毒として潔癖すぎる

「なー、オバホ、アウブレ知らね?」
「……は?」
「いや、アウブレの姉ちゃんが何処に行ったか、オバホなら知ってるかと思ってよ」
「……何の話をしている、乱波」

 その日、地下施設の廊下を、廻と歩いていたときのこと、だった。前方から向かってきた乱波と天蓋が、こちらに近付いてきたかと思うと、乱波が廻に向かって、不可解な問いを投げかけたのだ。問い、というべきか、言葉、というべきか。何かの暗号、合言葉の類かと思い、廻と乱波の様子を伺っていた私だったが、声を掛けられた廻はというと、怪訝な表情で、こいつは何を言っている? とでも言いたげな顔を隠しもしない。乱波の言うことはいつも突拍子がなくて、困ったものだ、と私も首を傾げていたものの、まあ、まずはオバホ、という呼び方を諌めるのが先か、……と考えたところで、乱波の先の言葉の意味に、はっと思い至った。

「……それ、ひょっとして、のことを言ってやすか?」
「は? 何処がだ、クロノ」
「そうだ、俺はアウブレの話をしている!」
「……?」
「乱波が言うオバホ、はオーバーホール。じゃあ、アウブレ、はアウトブレイク、では?」
「! ……何だ、その怪訝な呼び方は……?」
「すみません、オーバーホール様。私からも、乱波にその呼び方はやめろ、と言い聞かせたのですが……」
「そういう話じゃない。……何故、を個性名で呼んでいる?」

 そのとき、目に見えて、廻の纏う空気が変わったのを、肌で感じた。……廻が、を地下施設へと連れてきて、すべてを打ち明け、彼女に改めて受け入れられたあの日から、廻のメンタルは非常に安定していて、なおかつ、が地下に控えていることも多くなったことで、廻は日中からといっしょに居られる日も増えて、……組長を壊して以来、かなり不安定だった廻が、最近は随分落ち着いてきていたというのに。……だというのに、その時の廻の目つき、といったら、険しいとかそういった次元の話ではなかった。

「……を、二度とその名で呼ぶな」

 廻の機嫌を頗る損ねた乱波は、まあ、修復はされたものの、その場で廻に破壊された。そう言って釘を刺した廻の様子に、只事ではないと察した天蓋が、必死に頭を下げていたので、まあ、流石に乱波も、二度同じことはしないだろう、……とは思う。周囲に自身のことをオーバーホール、と呼ばせるようになってから、しきりに廻をオバホ、と妙な名で呼ぶ乱波には、廻も些か気分を害している様子はあったが、言っても聞かないと思ったのか、或いは案外、気に留めていなかったのか、自身の呼び名については、廻が乱波に対して、強く注意をしたことなどなかった。……だが、の呼び名ともなると、また話が変わってくる。
 大股で廊下を歩く廻の足取りは早く、乱暴で、半ば駆け足でその後を追う私にも、自然と緊張感が生まれ始めていた。……方向的にも、廻が向かっているのは間違いなく、地下空間内で、廻がへと与えた部屋だった。最近は、空き時間に廻がそちらに行っていることも多く、私も比較的、足を運び慣れているが、……しかし、他の人間は立ち入りが制限されている部屋でもある。は何も、地下内での出歩きを禁止されているわけでもないが、彼女は元々、自分の個性が理由で、あまり進んで出歩きたがらない。自分の個性で人を傷付けることを、必要以上に恐れる彼女の性質は、廻にとって、ある種、都合のいいものでもあった。
 廻は、幾らか異常、とも言える執着を、へと向けている。庇護しなければ、という責任感が長年を経て歪に変化したそれは、今や廻にとって一種の根本だ。当然、廻はを八斎衆に近づけることを、非常に嫌がった。元から組に属する舎弟たちであっても、廻はに他の誰かが近寄ることを、とにかく嫌がる。それはもう、病的なまでに、だったのだと思い知ったのは、エリが来てからのことだ。彼女に近寄る男が気に入らない、というだけなら、まだ真っ当な感性の範疇だったかもしれない。しかし、只々、姉のように母のように、世話役としてエリに歩み寄ると、彼女に懐いたエリの関係性にすら、廻は憎悪を募らせて、彼女をエリから引き離してしまった。あのまま、をエリの世話役にしておけば、計画の上では都合が良かったはずだ。……まあ、今でもエリはになけなしの救いを見出しているようでもあるが、強固な信頼を築けていた以前、の庇護下に居る自覚をエリが持っていた頃、あの状態であれば、廻がどれだけエリを壊しても、がすぐにエリを治せたはずなのだ。そうすれば、今より強固な洗脳、支配下にエリを置けていたはずなのに、……きっと、廻もそんなことは分かっていただろうに、それでも、良しとしなかった。の身に危険が及ぶ可能性がある、そんな仕事はもっと使い捨ての人員に割いておけ、と、廻もそれらしい理屈を並べてはいるものの。実際の本音は、恐らく其処にはない。

