心許りの疵ばかり

 その晩の夜遅くに、廻は針くんや入中さん、それから側近である八斎衆の面々と、若衆を数名引き連れて、何処かへと出掛けていった。何処に行くのかは教えて貰えなかったけれど、廻が大世帯を連れて出るのは少し珍しいことで、何も言われなかったとは言え、私にはなんとなく、……廻は今夜、危ない仕事をしに行くのだな、と分かってしまったのだ。子供の頃からずっと、廻は腕っぷしが強い。それに頭の回転も早いし、冷静だし、廻が喧嘩で負けたところを、私は一度も見たことがなかった。
 それは、極道、という世界に入ってからも同じことで、多分きっと、今夜も廻は何事もなかったかのように、無事に帰ってくるのだろうと思う。……勿論、そう、信じているし、実際に、私の心配なんて要らないのだろうと思うのだけれど、どうしてかその日は、いつもより気持ちが落ち着かなくて、そわそわしてしまって。今夜は、屋敷から主力の面々が出払っているから、念の為、地下に居るようにと廻に言われて、出掛けていく廻を見送ってから、地下内でお風呂に入って、寝支度を整えはしたものの、やっぱり気持ちが落ち着かなくて、眠れそうにない。
 日中、今はほぼ地下のこの部屋で過ごしているとは言え、夜間、この部屋で眠ることはあまりなかったから、単純に枕に慣れないのもあるのかもしれない、とも思ったけれど、やっぱり、それ以前の問題のようにも思えた。……だったらもう、眠らずに、起きていようかな、と思って。私は本を読みながら、廻の戻りを待つことにしたのである。

「……超常、か……」

 幼い頃、施設に居た時分から、何度も何度も読み返している、超常とは病魔の一種である、という説について綴られた書籍。廻の一種のルーツでもあるそれを読み返す度に、私は思う。個性という、一見すれば恵まれた能力、天からの恵みのようでもあるその力に、こんなにも個人差、“斑”があることもまた、病原の類であることの裏付けなのだろうか、と。
 廻の個性は、汎用性も高く、実用性に富み、非常に強力なもので、……これは、廻には言ったことがないけれど、本当は、廻ならヒーローにだってなれたんじゃないかと、私は思っている。強力な個性で、私を背に庇ってくれた彼の姿は、私の中では昔からずっと、ヒーローのそれでしか、なかった。No.1ヒーローと謳われていたオールマイトは、私のような極道者にとっては、私の世界の破壊者でしかなくて。彼が皆に称賛されるヒーローだ、という実感が、私には持てない。No.2だったエンデヴァーの方がまだ、彼のような人種の方が見慣れているから、英雄としても現実味があると思う。でも、やっぱり、彼らは私のヒーローではないのだ。一度、人を殺してしまった人間を、彼らは二度と掬い上げてはくれなかったから、私はヒーローが好きじゃない。ヒーローは、私を助けてくれなかった。……それ以上に、ヒーローは、私の家族のことを、助けてはくれなかったから、嫌いだ。それも、二度も。私みたいな殺人者を野放しにして、それでも世界平和を謳う、あの人達のことが、私は嫌いで、そんな夢想家よりもずっと、……私にとっては、廻がヒーローなのだ。

 廻の個性は、非常に強力。そして、廻が見込んでスカウトしてきた八斎衆の皆さんは勿論のこと、入中さんや針くんの個性も、廻のように近接格闘向きではないものの、十分に戦闘に活かせる類のものだ。寧ろ、廻のサポートとして、二人の個性は、一種の理想的な形にも思える。……でも、私は、そうじゃなかった。
 私の個性は、はっきり言って“ハズレ”の部類だ。こんな能力ならまだ無個性のほうが余程生きやすい、という程度の、デメリットしか存在しない私の個性。だから私は、時々、針くんたちのことを羨ましい、と思うことがある。……もしも、私の個性も、もっと使い勝手が良ければ、強力で、廻の役に立てるものだったなら、お父さんに褒めてもらえるような力だったなら、……こんな事態を、防ぐだけの力が、私にあったなら。……今も、廻の隣で、戦える私だったなら。

