火と銀に宿る化物

 お兄さまから、叱られてしまった。……でも、あれは叱られたという、只のそれだけだったのだろうか? ……果たして、本当にそう、だったのだろうか。
 確かに、私がお兄さまから注意を受けたことだけは事実だったけれど、「もう兄と呼ぶのはやめなさい」と私に囁きかけるお兄さま──今後はフェイザーさん、と呼ばなければならないのだろうか──彼はあのときに、驚くほどに穏やかな眼で私を見ていたのだ。──お兄さまの薄水色の瞳は酷く凪いで、其処にはまるで海原のような慈しみに満ちたまなざしを湛えていて、……それで私は、訳が分からなくなってしまった。

 兄と呼んではいけないと、そう言われてしまったのは、……私が悪い子だから、なの? ──私がお兄さまの言い付けを破って、彼の目を盗みMIK本部の外に出ては、六葉町へと出向いていたことに気付かれてしまったのだろうか。
 ──お兄さまが異星人完全排除を唱えだした頃から、私にはどうにも本部を離れて外に出かけることが怖くなってしまったし、──何よりも店長さんと仲良しだった、六葉町の“ボイルド・ベーグル・レクイエム”は、何度出向いてみたところでいつも定休日で、店長さんやみつこさんに会ってお話しするどころか、お店でカレーパンを買うことすらも叶わず、その結果、六葉町に出向く理由も最近はあまりなくなってしまったから、近頃は本部を抜け出すこともなかったけれど、──それでも。
 ──もしかすると、お兄さまはずっと前から、私がお兄さまの目を盗んでは抜け出していることに気付いていて、それで、……私に愛想を尽かして、もう家族から他人に戻りたいと、……そう、思ってしまったのかもしれない。

 ──もしも、その通りなのだとすれば、間違いなく私に落ち度がある。……そもそも、いくら外に出ることを許されない生活が窮屈だったとはいえ、どうしても外出がしたかったのなら、まずはお兄さまに頼んでみればよかったのに。……もしかすればお兄さまだって、許可をくださったかもしれないのに。きっとお兄さまは許してくれないからと勝手に決めつけて、その可能性を考えてもみなかった私が、絶対に悪い。
 けれど、それにしては腑に落ちないこともある。……どうしてお兄さまは、兄と呼ぶなと突き放しておきながら、──あのとき、私の唇を優しく塞いだり、したのだろうか。

「──、其処の書類を取ってくれるか」
「はい、おに……」

 ──お兄さまのお考えが、分からない。彼から突き放されたあの日以降も、相変わらず私は総帥直属の秘書官として、お兄さまの執務を幾らかばかりお手伝いする日々を過ごしていて、──仕事とプライベートは別だと言うそれだけのことに過ぎないのかもしれないけれど、私を嫌いになってしまったのかもしれないお兄さまは、相変わらず私を傍に置いてくださっているし、私の外出制限が緩和されるようなこともなかった。……もしかすると、今後は傍に控えていなくてもいい、だなんて。そんな風に言い捨てられるかもしれないという可能性にだって、私は怯えていたと言うのに、そんなことはこれっぽっちも起き得なかったのだ。

 お兄さまの義妹として竜宮家で共に暮らすようになってから、──否、それよりもずっと前、異星人に襲われたところをお兄さまに助けられたその日から、私は彼を慕い尊敬しているし、実弟のトレモロくんだってお兄さまのことは大好きだったから、彼から教わったお兄さまの素敵なところも私はたくさん知っているし、そういうものを全てひっくるめた上で、私は竜宮フェイザーと言う人物のことを、今も変わらず大好きだと思っている。
 ──だからこそ、既に関係性が変質してしまったようでありながらも、特に変わり映えのない日々をお兄さまの傍で自分が送っていることが、私にとっては酷く不可解で、……そんなことを考えながらも、執務机にて書面に視線を落とすお兄さまの横顔を見つめていたら、思わずぼうっとしてしまっていた私は、──無意識のうちに。……お兄さま、と。固く禁じられたその呼び方が口から滑り落ちてしまっていて、……慌てて口を覆う私を見つめながらもお兄さまは、「……」と、静かに私の名を呼ぶものだから、──私はといえば、一気に頭が冷えていくのをはっきりと肌で感じていた。

「ご、めんなさい、フェイザーさん……言い付けを守らなくて……」
「言い付け、とは?」
「……外に出てはいけないと、そう言われていたのに……私、勝手に抜け出して……だから……」

