欠落をうつくしいと呼ぶ悪いくせ

 彼女と初めて対面した日、彼女から受けた言葉に、私は思わず、感極まって、涙を流してしまい、そして、彼女、……さんが、慌てた様子で私へとハンカチを差し出して、大丈夫ですか? という、私にとって聞き慣れない一言を、まるで当然のように問いかけてくれたことが、私は、たまらなく嬉しくて、ますます涙が止まらなくなってしまったことを、よく覚えている。

『はじめまして、、と言います。廻の力になってくれる人なんだって、廻から聞いてます。廻に味方が増えて、私も嬉しいです。……よろしくね、音本さん』

 その言葉も振る舞いも、ひとつひとつの所作も、私を案じて差し出された手も、ゆるやかに下がるまなじりも、……彼女のすべては、なにもかもが、嘘偽りのない真実で出来ていた。そうして、そんな彼女の清らかさに感動して、私は、自分でも気付かないうちに、思わず、泣き出してしまっていたのである。
 ……若は、あの当時も現在も、八斎衆の人間がさんに近づくことを、非常に嫌がる。当然だ、きっと、掃除屋風情を彼女に近付けさせたくなどはないのだろう。だが、その中でも私だけは、特別だった。若から、お前に会わせておくべき人間がいる、と言われて、彼女と対面した日、……それはそれは、驚いた。ひとこと言葉を交わして、私は彼女を、清く偽りなく美しい、透き通った硝子のようなひとだと思って。彼女は儚くて、簡単に壊れてしまいそうなのに、それでいてそのまなざしは、ひどく力強い。若の協力者として私を歓迎する、と言ってくれた彼女の言葉は、本物だった。表情から、声色から、強く伝わってくる、彼女から若へと向けられるやわらかな想いは、きっと、私の個性を通さずとも、理解できる類のものだったのだろう。……それに、彼女が場に居るとそれだけで、若が何処か穏やかな声色になり、その想いもまた、私へとはっきり伝わってくるのだ。彼女は、正真正銘、若が本心から大切にしている女性なのだと、真実に愛するひとなのだと、私には、分かってしまった。私だからこそ、理解できたその事実を前にして、私は生まれて初めて、己の個性に感謝したようにさえ思う。この個性のお陰で、生きづらい人生を送ってきたが、それでも。この個性のお陰で、私は若に必要とされ、そして、若のたったひとつ大切なものを知り、若の心の柔らかい部分を垣間見ることを許された。ああ、きっと若は、言葉にせずとも私には理解できると知っていたからこそ、さんと私を、引き合わせてくださったのだろう。よりよく彼女を知ることで、何かあったときには、私もまた、身を呈してでも彼女を護るようにと。若は、私に促したのだ。

 ……私はそれを、お二人からの、信頼の証なのだと思った。

「あ、音本さん。お疲れさまです」
「ええ、お疲れさまです、さん。そちら、お荷物お持ちいたしましょうか?」
「え、でも……」
「あなたに何かあっては、若が悲しまれます。さあさあ、どうぞこの私にお渡しください」
「……それじゃあ、お願いしてもいいですか?」
「ええ! お任せください!」

 誇らしかった。彼らからの信頼を受けている、頼りにされているということが、本当に、私は誇らしかったのだ。私に生まれて初めて、本当に欲しかった言葉をくださった若。その若が、お見初めになられた女性、さん。そんな彼女もまた、若同様に、私を頼りにしてくださっている。半ば強引に、大して重くもない荷物を受け取った私のことだって、迷惑がるわけでもなく、今も彼女から聞こえてくる“本音”は「音本さん、私のことまで気にかけてくれて、やさしいんだなあ」だとか、「廻にも音本さんが助けてくれたこと言おう、音本さんが褒めてもらえると良いなあ」「音本さん、本当に廻のこと慕ってくれてるんだなあ、嬉しいなあ」だとか、驚くほどに穏やかで柔らかな気持ちばかりだ。ころころと転がり出てくる彼女のまあるくてやさしい気持ちは、その殆どが若へと向けられ、同時に、若や彼女の周囲にいる我々に対しても、与えられているもの。……こんなにも、心の清らかなひとを、私は他に知らない。こんなにも、優しいひとに、私は初めて出会ったから。