「……わたし、だめ、ね……」

 ……やめよう、今夜の私は少し、弱っているらしい。考えたところでどうしようもないことを、ぐるぐると考えてしまう。……私は、何もしないほうがいい、私が何かをすれば、誰かが死ぬかも知れない、そんなつもりじゃなかった、殺したくて殺したんじゃない、なんて駄々は、一度だって通じてはいけないのに、私はそれを、押し通してしまったのだ。家族を殺したくせに、私は今日も、息をしている。裁かれずに、今日まで来てしまった。……だからもう、何もしないほうがいい。だって、また同じことが起きるとしたら、……きっと、その相手は、

 ……部屋に居ると色々考えてしまうから、ジャケットを羽織って、私は廊下を散歩してみることにした。個性が理由で極力、肌を隠したい関係で、私は少し出歩くにしても、上着を着て、足を怪我しないようにとしっかりめのブーツを履いて外に出る。今着ているジャケットはぶかぶかで私にはサイズが合っていないけれど、その分、身体を覆える面積が広いから、気に入っていた。元々は、廻の私物だった、というのもある。廻が着ていたものを私が貰った……、というよりも、廻が上でも下でも、私の部屋によくいるから、段々部屋に、廻の私物が増えてきて、そのうちのひとつを、肌寒いからと言って貸してもらって、ということをしているうちに、いつの間にか、私が着るようになってしまった。似たデザインのモッズジャケットを廻は何枚か持っているから、私が持ったままでも不都合がなかったようで、欲しいならサイズが合うのを買ってやる、とも言われたけれど、……これがよかったのだ、私は。廻が着ていたものが、良かった。誰も居ない静かな廊下をひたひたと歩く、今だって、これを着ていると、なんとなく。……気持ちが落ち着いてくるから、私はこれが好き。

「……?」

 迷宮のように広く入り組んだ地下を、しばらく歩いていると、かすかに誰かの声が聞こえた。もしかして、廻たちが帰ってきたのかな? と思い、声のする方へと歩いていくうちに、……私は、その声の主が誰なのか気づいていたのに。それなのに、引き返せなかった。
 声が聞こえたのは、迷宮の隅に追いやられた、ひとつの部屋からで。……エリちゃんが居る部屋から、必死に声を殺して泣く声が、廊下に反響して、聞こえてきていたのだ。エリちゃんの部屋の前に立つと、……もしかすると、いつもなら、この地下にも人がたくさん居て、誰かしらの話し声が廊下に響いているから、気付かなかっただけで、……いつも、ひとりで泣いていたのだろうか? と、嫌でも考えてしまう。……此処で、引き返すべきだと思った。もしも私が、エリちゃんを訪ねて、彼女を慰めたところで、それはその場凌ぎにしか、ならない。私は、彼女を助けてあげられない。こんなぐちゃぐちゃなおままごとの母親役を、勝手に降りた分際で。何が出来るというのだろう、何もしないべきだと、分かりきっているのに。……私には、誰も救えない。廻の助けになりたくて、それだって、只、待っていることしか出来ないくせに。……廻も救えないくせに、それ以上のものを望んだって、伸ばしたって、私の指が、届くはずが、

「……エリちゃん、眠れないの?」
「! ……っ、」
「急にごめんね、びっくりしたよね。わたし、です」
「……っ、、さん?」
「うん、……声が聞こえたから、その……大丈夫かな、って」

 白々しいその言い分に、言った自分が一番、吐き気を覚えていた。大丈夫なんかじゃないことを、きっと私が、一番よく知っているのに。あまり気安く近寄っては、怖がらせるかもしれないと思って、少しだけ開けたドアのすぐ近く、彼女から幾らか離れた位置から、ベッドの上に蹲るエリちゃんに向かって声を掛ける。……声を掛けはしたものの、私に出来ることは、他にない。
 もしもここで、私がエリちゃんの手当てをしたって、何の意味もないことを、私はよく知っている。寧ろ、少しでも調子が回復したなら、その分余計に、明日の彼女が、痛い目に遭うだけなのだろう。声をかけたのも、部屋を訪ねたのも、全部、無駄だ。合理性に欠ける、到底、意味のある行動とは思えなかった。エリちゃんだって、きっとそれは分かっている。私に助けを求めても無駄、……敏いこの子は、そう、分かっているのだろうに、……エリちゃんは、私の姿を見て、転げるようにベッドから飛び降りると、たた、と縺れる足で、必死に。私の足元へと、駆け寄ってきたのだ。