「……、入るぞ」
「廻! 針くんも、お疲れさま。今、お茶淹れるね」
「ああ」

 どうやら廻も今回は、茶を飲みながら話すことを許容する程度の余裕はあるようで、私は少し、ホッとしていた。が与えられた部屋は、簡素な地下空間の中で、エリの部屋とはまた別の意味で、異質だ。部屋の中には、暖かな色調の家具や雑貨が配置されており、生花なんかも活けてある。の趣味に沿ったインテリアを、廻が用意した部屋。地下空間における唯一の、“必要性”や“合理性”が存在しない部屋が、此処だった。その後、の採血等も地下で施術、管理をするようになっていたため、が地下に待機すること自体は、無駄というわけでもないのだが。特に上に戻る理由がなければ、日がな一日、この部屋に彼女を留まらせているのは、……に他の連中を近付けたくない、安全な場所で囲っておきたい、という、廻の暗い欲望の表れでしかない。これは、両者の合意で成り立つ、軟禁に他ならないのだ。
 部屋に備え付けられたウォーターサーバーから、電気ケトルへと水を注ぐ際にも、は手袋を付けている。口に入るものだから万が一があってはいけない、という彼女なりの配慮だったが、長年見慣れた習慣とはいえ、その姿はどこか、痛ましいものがあった。今に限らず、はほぼ一年中、室内外を問わずに手袋を付けているし、長袖のハイネックを着ている。熱くて熱中症になりかけても、他の人間を傷付けるよりはマシだと言って聞かない、頑なな彼女の態度は、……やはり、悲しいくらいにエリと似ている。廻が人を殺すのを何度も見て、自分も何度も殺されて、どうやらエリは、自分が傷付けられたほうがまだマシだ、という結論に至ったらしい。……それを見て私は、が、エリを助けたがるのも、当然だ……、と思った。はエリに、自分を重ねており、対して廻は、とエリは似ても似つかぬ存在だと思っている。

「紅茶で良かった?」
「ああ」
「ありがとうございます、いただきやす、

 黒とグレーと白、みっつのマグカップに注がれた紅茶の、ふわり、と立ち上る柔らかな香り。このカップひとつにしろ、この部屋の調度品はすべて、廻が、のために選んだものだということを、私は知っているのだ。

『……なあ、クロノ。のは、こっちの色で良いと思うか?』
『良いと思いますよ、オーバーホールのは黒ですかい?』
『ああ。それと、白いのも買っていく』
『予備、ですかね?』
『は? ……クロノ、お前の分に決まっているだろう』

