世界でいちばん正しい病

 予てより兆候は、あった。は、何も気付いていないふりをしていたし、俺も真相を隠してはいたが、恐らくならば多かれ少なかれ、察しは付いているはずだ、とも思っていた。だからこそ、動向を悟らせないように気を配っていたつもりだったが、それでも彼女は気付いてしまった。それは、俺が抜かったのか、それとも、……或いは、……俺は本当は、を巻き込みたかったのかも、しれない。安全圏に身を隠しておけば、何も知らない間に何もかもが終わっている。そうすれば、が知らないうちに、彼女の病気を治すことも叶うようになって、何の後ろめたさも無く、彼女は健やかに生きていける。だから、何も知らなくていい。何も教えなくていい、と、そう決めたはず、だったんだがな。……それでも、俺は心の何処かでは、こう考えていたのかも知れない。もしも、滞り無く予定通りに事が運んだなら、が何も気にせずに前を向いて生きていける日が来たのなら、……彼女が堅気に、戻れてしまったなら、……俺は、にとって必要のない相手になる。彼女が壊したものを俺が治さずとも、そもそも、彼女が何も壊さないで済むようになったなら、俺のこの手を、病を治す手が必要だった彼女にとって、俺は、必ずしも必要な相手ではなくなる。……その日がきても、俺にとっては変わらず、は必要な相手なのに、だ。……嗚呼、そんなのは許せないよな、許せるはずもない。お前の病気を治してやる、何も臆せず人に接し、触れて、隣人を愛し普通の女として生きてみたい、というその夢は、望みは、俺が叶えてやる。だが、その相手は俺が選ぶ。病めるときも健やかなるときも、お前の手を取っていいのは俺だけ。お前が縋っていいのは、俺だけだと、……俺がそう、決めたのだ。

 それは人として間違っている、侠客としての道から外れている、と。組長にそう言われても、理屈としては理解できても、心からその意味を噛み砕いて嚥下することは、叶わなかった。何も言われた理屈に全く理解が及ばない、というわけではない。俺だって、組長やの身体を無闇に刻んで売りさばく、なんてことはできないし、したくもない。……だが、壊理ならば、別に構わないだろう? と、そう、思っているのだ、本心から。あれはまだ、何も成していない子供で、人としても未熟で、能力だって未完成。真っ当な運用方法を考えて、悠長にも人間として育てようとしていては“機を逃す”。……今しか無いんだ、AFOが失脚し、支配者が居ない今しか、俺達が取って代われるタイミングは、ない。壊理を人として育てていたんじゃ間に合わない、どの道、あれはもう家族を失くして帰る場所もない、唯一の肉親は組長だけなのだから、過程はどうあれ組長の役に立てるなら、それに越したことはないだろう。傷付けられれば、壊されれば、そりゃあ壊理だって痛いが、所詮は子供だ。なぜ痛いのか、なぜ苦しいのか、なぜ自分はこんな目に遭うのか、が分からない子供なら、何も感じていないのと同じだろう。だから、これが正しい。情緒もまともに育っていない子供ひとりの犠牲に躊躇して、機を逃していたのでは話にならない。大局で物事を考えれば、俺が正しいのだと組長だって理解できると思っていた。だから、何度も説明して、どんなにシメられても諦めずに、組長が理解できるように、理解してもらえるように、俺なりに心を砕いた、言葉を尽くした結果が、……もう出ていけ、と。理解を拒み、只一言付き渡された、明確な拒絶であった。どうして、分かってくれない。俺は、話し合いで理解し合うことを望み、必死に譲歩を見せたはずだ、歩み寄ったはずだ。それなのに、倫理や道徳だとかそんな不確かな絵空事で投げ返されて、……組長は、俺よりも壊理を取った。俺にはそれが、理解できなかった。俺と壊理、どちらがより役立つか、どちらが信用できるかなど、考えればすぐに分かるだろう? ずっと組に尽くしてきた俺よりも、急に湧いて出た子供を取るのか、……どうして、どうして、誰も、俺を理解しないんだ。

「……廻、あのね。……私を、地下室に連れて行って。ちゃんと、見ておきたいの、廻がしていること……」

 ……お前も、すべてを知ったなら、組長と同じことを言うのだろうか。なあ、。俺はあの日からずっと、頭痛が止まらないんだ。ずきんずきんと頭が割れそうなほど、目が眩んで膝を付きたくなる瞬間が、数え切れないほどに在る。
 一度、信じたものに突き放される感覚を味わったからこそ、二度とそんな思いはしたくなかった。だが、それと同時に、それ以上に、……俺は、受け入れて欲しかったのかも知れない。の手で、言葉で、俺の結論を、彼女の結論にして欲しかった。他の連中とは違う、だけは俺を裏切らない、同じ生きものなのだという実感が、欲しかった。