「……さんっ、」

 ぎゅう、と私のジャケットの裾を掴む手。そして、少し遅れて、そのジャケットが誰のものかに気づいて、はっ、と青ざめる表情。汚したら怒られると思ったのか、本能的な恐怖で触れることを拒んだのか、そのどちらなのかは私には分からない。けれど、ジャケットから手を離したエリちゃんは、さん、とか細い声で、再度私の名前を呼ぶ。……思わず、目線を合わせるようにその場にしゃがむと、恐る恐ると、伸ばされた手に、……ぎゅう、と控えめに、けれど強く、縋るように抱きつかれていた。

、さん……」
「……エリちゃん……」
「も、う、……会えないと、思ってた……」
「……うん、ごめんね」

 ぐすぐすと泣くエリちゃんの手足には、ぐるぐると幾重にも包帯が巻かれていて、以前、私が世話を焼いていた頃に比べて、伸びた髪はぼさぼさで、大した手入れもして貰えていない様子だった。衛生状態と必要最低限の体力さえ維持していれば、後はどうだっていい、と言う意図が、ありありと見て取れるくらいに、酷い有様だ。……そんな状態でも、この子は、私を見つけて駆け寄ってくれるのだな、と。そう思うと、どうしようもないやるせなさに襲われる。エリちゃんがどんなに縋ってくれたとしても、助けを求められたとしても、……私は、彼女を助けられない。助けないと、そう、決めてしまった。……震える小さな手を離したのは、私なのに。突き放すことも、大丈夫だと言ってあげることも、何も出来ずに、何もせずに、私はしばらく、小さく声を殺して泣くエリちゃんの背を、ぽんぽんと叩いていた。それしか出来なくて、……それ以上、何をどうすればいいのか、分からなかったのだ。声を殺し、目を瞑って、喚き散らすことはなく、すんすんと静かに涙を流すその泣き方は、……虐待に慣れている、子供のそれだと、私はよく、知っている。

「……、さん……」

 私も昔、その泣き方しか知らない子供だったから。

「……たす、け、」


「……、こんなところにいたのか。部屋に居ないから、探したぞ」

 微かに開いたままになっていたドアの隙間、その向こうに、……廻が、立っていた。元より陰鬱な雰囲気が立ち込めていたこの部屋の空気が、ぴしり、と張り詰めたのを、私も肌で感じる。……それに、それよりも、何よりも、エリちゃんの表情が、凍り付いていた。

「……廻、戻ってたの?」
「今、戻ったところだ。……だが、取り込み中、だったかな」

 ちらり、と足元……エリちゃんへと視線を落とした廻の目は鋭く、見たことがないくらいに冷たい。私にも分かる殺意が篭もった目で、幼い子供を射る廻に、……私は愚かにも、ようやくこの問題の本質に、気が付いたのだった。

「……ううん、眠れなくて、エリちゃんと少しお話してもらってた、だけ」
「……それなら、部屋に戻って、少し話さないか。俺もまだ、目が冴えていてな。相手をしてくれ、

 私がエリちゃんに接することで、廻が潰れてしまうと思っていた。でも、そうじゃない。……逆だったのだ、話が。私がエリちゃんに接することで、エリちゃんが殺される。彼女には利用価値があるから、という一種の理性、枷を飛び越えてしまいそうな目で、殺意を隠さずに顕にする廻を前に、……やっと、分かった。私に何が出来るとか、何も出来ないとか、そういうことじゃない。もっと単純に、……このまま私が干渉を続ける限り、エリちゃんは廻に殺される。“価値”を十分に果たした後に、……逃げることも助かることもなく、彼女は処分されてしまう。
 ……足元にしがみついた熱が、離れていく。無理もないことだ、いくら子供だって、あんなにも明確な殺意を、それを実行できる大人から向けられれば、そうなる。ましてや、エリちゃんは既に何度も、廻に壊されているのに。……軽率なことをした、と気付くのが遅かった。……まさか、何者かになれると、まだ思っていたのだろうか、私は。何もしないべきだと、とっくに分かりきっていたはずなのに。