 自分が足を運ぶために用意した部屋の備品を、わざわざ自分が店に出向いて調達して、挙げ句、私の分だと言って購入した、三つ目の白いマグ。それを、私は今、この部屋で、二人の向かいに座りながら、傾けている。ゆらゆら揺らめく湯気の向こうに、仲睦まじく並ぶ黒と灰色のグラデーション。二人の関係性に歪なものを感じつつも、混じり合うその在り方を得難いと思ってしまう私もまた、相当に毒されていた。

「……それで、廻。何か用事だった? それとも休憩?」
「ああ。……、お前、乱波に会ったか?」
「え、うん。……私が一人で暇そうだから、って。乱波くんがお話にきてくれて……」
「……乱波が? 一人で、此処に? ……危険だろう、。あれは、そう易々と気を許していい相手じゃない」
「うん……すぐに天蓋さんが迎えに来てね、天蓋さんも、そう言ってた」
「……そのときに、乱波と何か話さなかったか?」
「? えーと……」
「……乱波から聞いた。お前を、アウトブレイク、と呼ぶように、お前から言われた、と……」

 の元を訪れた理由を忘れてしまいそうになるほど、穏やかな空気がその場には流れていた。しかし、無論このまま何事もなかったことに、はならない。の前だからと、比較的落ち着いているだけで、先程の乱波への対応を思えば、廻は今、相当に怒っているはずなのだ。
 ……アウブレ、と妙な呼び名でを呼んでいた乱波は、こう言っていた。……と話した際に、彼女を名前ではなく、アウトブレイク、と呼んで欲しいと申し出があったから、乱波はそれに従っており、どうやら天蓋の方は、彼女に従うべきか迷って、先に廻から指示を仰ごうと考えて、廻を見つけて声をかけようとしたが、その前に乱波が廻に声を掛け、件の呼び方をしてしまったために話が拗れた……というのが、事のあらましのようだった。
 アウトブレイク、とは、廻が命名した、の個性の名である。……個性名を呼び名に用いる、という行為は、あまり良い意味であるとは言えない。現に廻が、その筆頭だ。オーバーホール、と周囲に彼が己を呼称させるようになったのは、組長を壊した日を境に起きた変化だ。その後も、自身は私とミミックを除く部下達のことは、名字で呼ぶものの、部下には己をオーバーホールと呼ばせている。まるでヴィランじみたその呼称を用いるようになったのは、実際にその通りで、廻は組長を手に掛けた自らを、最早仁義の道から反れた外道、……ヴィランであると、定義したからこそ、だったのだろう。

「……廻は、部下の人達から、オーバーホール、って呼ばれてるよね?」
「それは、そうだが」
「多分、私も廻と同じだよ。……私はエリちゃんを助けるのを諦めたから、自分はヴィランなんだと思うことにしたの。だから、ケジメのつもりで……」
「……その必要はない、お前はヴィランではない……、と、俺は、何度も言い聞かせてきたつもりだったが、足りなかったか?」

 自罰というものは、過ぎれば周囲を傷付けることもある。そして、事この二人に関しては、その生い立ちに由来するのか、という女は酷く自罰的な人間であり、エリの件に関しても、最終的には自分の意志で見捨てた以上、自分に責任がある、という結論に、彼女の中では帰結したらしかった。その結果、どんな影響が現れるかと言えば、この通りだ。オーバーホール、と名乗りヴィランと自身を定義した廻に、は倣った。悲しいことに、おおよそ同じ理由で、同じ結論にたどり着いてしまったの決断は、案の定、廻の首をも締めている。無論、にはそんなつもりは、なかっただろう。だが、かつて“ヴィラン”と呼ばれて石を投げられていたという彼女が、自らその汚名を受け入れてしまうことは、彼女に降りかかる火の粉を払い続けた廻にとって、本人以上に、耐え難いものがあるだろうということは、私にも想像出来る。にとっては飽くまでも己に対する戒めでしかなくとも、廻にとっては、それ以上の意味があったのだ。