 だから、を、地下室に連れて行く。其処ですべてを見せて、何もかもを打ち明ける。そう、俺が話したとき、動揺して、少し考え直すべきだと進言してきたクロノに反して、音本があっさりと俺に賛同……どころか、そうするべきだ、と珍しく意見をしてきたことが、少し意外だった。音本は俺の考えに従うことが多く、自分から意見を上げる、ということがあまり多い方ではない。そして、俺の不利益になるような真似をする奴でもなければ、そういった言動を見せる奴でもなく、また音本は、を大分気に入って……というよりも、彼女をある種の偶像として見ている節さえある。だから、音本の賛同を得られたのは、実はかなり大きかった。何の根拠や理由があって賛同したのかまでは分からなかったが、少なくとも俺にとっては、この選択は間違いではない、と。音本の賛同が、そう思える理由の一端程度では、あったのだ。

「……ええ、すごい! こんなところに入り口があったの!?」
「まあな」
「全然気付かなかった……お掃除とかで、この部屋にはよく入るのに……」
「簡単に見つかったのでは、隠している意味がないからな。……足場が少し悪い、手を貸せ」
「う、うん」
「滑るなよ、気を付けて降りるといい」

 地下室へと降りる隠し通路の場所は、にも明かしていない。無論、地下の存在に気付いていたならば、地下に降りる階段が何処かにあることくらいは考えが及ぶだろうが、その隠し場所を明かした際には、秘密基地を見つけた子供のように、驚きを隠せない、と言った様子で、は少しばかり高揚しているようにさえ見えた。そうして、初めて降り立った地下空間を、俺の先導で歩きながら、「……すごく広いのね、廻の個性で、地中を作り変えたの?」「まあ、そんなところだ」「すごいすごい! 廻、また個性の使い方上手くなったんだねえ」「壊して作り変えただけだ、大したことでもない」「そんなことないよ、だって、大工さんとか、家具職人とかにもなれるよ?」「……俺は極道なのに、か?」「うん! 廻は極道としても優秀だけど、他のお仕事もなんでもできそう、まずお医者さんでしょ、なんでもできて、すごいねえ……」大して中身もない話をしつつ、目ぼしい部屋をひとつひとつ案内していく。「此処は応接室だ」「きれいね」「客人を招く部屋だ、衛生度は重要だろう」「廻、綺麗好きだものね」「こっちは風呂だ」「お風呂も作ったの……!?」「……先日のように、汚れたままで戻ると、お前に害が及ぶ」「そんなの、気にしてないのに……」「俺が気にするんだ」他愛もない会話、それでも、日頃屋敷の外に出ることが少ないにとっては、組の外……というよりも、地下だが、此処のどの設備も彼女には新鮮だったようで、楽しそうに、にこにこと笑って俺の案内に着いてきていた。いろんな部屋があるね、と嬉しそうに話していた、その表情が凍ったのは、……実験室の前まで、来たときのこと。

「……此処が、件の実験室だ」
「……此処で、何の実験を?」
「壊理の個性の転用を試みている。……そこに、空の水槽があるだろう」
「……? うん」
「其処には、昨日までラットが居た。もう、壊理の個性で消えたがな……」
「!」
「前に話した通りだ。壊理の個性は、巻き戻し。存在を無かったことにまで巻き戻せる力だ、使い方次第では、もっと大きな流れを元に戻せる……人を猿に戻したりだとか、な。……俺は壊理の個性で、超常が無かった時代まで、人を戻してみせる。この研究が軌道に乗れば、……、お前の病気を治せるようになるはずだ」

 俺の言葉に、は大きく目を見開いて、消え入りそうで震える声色で、かい、と俺の名を呼ぶ。泣き出してしまいそうな、表情だった。……俺の凶行の発端のひとつが、自分にあることを理解してしまった、顔だった。
 それから俺は、へと、俺の計画のすべてを話した。この研究は、ザッと見積もってもかなりの金になるし、ヒーロー側に対しても、ヴィラン側に対しても、抑止力になり得る。壊理の身体をさばいて作っている以上、他の人間に製造は出来ない、ウチで市場を独占することで、八斎會は今一度支配者に返り咲き、這い上がる。この計画の成功を持って、……俺は、組長に恩義を返せると、そう考えている、と。

「……そして、お前を普通の女にしてやれるんだ、

 計画の全貌を話し終わったとき、は、俯いて、小さく震えていた。俺が話している間は、相槌のひとつも打てない様子で、……きっと、相当にショックだったのだろう。……その気持ちは、残念ながら俺には、測り知れなかったが。

