているが。まあ、元気だよ。子供ってのは元気で困る、はしゃぎ回ってな、あれでは、相手をしようにも、お前の体力のほうが持たないな」
「そう、なんだ。……そう、それなら、仕方ないね……」
「ああ、……も、残念に思うかもしれないが」
「……そんなことないよ、エリちゃんのことは気になるけれど、針くんが付いてるなら、私が見てるより安心だろうし……」
「……で、話というのは、壊理のことだったのか?」
「……ううん、違うよ。それもあるけれど、……廻と話したくて、呼び止めちゃっただけなの。ごめんね、忙しかったよね?」
「…………」
「廻?」
「……否、ちょうど、手が空いたところだよ。気にするな、

 ふわり、と私の髪に触れ、頬を撫でる手は、或いは、……既に、エリちゃんを壊した手、なのかもしれない。それでも私は、この手を怖いとは思えなくて、それどころか、廻と話したかった、と。そう告げた瞬間に、少しだけ驚いたような顔をして、それから、いつもより少しだけまなじりを下げて、ほんのすこし、私にしか分からない程度に……破顔して、微笑んだ、廻のことを。私、……何に変えても、護らなきゃいけない、と。そう、思ったのだ。今、廻がこんな風に気を楽にして笑える場所は、他にあるのだろうか? ……そんなもの、ある訳がないと分かっていて、分かり切っていて。どうしたら、私に彼を付き離せると言うのだろう?

「……廻、髪乾かさないと、風邪引いちゃうよ?」
「……そうだな、お前が乾かしてくれ」
「良いの?」
「駄目な理由があるのか? 俺も後から、の髪を乾かしてやるから、頼む」
「ほんと? やった、じゃあ、乾かしてあげる!」
「……物好きな奴だ」
「物好きじゃないですー、……私は只、廻を好きな、だけだよ」
「……そうか」

 私に向かって必死に伸ばされていたはずの、小さな手。助けを求めて、他に頼る術がなかったその手に気付きながら、私は、……その手に、見てみぬふりをしてしまった。助けてあげたかった、という気持ちは、本物だったのに。助けられなかった、価値を天秤に、掛けて。挙げ句、私の物差しだけで、一方を選んでしまったのだ。……ねえ、廻。私ね、廻が何をしているのか、何も知らないわけじゃないんだよ。廻が最近、お父さんと衝突していたことも知っているし、それが原因で、お父さんが倒れたのは廻のせいだ、なんて組の人達が言っているのも、聞いてしまったの。お父さんの意向に沿わない薬に手を付けて、シノギにし始めたのも知っているし、……でもそれは、“私の個性弾”の利益だけに頼りたくなかったからだ、ということも知ってる。エリちゃんを傷付けているのも知っているし、その手で私を護ってくれていることも知っていて、人に触れられ、触れることが嫌だから、此処に来る前にお風呂に入ってきたのに、私が髪を触るのは平気だなんて、……廻の尺度で考えれば、こんなの異常なんだって、分かってるよ。どれだけ私を大切に思ってくれているからって、こんな風に私を重病人みたいに丁重に扱うのはおかしいし、私の為に関係ない人を何人壊してきたのかも知っている。こんなのおかしい、って分かってるよ。……分かってるのに、私、それでも、そんなあなたが好きなんだよ、廻。あなたが無事なら、もう、それでいいやって思っちゃうんだ、私。
 幼い頃、私をヴィランと呼んだ、もう顔も名前も思い出せない、あの子達。彼らが数年前、行方不明になったらしい、と風の噂で聞いた。それだって、無かったことにして生きてきてしまった私は、今日。ヒーローに憧れていたかもしれない、幼い自分と決別する。

 その苦しみを誰よりも一番、分かっているくせに。それでも、あの子を見殺しにした私は、……最早、正真正銘の、ヴィランなのだと。その日私は、自らを定義したのだ。 inserted by FC2 system


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