「……あの、音本さん?」
「はい、どうしました? さん」
「あの、あのね……地下で、何か実験、しているのよね?」
「……ええ、まあ、そんなところですね」
「実験室がある、というようなことを、聞いたのだけれど……」
「……それは、どなたに?」
「え? ああ、……乱波くんに、だけれど……あの、私が無理に、聞き出してしまっただけなの」

 誰に聞いたのか、言い淀んで、けれど私に対して物事を偽ったところで、それは無意味だと分かっているからか、彼女も正直に話してくださったものの、何処かバツが悪そうにしておられるのは。きっと、私経由で若に情報の出どころが知れたなら、乱波が若から叱咤を受ける、と考えて。あれの身を案じて、のこと、だったのだろう。……そんなもの、彼女が案じる必要など無いのに。さんは、貴いお方。そんな彼女の配慮はすべて、若に向けられるべきなのだ、本来は。それを我々は、若のおこぼれに預かっているだけに過ぎないのだから、そうも真剣に身を案じていただく権利など無いし、そんな風にあなたが表情を曇らせ、罪悪感を覚えるような価値のある問題では、ない。

「……それで? 地下室に何か、気掛かりなことでもありましたか?」
「ああ、そう。あの、私の採血とかも、地下でするようになるのかな? って、思って……」
「そうですね……どうでしょう、今後、そういったこともあるかもしれませんが、今のところは、若は何も、仰られてはいませんね……」
「……そ、っか」
「ええ」
「……あの、音本さん、エリちゃんは、大丈夫?」
「……はい? エリさんですか?」
「……そう。言えないなら、それでもいいの。……只、心配なの」
「エリさんのことが、ですか?」
「そう。……それも、そう、なのだけれど……」

 さんは、そう言って言い淀んで、……しかし、言葉にせずとも彼女の表情から不安な気持ちが、はっきりと伝わってきた。それは、個性を通せば、この上なくはっきりと、「エリちゃんのことが心配だ」という言葉通りのそれに始まり、「針くんと音本さんも、心配だし、」「地下で何をしているんだろう」「私には見せられないことなのかな」「……見せたくないことを、しているのかな」「お父さんと衝突していたのも、そのせい?」「本当に、大丈夫なのかな」「廻、今朝も顔色、良くなかったな」「夜、ちゃんと眠れていると良いのだけれど」「何かしてあげたいけれど、私は廻のためにできることなんて、何も……」と、……本当に、本当にあなたというひとは、どこまで。

「音本さん、……廻は、大丈夫だよね……?」

 ……何処まで、至純なお方、なのだろうか。

「……大丈夫ですとも。若の計画に抜かりはありません、さんが案じるようなことにはなりませんよ」
「……そう、よね。うん……、ありがとう、音本さん」
「いえいえ、礼を言われるようなことではありませんよ」
「音本さんも、あまり無理しないでね? いつも廻のために、たくさん頑張ってくれてるから……」
「ご心配には及びませんとも! ……私のことよりも、どうか若に、その御心配を伝えて差し上げてください。きっと、お喜びになるでしょうから」
「……そう、かな」
「ええ、もちろん」
「そう……ね、うん、そうしてみる。ありがとう!」
「いえいえ、とんでもない」

 若があなたには何も見せたくはないと仰られるなら、若が、あなたは清いままで護りたいというのならば、私はその意向に従うまで。……けれど、私はほんの少しだけ、想ってしまった。私が若に必要とされ、受け入れていただいたことで、救われたように。……どうか若にも、今あの方が抱えているものを、彼女に受け入れられることで、救われて欲しい、と。そう、願ってしまったのだ。 inserted by FC2 system


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