「えー……、それが理由で、ヴィランじみた呼び方をさせようと考えたんで?」
「……クロノ、お前は少し黙って……」
「……そうよ。そうするべきだと、思ったから……」
「じゃあ、私もオーバーホールも、今日からはアウトブレイク、ってお呼びしないとですかね」
「えっ」
「アウトブレイクも、今日からはオーバーホールって呼んでみますか。呼びづらいですよ、長いし、私もつい時々、廻って呼んじまいますし」
「…………」
「……呼びたいですか? 呼んでほしいですか、アウトブレイク。ほら、オーバーホールにも呼んでもらいやしょう」
「……や、」
「はい」
「……や、やだ。廻のことは、廻ってよびたい……だ、だって、」
「はい、どうしやした?」
「廻が、オーバーホールって呼ばれてるの、見ると、……ざ、ざわざわする。……怖いの、だから、やだ……」
「……廻も、そうなんですよ。をヴィランみたいに呼びたくねぇんです、ねえ? 廻? そうでしょう?」
「……お前はちゃんと、オーバーホールと呼べ、クロノ……」

 ハァ、とため息混じりの言葉を零しながら、……まあ、どうやらこの場は、上手く収まってくれたらしいな、も、廻も。

「……クロノの言った通りだ、乱波達には俺から訂正しておく、いいな?」
「……うん、勝手なことしてごめんね、廻……」
「構わない」
「……あの、廻。私、廻って呼んでて、いいの? 廻、名前は捨てたって言ってるって、乱波くんとか、窃野くんからも聞いたの、でも、わたし……」
「好きにしろ。……お前に呼び方を改められると、調子が狂う。そのままで、いい」
「! わかった! ありがとう、廻。……私、嬉しい……」
「……そうか。それは、何よりだ」

 ……若頭補佐、という私の御役目を、音本などは羨ましい、代わって欲しい、などと言う。まあ、音本の廻に対する信奉ぶりを思えば、気持ちは分からなくもないが……、実際、若頭の補佐、なんてことをしていると、この二人のために、こんな風に立ち回らないといけないことも多々あるわけで、……実際には、音本が思うほど良いものではなく、それなりに苦労の多い立場だと、思うのだが。

「……そういえば、乱波がお前を探している様子だったが、何か心当たりはあるか?」
「……ああ、なにか欲しいものないかって聞かれたから、それかな?」
「へえ、乱波がそんなことを?」
「うん、私が退屈だろうから、って……」
「なるほど、そういう理由なら、まあ、乱波が考えそうではありやすかね。で、は何て?」
「部屋で育てる植物があったらいいなあ、って。ええと、多肉植物とか、観葉植物みたいな……」
「……
「はい、廻」
「必要なものがあれば……、否、必要じゃなくてもいい。少しでも欲しいものがあれば、今後は俺に言え。すべて、俺が用意する」
「! いいの?」
「駄目な理由がない。種類は? 希望はあるか」
「えーとね、だったら、……この本に載ってるやつで……」

 二人、肩を並べて、雑誌を開いて、覗き込んで、近すぎる距離感で。仲睦まじく話す、廻との姿なんて、見たことがない奴の方が多いから、組の連中は今やもっぱら、ふたりは加害と被害の関係なのだと誤認している。窓もなくこんな明るいだけの独房に閉じ込めているのだから、その指摘は実際、尤もでもあるのだが。「針くんは、どっちが良いと思う?」「……クロノ、お前も見ろ」なんて、外野の声など、何も気に留めていない風に言われると、まあ、別に良いかと思ってしまう。結局、誰に何を思われようと、私は何だって良かったのだ。私にとって重要なのは、この二人の輪に加わることでしかなかった。「そうですねぇ……」なんて、それらしく思案をするふりをしながら、二人の傍に寄って、今日も思ったよ。このまま二人がずっと、肩を並べて微笑んでいられたら良い、と。……廻の夢が、どうか叶いますようにと、私はそう、願ったのだ。 inserted by FC2 system


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