「……うん、お茶淹れるね。……エリちゃん、またね。おやすみね」

 個性というものは育て方次第なのだという。それならば、もしも、彼女の個性を育てるだけの猶予が、環境があったのなら、違う結末もあったのかもしれない。エリちゃんにもっと時間があったら、私達に、正気が残っていたなら、彼女を人として育てることで、“八斎會を助けるヒーロー”になってもらおう、という考え方だって、出来たのかもしれない。でも、実際、もう何もかもが遅くて、私達には悠長なことを言っていられるだけの時間がない。……そうだ、余裕がないのだ、何もかもが切迫しているこの状況で、愚かだったのは、私。考えなしだったのは、私。廻の気持ちも、エリちゃんの気持ちも、……何も分かっていなかったのは、私。

「……廻、おでこのところ、怪我してる」
「ん、……ああ、これか。外で少し、な……」
「……揉めたの?」
「まあ、多少な。大したことはない、この傷は、態と残しているだけだ、あちらさんへの、後々の牽制としてな」
「……痛くない?」
「ああ、お前が気にするようなことじゃない」

 静かすぎる廊下を、廻と並んで部屋まで戻る間、妙な緊張感に、胸がざわざわして、……部屋に戻って、お茶を淹れて話している最中も、廻の額に残る真新しさのない傷が、ひたすら私の不安を煽った。態と残した、というその傷は既に塞がっていて、……ということは恐らく、本来はもっと酷い怪我をしていたのを、修復したから小さな傷跡だけが残った、のだ。……廻は、喧嘩が強い。その廻に、それだけの怪我を負わせる相手に、部下一同を連れて、今宵、廻は会いに行っていた。きっと、それなりの規模の戦闘があったのだと思う、……それなのに、戻ってきた廻を、私、出迎えてあげることすら出来なかった。あんなこと言っておいて、そのくせに、廻が不在の間に、エリちゃんに会っていたのだ、私。

「……廻、ごめんね」
「……何が?」
「廻のこと、出迎えたくて待ってたのに、おかえり、って言えなくて……それに、」
「……今からでも、言ってくれないのか」
「え、」
「言ってくれ、。……俺は、そのために帰ってきたんだ」
「……おかえり、廻」
「……ああ、ただいま」

 マグをテーブルに置いて、廻に向かって、そっと手を伸ばして、……はっ、と気づいて、手袋を外してから、廻の柔らかな髪を撫でる。すると、満足げに目を伏せて、……するり、と私の手を絡め取ると、……廻はそのまま、私の手首に小さく歯を立てた。何も、思い切り噛み付いたわけではない。……だが、廻の性質と、私の個性を両方考慮した上で、言うならば。……それは本当に、恐ろしい行為で、私は思わず、小さく息を呑む。

「……ゆめゆめ、忘れてくれるな。俺はお前が離れていくことに耐えられない、……以前にも、言ったはずだが」
「……分かってる。離れたりしないよ、……エリちゃんには、もう会わない」
「……頼むぞ、

 薄っすらと残った歯型の上に、ちゅう、と吸い付かれて、日の下に出ない私の青白い肌に、蒼紫色の痕が残る。けれど、これもすぐに消えてしまうのだろうと思うと、私は、……少しだけ、悲しかった。私はこんなに廻を傷付けているのに、廻は、私を決して傷付けない。いっそのこと、私だけを傷付けたがる彼だったなら、私達だけで傷付けあえたなら、みんな幸せだったかもしれないのにね。 inserted by FC2 system


close
inserted by FC2 system