「……今、エリちゃんは?」
「……壊理に用意した部屋で寝ている。実験で、大分弱ってきていてな、自力ではほとんど動けない。……そろそろ、一度リセットする予定だ」
「……リセット、って、」
「俺の個性で、壊して治す」
「……それは、今回が初めて?」
「否。既に何度も、壊している。お陰で、怯えて俺とは口もまともに利けない有様だ。仕方がないから、玄野に相手をさせている」
「……そう」
「……
「……なあに、廻」
「…………俺を、許せないか。組長は、俺を許さないと言った、だから……」
「……お父さんが起きないのも、廻がやったの?」
「……そうだ」
「……私がもしも、廻を許さないと言ったら、私も壊すの?」

 ……どうして。どうして、そんなことを言うんだ、。ようやく顔を上げたと思ったものの、そう、静かな言葉を放つ彼女は、俺と目を合わせようともしてくれない。駄目なのか、やはり。……お前も、俺を突き放し、拒絶するのか。

「……壊せるはずが、ないだろう……」

 ……それは、越えてはならない一線だった。幼い頃から自分に架した成約なのだ。それは、それだけは、決して出来ない、許されないことだった。壊して治す俺の個性で、壊したって、殺したって、なんだって直ぐに元に戻せる。だから、俺は命を軽んじた、人間など所詮はその程度の価値に過ぎないのだと考えた。只の肉塊に血が通い体温が宿った薄気味の悪いモノでしかないのなら、殺したって壊したって良心など痛まない。戻せば全部元通りになるのだから、精神論など非合理な理屈を俺は唱えない。必要であれば、何だって壊した、何だって殺した、目的のためならば、俺は決して手段を選ばなかった。それでも、

「……お前だけは駄目だ、……俺にはお前は、壊せない……壊したくないんだ……」

 壊したくないものが、失いたくないものが、ある。手放すのは堪難く、だったらいっそ、と思うことすら、叶わない。それなのに、打ち明けてしまったのだ、俺は。全てが滅茶苦茶になるかもしれないリスクを知った上で、こんなのはちっとも論理的じゃない。……とてもではないが、自分でも、正気の沙汰とは、思えなかった。

「廻、……泣かないで、廻」

 泣いてなど、いなかった。俺は泣いたことなど無いし、泣き方も知らない。冷血漢と呼ばれようが、何とも思わなかった。血の通った生きものは生ぬるく気味が悪い、ならば血の通わぬ俺はそれよりも余程マシだと、そう思っていた。だが、はそうではないと、俺に泣くなと言う。俺に泣くなと言いながら、彼女が俺の首に両の腕を回し、俺の身をそっと引き寄せようとするものだから、俺はこの場の空気に似つかわしくないほど優しいその手付きに驚いて、少しバランスを崩してしまい、……そうして、彼女の胸に、抱きしめられていた。とんとん、と俺の背を叩き、頭を撫でながら、はしきりに、泣かないで、と繰り返し唱える。

「……もしもね、他の人がしたなら、許せないよ、こんなこと。他に手はなかったのって、そう言うと思う」
「…………」
「……でも、廻がやったことなら、私、責められない。だって、私のためでも、あったんでしょ?」
「……ああ、そうだ。お前のためになると、そう思った」
「……廻は、純粋だね」
「そうでも、ないだろう……」
「ううん、純粋だよ。組のために、お父さんのために、みんなのために、……それに、私のために、一番頑張ってきた廻を知ってるのに、怒れないよ、私」
「…………」
「……頑張ったね、廻。大変だったよね、苦しかったよね、……でも、だからさ、もう少しだけ、頑張ろうね。私もいっしょに、頑張るから。ね、頑張ろう? 廻」
「……も、一緒に?」
「うん。……私に出来ること、これくらいだから」
「これ、とは何だ」
「廻の苦しいの、肩代わりして、全部終わったときに、一緒にお父さんに謝ることと、……あとは、そうだね、」
「……ああ」
「もしもね、廻が地獄に行くことになったら、そのときも、いっしょに居ること、とか……」
「…………、」
「……廻、私ね、普通の女の子になれなくてもいいよ。だって私は、ずっと廻といっしょにいるつもりだもの。廻にいらないって言われるまでは、一緒に居るよ。……極道の若頭といっしょじゃ、どんなに個性が無くても、普通の女とは言わないでしょ?」