 ──おずおずとそのように切り出したのか細い声に、……私は思わず、少しだけ呆けてしまっていた。……まさか、今までバレていないつもりでいようとは。可愛いが私の元から逃げ出そうなどと思わないようにと、以前から彼女にはしっかりと見張りを付けていたし、仮にMIK本部の外に出たとしても、その後ろに護衛が同行していたことに、どうやら、はまるで気付いていなかったらしい。
 ……ああ、本当に彼女は、危なっかしくて心配になる。──これでは、やはり今後も、迂闊に一人では出歩かせられたものではないな。外出時には必ず私かトレモロが同行するように徹底しなくては。──何しろ、外には危険が幾らでも転がっている。──例えば、“外を歩いていただけでも、ラッシュデュエルに負ければ、カードにされてしまっても文句は言えない”のだからな。そのような場所などを、とてもではないが彼女には出歩かせられない。
 ──しかし、この様子では。どうやらは、私が先日に「兄と呼ぶのをやめなさい」と、そう告げたのは、彼女の脱走癖が原因で、……その上でこの様子はまさか、私がに愛想を尽かしたとでも思っているのだろうか。……であれば、それは、酷い思い違いだと、そう教えてやらなければ彼女が可哀想だろう。

、それはお前の思い違いだ」
「え……」
「……確かに、以前からお前が外に出ていることは知っていた。……私の目を盗み、六葉町に出かけていたな?」
「……はい……」
「だが、今更それを咎める気は私には無い。……窮屈な生活をさせてしまって、すまないな。だが、これもお前を護るためだと理解してほしい」
「……はい、ごめんなさい……」
「……私は何も、お前に愛想が尽きた訳では無いよ。私とお前は、今後も家族だ」
「え、……で、でも、お兄さまって、呼ぶなって……」
「ああ。……もうじき夫婦になるのだから、それは当然だろう」
「……え?」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、まるで、投げ渡された言葉の輪郭をそうっと確かめるかのように、は私に言われた意味を必死に理解しようとして、──それでも、まるで理解が追い付いていないのか、書類を握ったままの指先はかたかたと小さく震えていた。──彼女から少し離れたデスクから見ていても、その動揺ぶりは幾らか不憫で、──私は椅子から立ち上がると彼女の傍へと歩み寄って、白い手から書類を受け取りながらも空いた華奢な指先を絡め取り、水面のように揺れている澄み切った瞳を覗き込む。──ああ、やはりお前の眼は美しい。水晶玉のように潤んだ艶やかさを湛える目が、……たとえ、眼前の私をまるで恐怖を帯びたまなざしで見上げていようとも、……残念ながらお前は、もう何処にも逃げることなどは叶わないのだ。

「……私とトレモロと、家族で居たいだろう?」
「……それは……はい……」
「であれば、本当の意味で家族になるために、お前は私の妻となればいい」
「……で、も、今のままでも、家族、って……」
「兄妹のままでは、永遠に共に在ることは叶わないだろう。……それとも、お前は今更、私から離れても生きていけるとでも思っているのか?」
「……い、や、です……わたしは、お兄さまの傍に……」
「ならば、私の言うことを聞いておいた方が身のためだぞ、
「で、でも……きょうだい、なのに……そんなの……おかしい……」
「……何を言う? お前と私は、元より兄妹などではないだろうに」

 我々に血縁関係など、端から存在していないのだから、これはそれだけの話だろう? ──そう言って宥めるようにの髪を撫ぜる私を見上げて、……まあるい瞳からはぼろぼろと、透明な雫がとめどなく溢れ出してしまった。「……なんで、そんなこと、言うの……?」嗚咽交じりに零れだす言の葉は次第に明瞭さを欠いて、理屈などはとうに帯びておらず、只彼女の感情任せに転げ出ては自身の情緒を刺激するそれらの音を聞きながらも、私は妹をあやす兄を装って、彼女を抱き寄せては何度も何度も、繰り返し頭を撫でてやるのだった。
 ──ああ、お前は、なんと物分かりの悪い子だろうか。可愛い余りに、甘やかして育ててしまったのかもしれないが、私はこの先もお前を猫可愛がりしてしまう自信があるものだから、なんとも困った子だ。……お前の兄が言うことが間違いだったことなど、一度たりとも無かっただろうに。──我々は兄妹などではないからこそ共に生きていけるのだと、愛し合うことさえも、母なるこの星に布かれた法の下に許されているのだと、……これからじっくりと、お前に教えてあげよう。──お前が兄と信じる男は、出会った日からずっと、お前に焦がれんばかりの情動を抱いているのだ、妹よ。……お前ひとりの力では、到底抜け出すことなど叶わないと知れ。 inserted by FC2 system


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