 ……そう言って俺の頬を撫でる彼女の指先が、かつて、壊理の手と繋がれていたとき、俺は。こんな光景は、見たくなかった、と。……そう、思ったのだ。何も知らない、俺にとって他人である子供と、俺にとって他人ではないが、仲睦まじく並んでいる光景は、妙に俺の心をざわつかせた。まるで、彼女が俺の知らない誰かになってしまうかのような、感覚だったのだ。だからこそ、繋がれたその手を引き離さねばと、思った。引き離し、これは何処も普通の子供などではない、これにはを連れていけやしない、こいつは何者にもなれない、と証明しなければならなかった。

「……話してくれて、ありがとう。廻が打ち明けてくれて、嬉しかった。……これからも私を、廻の共犯者でいさせてね」

 ……そして、これは俺一人の狂気ではないと、すべての解は今、によって導かれたのだ。

「……ねえ、廻」
「どうした、
「上に戻る前に、エリちゃんに、会っていってもいい?」
「……だが、」
「会うだけ。それで、謝るだけだから」
「……謝る? なぜだ」
「……私、エリちゃんを助けてあげられない。廻を護るために、エリちゃんを見殺しにするって、もう決めたから……私は、あの子のヒーローじゃなかった。……なのに、期待させてしまったことは、私の責任でしょ」

 血腥い、消毒液の匂いだけが満ちた、色気も何もない実験室で、しばらく俺は、の胸に抱かれていた。小さな背に腕を回し、簡単に壊せてしまいそうだと、この熱の重みを俺が噛み締めているとき、きっとも、同じことを考えていたのだろう、俺達は違いに、簡単に相手を壊し、殺せる力を持っている、他人から畏怖されるべき人間だ。そんな人間が二人並んで、相手を壊さずに生かし、共に生きることを望んでいる。……この事実以上の慰めは、今の俺には存在しなかった。……そうして、やがて、名残惜しくも身体を離すと、がぽつりと、壊理に一目会いたい、と言うのだ。俺としては、あまり気乗りはしなかったが、対面したところで、が気変わりを起こすこともまた、有り得ないと俺は知っている。「……着いてこい」どうせ当分は、目を覚ませるような状態ではないからと、俺はを連れて実験室を出る。そうして、壊理を隔離している見かけだけの子供部屋へと、二人で足を運んだ。
 ベッドの上に放り投げられた壊理は、予想通りに深い眠りに落ちて、足音や気配ではまるで目を覚まさない。殺気のひとつも見せれば、飛び起きるかも知れないが、が居る手前、それは避けたかった。……さて、どうしたものか、と逡巡し、起こすか? と一言、に問いかけようかと考えていると。

「……ごめんね、エリちゃん」

 ……そう、たった一言を掛けて、はそのまま、壊理の部屋を後にしたのだった。


「……先程のあれは、何か意味があったのか」
「あれ?」
「壊理に声を、掛けただろう。聞こえていたとは思えない。何の意味が?」
「ああ……そうね、意味はないと思う」
「なに……?」
「エリちゃんに、謝りたい。って、それも私の自己満足だし、エリちゃんは、私になんか会いに来てほしくないと思う。あなたを見捨てます、って言いに来ましたって言われても、困るでしょ」
「…………」
「でも、私が吹っ切るために、言いたかったの。私の為に、私はエリちゃんに会わなきゃいけなかったんだよ。……きっと、私が一番、エリちゃんの痛みを知っているはずなのに、」
「……、」
「……私、見捨てちゃった。廻と出会えなかったら、私がエリちゃんだったかもしれないのに、見捨てちゃ駄目だったのに。エリちゃんのこと、好きだったのに。なのに、見捨てちゃった……廻のほうが、大切だったから。廻のことが、一番好きだから」
「……、もういい。お前は、何も悪くない。……壊理のことは、仕方がなかったんだ」
「ううん、……私が、殺したのといっしょだよ。だって廻と私は、いっしょだもん……」

 その晩、食事にもろくに手を付けなかったは、部屋に戻ってからも、自分のせいだと肩を落として、ずっと泣いていたから。のことが気掛かりで、その夜俺は、彼女の部屋で眠りについた。すっかり焦燥しきっていただったが、「廻がいるから、眠れる気がする……」と言って、寝付きに時間は要したものの、なんとか眠ることは出来たらしい。小さな寝息を立てる背中を、そっと撫でて、薄い夜着一枚が隔てた胸に耳を当てて、彼女の心音を聞く。とくん、とくん、と生きている人間の躍動を知らせるこの温度を、得難いと思える俺で良かった。が俺から、離れていこうとしなくて、本当に良かった。……暗闇の中でいつも、この熱だけが俺に、俺は人だと指し示してくれるような気がするのだ。 inserted by FC2 system


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